価値がない自己をスピリチュアルな生活に移す 

 彼らのコメントのなかに私自身の物語が反響している。大学を卒業したあと、私はアシュラム、すなわちスピリチュアルな共同体に移動し、ほぼ12年間わが身をその生活様式に熱狂的に捧げた。私は自身を浄化し自我、すなわち自身とその戦略の不完全性を超越する道を見つけたと感じた。私たちは毎日3時半に起き、冷たいシャワーを浴び、4時から6時半はヨーガ、瞑想、チャントと祈祷のサーダナ(スピリチュアルな修練)をしなければならなかった。朝食までのあいだ、私はしばしば身体がほてり、愛に満ちた、至福のなかに漂っているような気がした。私は愛するものと呼ぶ愛すべき意識とひとつになり、これを自身のもっとも深い本質として体験した。自身に関して言えばいいとも悪いとも感じなかった。ただ気持ちがよかっただけだ。

 朝食が終わるころまでには、あるいは朝のもう少し遅い時間までには常習的な思考やふるまいがまたもはびこりはじめた。カレッジにいたときのように、これら繰り返し現れる不安と利己的な感覚は私の何かが足りないことを知らしめた。ヨーガや瞑想に充てる時間が十分でなかったら、またしても慣れ親しんだ小心者の、全然OKじゃない感覚の自分に戻っていただろう。そして私は寝る、起きる、またあらたな一日がはじまる。

純粋な平和と寛大な心に接するあいだ、内なる批評家はわが純粋性がどれほどであるか値踏みしつづけた。私は孤独を感じたり恐れをいだいたりしたときポジティブを装おうとするその自分のやりかたを信用していなかった。私はヨーガや瞑想が好きだったが、自分の修行のやりかたを他者にも強要しようとする自分に当惑した。私は他者に私が洞察力のある瞑想家であり、心づかいとやさしさを忘れず自分のすべてをささげる献身的なヨーガ修行者であることを見せたかったのだ。その一方で他人にたいして修行の怠慢さを批判しながら、自分にたいしては性急に判断を下しすぎているとみなしていた。共同体のなかにあってさえ私は孤独を感じ、実際ひとりきりだった。

 もし専念するならば、自己陶酔しているものすべてを解き放ち、賢く、自由になるまでに8年から10年は要するだろうと私は考えていた。定期的に私はスピリチュアルな世界の各方面からアドバイスをもらった。

「それで私は何をしているのでしょうか? ほかに何ができるのでしょうか?」

 彼らはきまってこう答えた。

「まあ落ち着いてください」

 彼らが何を言いたいのかわからなかったが、言葉通りには私は受け取らなかった。それでは何を言いたかったのか。私はまだ「そこ」にいなかった。

 現代のチベット仏教の教師であるチョギャム・トゥルンパはつぎのように述べている。

「問題は、自我がどんなものをもその目的に応じて変えることができるということだ。精神性をも含めて」

 スピリチュアルな道へ送り込むものには、称賛されるべきすべてのもの、十分によくないのではないかという不安のすべて、わが内面および外面を判定したがるすべての傾向が含まれていた。競技が行われるグラウンドは最初のグラウンドよりも広かった。しかし競技はまったく同じだった。それは人と違った、あるいは他者よりもすぐれた人物になるために闘う競技だった。

 思い返せば、わが自信喪失がそのままスピリチュアルな生活に移されるのは驚くべきことではなかった。自分には何かが欠けているのではないかという思い込みに汚染された人々は、傷ついた心を浄化し、超越する可能性を示した理想的な世界観に引き寄せられた。この完全さを求める探求心は、変わらなければならないという仮定の上に成り立っていた。私たちは全体性と善良性が私たちの本質であるというメッセージを受け取るかもしれない。しかし人生の宴で招待されない客のように、いまもアウトサイダーであるかのように感じるのだ。