ラディカルな受容 タラ・ブラック 

1章 自分に価値はないと夢うつつに思う 

 

夜、あなたはどこかを歩いている 

突如、すべてがあきらかになる 

まさにいま逃亡しようとしていることが 

そのためやましい思いをしていることが 

あなたは複雑な指示を読み間違えたのだ 

そもそもあなたは会員ではないはずだ 

あなたは会員証をなくしたのだから 

あるいは最初から持ってなどいなかったのだから…… 

ウェンデル・ベリー 

 

 何年もの間私はひとつの夢を繰り返し見た。その夢の中で私はいつも何かにとらえられ、どこかへ脱出しようともがくが、うまくいかなかった。ときには私は丘を駆け上がった。ときには岩をよじ登った。あるいは流れに逆らって泳いだ。ときには愛する者がトラブルに巻き込まれ、つづいて何か悪いことが起こり、私は半狂乱になった。それなのに身体はといえば重く、疲れ切っていた。まるで糖蜜の中を泳いでいるかのようだった。

 問題を処理するべきであることは知っていた。でもどんなにがんばったところで行くべきところに行くことができなかった。完全にひとりきりになり、失敗の恐怖の影に私はおびえた。そして私は自分が仕掛けたジレンマの罠にみずからかかってしまった。しかしこの世界に存在するのはそれだけだったのだ。

 この夢は、自分に価値はないという感覚の本質をとらえていた。夢の中で私たちはしばしば与えられた状況に反応するよう運命づけられたドラマの主役になっている。選択し、考える余地があるのに、私たちはそのことに気づいていない。感覚が麻痺して物語の中にとらえられている私たちは、失敗するかもしれないという恐怖におびえ、いつもおなじ状態に陥ってしまう。

私たちは目覚めた夢の中で生きている。その夢は私たちの人生の体験を定義づけ、限界を定めている。どこかへ行きたい、もっといい人になりたい、何かを成し遂げたい、間違いがないようにしたいともがいているとき、世界のほかのことは背景にすぎない。

夢の中でのように、私たちは自分たちの物語を、真実の、思わずつりこまれてしまうリアルな物語であるかのようにみてしまう。私たちの注意のほとんどはそれに費やされてしまう。ランチを食べるときも、車で仕事先から帰宅するときも、パートナーと話をするときも、夜、子供たちに本を読んで聞かせるときも、心配事や悩み事の種は尽きない。人生の意味を失った感覚麻痺の状態のとき、どんなにがんばったところで、あと一歩でゴールに届かないように思えてしまうものだ。

 自分に価値はないと夢うつつに思い込むことと、他者から、あるいは人生から疎外されていると感じることとは切っても切れない関係にある。もし私たちが欠陥品であるなら、どうやって社会に帰属するというのだろうか。それは負のサイクルである。欠陥品であると感じれば感じるほど、疎外感は増し、自らの弱々しさをいっそう感じるのである。

 傷つくのではないかという恐怖の下で、より根本的な恐怖、つまり何か人生が間違っているのではないか、何か悪いことが起ころうとしているのではないかという恐怖が入り込んでいる。この恐怖心にたいして私たちは、問題の根源と考えられる私たち自身、他者、人生にたいし、批判的になり、嫌悪感を覚えるのである。しかし負の要素を外に排出したところで、私たちは依然として弱々しいままである。

 自分が無価値で、他者から疎外されているという夢うつつの思い込みは、さまざまな苦悩の形であらわれる。人によっては、もっともひどいあらわれは依存症である。依存するのは酒かもしれないし、食べ物やドラッグかもしれない。ほかの人にとっては人間関係かもしれない。彼らは特定の人や人々に依存しているのである。そうすることによって彼らは完璧であると感じ、人生は生きるに値すると思うのだ。

 ある人々は長時間、へとへとになるまで仕事をすることによって重要性を感じることができた。それは私たちの社会が喝采することもある依存症だった。ある人々は敵を創り出し、いつもその敵の世界と戦争をしている。

 私たちは欠陥品で存在する価値がないと信じこんでいるかぎり、私たちは愛されるべきものであると考えることはできない。私たちの多くは心の底に憂鬱をいだき、他者にたいしても絶望感をもっている。もし私たちが退屈で、バカで、身勝手で、危なっかしいと他者に思われたら、拒絶されてしまうのではないかと恐れている。もしそれほど魅力的でなかったら、親しく、あるいはロマンチックに愛されることはないのではないかと心配している。

 私たちは無条件の一体感を熱望している。自分たち自身と、あるいは他者と、気兼ねなしに、完全に受け入れられて、くつろぎたいのだ。しかしこの人生は無意味であるという感覚があるために、永遠に甘い一体感には手が届かない。

 私たちの人生が痛々しく、手に余るとき、この無価値の思い込みは強まる。身体の病気や精神的憂鬱は私たち自身の失敗だと考えてしまうかもしれない。劣悪な遺伝子や修練不足、意思の力の欠如によるものとみなすのだ。

 失業や手痛い離婚は個人的な失敗の結果によるものと考えがちである。もっとうまくやれば、私たちがもっと違っていれば、物事は正しくうまくいっていただろう。ほかのだれかを批判する一方で、私たちは暗黙のうちに第一にその状況になってしまったことにたいし、自分たち自身を責め立てるのである。

 もし私たち自身が苦しみ、痛みを覚えるのでなくても、パートナーや子供など身近な存在がそのような状況に置かれたら、それが私たちの不適格からきていることの証明になると考えるだろう。私の心理セラピーの患者の13歳の息子が注意力散漫という診断を下されたことがあった。母親はできることならなんでもやろうとした。医者、ダイエット、針灸、薬、愛情、すべて試した。しかし息子は不登校になり、社会的な疎外感を覚えるようになった。

 彼は自分が負け犬だと思った。そして心痛とフラストレーションから怒りを爆発させ、暴言を吐くようになった。愛情を注いでもうまくいかなかったので、彼女は悲嘆に暮れ、ほとんど息子を見捨てようかと思ったほどだった。彼女はもっと何かをやらなければと感じた。

 自分に価値はないという思い込みがあるからといって、いつも明確に恥を覚えるとか何かが足りないという気持ちを見せるわけではない。仲のいい友人に価値がないという思い込みについて書いていること、そしてそれがどれほど広がっているかについて話したことがあった。彼女は意見を述べた。
「私のチャレンジは恥ではないわ。それはむしろ誇りよ」

 この成功した作家であり講師の女は、いかに簡単に他者よりも優越であるという感覚にとらわれるか語った。彼女は多くの人々がメンタル的にのろまで、退屈であるかを発見した。じつに多くの人が彼女を称賛するので、自分が特別で重要だという気持ちになった。

「私は躊躇しながらもそのとおりだと思ったわ」と彼女は言った。「たぶん恥という言葉が当たるのはここのところね。でも私は人々が尊敬のまなざしで私を見上げるのが心地よかった。自分自身について気持ちよく感じるのはこういうときね」

 私の友人は価値がないという思い込みとは逆の軽薄な面を演じてきった。乾燥期のあいだ、すなわち彼女が生産的でも、役に立つわけでもなく、人に称賛されるわけでもない時期、自分に価値がないという思い込みのなかに沈み込んでいった。才能が認められたり、自分の強さを楽しんだりする以上に、彼女は自分が特別で、卓越しているという感覚を再確認する必要があった。

 私たちは自分がかならずしも善良ではないことをよく知っているので、リラックスすることはできない。私たちは自分たちを見張り、短所はどこかと調べまわる。不可避的に短所が見つかったとき、今までになく不安になり、自分には価値がないと感じる。私たちはもっとがんばらなければならないのだ。

 どこへ向かおうとしているのか……そう考えるのは皮肉だろうか。ある瞑想クラスの学生は言った。コースの間、もっと何かをする必要があると感じながら、まるでスティームローラーで道をならしているかのようだったと。彼は沈み込むような口調で付け加えた。

「ぼくは人生の水面ぎりぎりを飛んでいきます。競争しながら、ゴールラインに達するまで、すなわち死ぬときまで」

 瞑想クラスで自分に価値がないという夢うつつ状態の苦悩について語るとき、多くの生徒がうなずき、一部は涙ぐんでいることに気づいた。彼らははじめて、自分が感じている「恥」の感覚が自分だけの重荷ではないこと、多くの人が感じていることを認識したのかもしれない。クラスが終わったあとも彼らは残って話をしたがった。

 彼らは打ち明けた。自分に価値がないという感覚を持ったとき、人に助けを求めることはできないと。また他者の愛によって支えられると感じることができないと。なかには自分に価値がないと感じ、また不安を覚えることによって、自分の夢を理解することができないと認める人たちがいた。生徒たちはしばしば私に、慢性的に欠けているという感覚があり、それのために正しく瞑想しているかどうか自信がもてなくなり、スピリチュアルな成長をまちがって認識しているのではないかと感じていることを話した。

 彼らの多くはスピリチュアルの道に入った最初の頃、適正でないという感覚が瞑想の実践期間中ずっとまさっていたと感じていた。しかし瞑想がこの重要な点において彼らを助けたにもかかわらず、恥と不安の感覚は頑固に残っていることを彼らは発見した。何十年も実践修行しているにもかかわらず、それは残っているのである。

 おそらく彼らが求めた瞑想のスタイルが気質に合わなかったのだ。あるいはおそらく深い傷を見つけ、癒すために、心理セラピーのようなさらなるサポートが必要だったのだ。理由が何であろうと、スピリチュアルな実践によって苦悩を救うことに失敗したために、基本的な疑い、つまり真の意味で私たちはしあわせになることができるのか、解放されうるのかという疑いが生じることになる。