ラディカルな受容 タラ・ブラック 

プロローグ 私の何かが間違っている 

 

 大学に通っている頃、週末に私は年上の22歳の頭のいい友人と山にピクニックに行った。テントを張ったあと、川のほとりに座って、岩々のあいまを水が渦巻いて流れるのを眺めながら、人生について語り合った。話の途中で彼女は自分がいかに「自分自身の親友になれるか」について学んでいるのだと語った。

 すると途方もなく大きな悲しみの波が私に押し寄せてきた。私は自分を抑えきれず、すすり泣きはじめた。私は自分自身の親友になど、とうていなれっこなかった。

 私はそれからずっと心の中の裁判官にいじめられてきた。裁判官は残酷で、非情で、あらさがしばかりして、人を酷使し、しばしば姿を見せず、いつも何かをしようとしていた。私は慈しみも、親切心もなく、自分自身にたいしてのように友人と接することはできないことを知っていた。

 導き出された仮説は「根本的に私の何かが間違っている」だった。そして私は基本的に自分がだまされていると感じている気持ちを必死に制御し、それが何かを明確にしなければならなかった。大学では、私は駆られるように政治的な活動家になり、社会生活にフルに身をささげるようになった。私は食べ物に夢中になったり、達成感に浸ったりすることからくる痛みは避けた(またあらたに痛みをつくることになるのだが)。

 悦楽の追求はときには健全なものだった。友人との関係もそうだった。しかしときにはドラッグやセックス、ほかの冒険的なことなど、一瞬のスリルを求めることもあった。世間の目から見たとき、私は便利屋さんだった。心の内側はといえば、私は心配性で、動かされやすく、しばしば落ち込んだ。人生のどの段階においても私は心がやすらいだことはなかった。

 ぱっとしない気分が深い孤独と手に手を取って進んだ。十代のはじめ、私は半透明の球体の中に住んでいると想像することがあった。その球体は私をまわりの人々や生活から隔離しているのだった。

 自分自身にたいして良好な感触をもち、他者との関係もうまくいっていると、泡は薄くなり、目に見えないひとすじの煙のようなものになった。自分自身にたいして折り合いが悪くなると、壁は分厚くなり、他者からもはっきり見えるに違いなかった。内側に閉じ込められて、空虚さと孤独の痛みを感じた。年を取るにつれて白昼夢は消えていき、だれかを引きずりおろしてしまう、自身が拒絶されるかという恐怖とともに生きていくようになった。

 大学の友人といっしょにいるとすべてが異なっていた。私は彼女を信頼していたので心を完全に開くことができた。ハイキングのつづく二日間、山の尾根の上で、ときおり彼女と言葉を交わし、ときおり黙ったまま座り、こうして揺れ動く気分のもと、深く何かが足りないという感覚のなかに憂鬱、孤独、常習者的なふるまいが隠れていることを理解し始めるようになった。

 人生において何度も訪ねることになる苦悩の核心部分を私はうすうす感じていた。自分のひよわさが外部にさらされていると感じたとき、私は直感的に、この痛みと真正面から向かい合うことによって、癒しの道に入ることができるのだと気づき始めていた。

 日曜の夜、山から車で降りるとき、私の心は軽くなっていたが、なおも痛みを感じていた。私は自分自身にたいしてよりやさしくありたいと切望した。私の心のなかの体験と親しくなりたいと、より親身に感じたいと、生活においても人々となごやかにしていきたいと切望した。

 何年かのち、こうした切望があることによって私は仏教の道にいざなわれた。そのとき、自分が無価値であるという感覚、漠然と感じる不安、そうしたことと直接向き合うことのできる教えや実践があることを知ったのである。自分が経験していることを明確に見る方法を彼らは教えてくれた。そしてどうやったら自分の人生に慈悲の心を結びつけることができるかを示してくれたのである。

 またブッダの教えによって、苦悩のなかで自分が孤独であり、それは個人的な問題で、自分のあやまちによって引き起こされたのだという痛々しい、間違った考えをいだいていることに気づかされたのである。

 過去20年以上にわたって、心理学者として、仏教の教師として、私は何千人ものクライアントや生徒たちと仕事をしてきた。彼らは気分がよくないであろうに、どれだけの痛々しい重圧を感じているかを明かしてくれた。私たちの会話は「十日間瞑想リトリート」のさなかであろうと、毎週のセラピー・セッションのときであろうと関係なくはじまったものである。苦悩、すなわち傷ついているのではないか、自分に価値はないのではないかという恐れは、基本的におなじだった。

 多くの者にとって、何かが欠けているという感覚は、すぐそこの角を曲がってやってこようとしているものである。だれかが成し遂げたという話を聞いたり、批判されたり、言い争ったり、仕事でミスをしたりするだけで、私たちは気分が悪くなってしまうものだ。

 私の友人はこう言った。
「わたしの何かがおかしいという感覚は、目に見えない有毒ガスをいつも吸っているようなものよ」

 自分には何かが欠けているという感覚のレンズを通じて人生を送るとき、私が「価値なしの夢うつつ状態」(trance of unworthiness)と呼んでいる状態に私たちは幽閉されている。夢うつつ状態の罠にかかって、私たちは自分たちが何者なのかという真実を把握することもできなくなっている。

 私が教えている瞑想リトリート・クラスの生徒が、彼女自身が経験した夢うつつの状態で生きることの悲劇について語ってくれたことがある。マリリンは何時間も死にかけている母親のベッドのかたわらに座っていた。母親のために本を読んで聞かせているうちに夜は更けていった。彼女は黙想しながら、母親の手を握り、何度も「愛している」とささやきかけた。マリリンの母親はほとんど意識がなかったが、ときおり呼吸が乱れ、激しくなることがあった。

 夜明け前、突然母親は目を開け、娘を見据えた。

「知っていると思うけど」と母親はやさしくささやいた。「わたしの人生は何かが間違っていたと思うの」

 かすかに首を振ったが、それは「なんて無駄なことだったの」と言いたげだった。彼女は目を閉じ、ふたたび昏睡状態に戻っていった。数時間後、彼女はこの世を去った。

 自分の何かが間違っていると信じ、貴重な人生を浪費したと気づくのに死の床に就くまで待つ必要はない。しかし何かが欠けているという感覚があまりにも強いため、夢うつつ状態から覚めるためには、内なる決意だけでなく、心と精神の積極的なトレーニングが必要である。

 仏教の意識の実践トレーニングによって、夢うつつ状態の苦悩から自身を解放することができるのだ。そのトレーニングとは、いまこの瞬間何が真実であるかを認識することであり、開いた心の目で見たものを何であれ抱擁することである。この気づきと慈悲の開拓こそ私が「ラディカルな受容」と呼ぶものである。

 ラディカルな受容とは、親しむことができず、恐ろしくて、激烈なできごとと戦う習慣を真反対にするものである。それは何年間も自分自身を無視してきたこと、何年間も自分自身を判定し、ぞんざいに扱ってきたこと、何年もこの瞬間の経験を拒否してきたことに対する対抗策である。ラディカルな受容とは、喜んで自分自身と人生をあるがままに体験することである。ラディカルな受容の瞬間とは、純粋なる自由の瞬間である。

 20世紀のインド人瞑想大師シュリー・ニサルガダッタは、心を込めて自由の道に入るよう勇気づける。
「私があなたがたにお願いするのはこのことだけです。あなたがた自身の愛を完全なものにしなさい」

 マリリンにとって死にゆく母の最期の言葉は、これが可能であることを彼女に悟らせた。彼女はつぎのように述べている。
「それは母の別れの贈り物でした。母とおなじように自分の人生を失ってはいけないと私は気づいたのです。愛から、そして母親のために、人生のために、もっと受け入れること、もっとやさしくあることを決意しました」
 私たちはだれもがおなじ選択をすることができる。

 ラディカルな受容を実践するとき、まず私たち自身の人生の恐怖と傷からはじめる。そして慈悲の心がはてしなく広がることを発見する。慈悲の心を保ちながら、私たちは自由にこの生きている世界を愛する。これはラディカルな受容の祝福である。「私の何かが間違っている」という苦悩から自分自身を解放するとき、私たちは信頼し、自分たちがだれであるかを十分に表現することができる。

 この本の教えによってみなでいっしょに目覚めることを私は祈ります。それぞれが純粋意識と、もっとも深い本性である愛を見出せるよう祈ります。愛する意識がすべての生きているものたちを抱擁できるよう祈ります。