ラカイン礼賛             宮本神酒男

1 シットウェ(アキャブ)で恍惚とする

旅客機の窓から見たラカイン州の海岸線

 エア・マンダレーの機内から私は写真を撮りまくった。海原を越え、島々を俯瞰し、機体が滑走路に触れるまで、シャッターを切り続けた。息を呑むような絶景が眼下に広がっているのに、すぐにぼやけてしまうわが記憶貯蔵庫に任せておくわけにはいかなかったのだ。紺青の海と接する茶褐色の陸地には、川や水路の網目が静脈のように張り巡らされていた。この世にもめずらしい風景は、長細いラカイン州の南部だけでなく、北部でも見られた。飛行機が着陸するシットウェ(Sittwe 旧名アキャブ)から翌日客船で行く予定の目的地、ムラウー(ミャウー Mrau-U)までの地域も、上空から見れば同様に静脈のように川が広がっているだろう。

入り江には漁港があった。

 いまから四百年前にこの地にやってきたサムライ一行も、船で大小の川を進みながら、目に飛び込む景色に驚嘆したにちがいない。ムラウー王朝の王宮に傭兵として仕えた日本のキリシタン武士たちについてはムラウーの章でまた触れたい。

 シットウェ空港に降り立ち、乗り合いタクシーに乗って(チャーターしたわけでもないのに5千チャットもぼられる)市街に出て、メインストリートの真ん中にあるノーブル・ホテルにチェックインした。窓から廃墟のような古いモスクが見えた。

シットウェの埠頭の人だかり。

シットウェは、日本のキリシタン武士が来た頃は目立たない漁村にすぎなかった。1826年に英国がラカインを併合したとき、都がムラウーからシットウェに移された。このとき以来シットウェは町として発展し、一方ムラウーは荒廃した。

タン・ミンウー氏(『The River of Lost Footsteps』)によれば、アキャブ(シットウェ)は「眠くなるような、ビルマの標準から言ってもさびれた町」ということである。荒廃しているとはいえムラウーが無数のパゴダを擁する歴史的な町であるのにたいし、シットウェにはこれといって見るべきものがない。


たくさんの小船が浮かんで客待ちをするさまは失礼ながらボウフラを連想させた。

 しかし私は意外にもシットウェという町が気に入り、興奮しさえしたのである。私はホテルの向かいにある博物館で歴史の勉強をしたあと、歩いて川辺の市場へと向った。ごちゃごちゃした市場が私は好きだった。野菜市場を抜けると魚市場があった。魚臭いにおいが鼻の穴にしみいってくると、なつかしいような不思議な感覚に襲われた。多くの人は生魚のにおいが好きではないだろう。私は好きだった。わが体内には漁民の血が流れているにちがいない。魚市場の前を過ぎると、埠頭があった。強烈な太陽光線のもと、埠頭のコンクリの上には人がはじけだされそうなほどの人だかりがあった。採れたばかりの小魚や海老などのまわりに一般の買い物客が集まっていた。その喧騒のなかに入ると、なぜか心地よかった。立っていると、群集の光景がぐるぐると回り始めるように感じ、恍惚とした気分になった。

 埠頭のまわりには数十艘もの小船が浮いていて、山笠状の帽子を被った船頭たちがオールを持って客を待っていた。ボウフラのようだな、と思った。彼らは荷物や人を大きな船まで運ぶようだった。船は対岸の島の村まで行くのだろう。対岸とはいっても、2時間くらいは要すると思われる。


子供たちの遊び場はカラダン(Kaladan)川。川とはいえこのあたりの水はしょっぱい。

 小船のまわりでは子供たちが船から飛び込んで遊んでいた。おとなたちが忙しく働き、また買い物をしているそのすぐとなりで、子供たちは関係なく勝手気ままに遊んでいるのだ。半時間ばかりたたずんでいると、人々の様子がだんだんわかってきた。インド系の顔立ちも多いことがわかってきた。彼らはベンガル人かもしれなかったし、そもそもラカイン人にはインド人の血が濃く入っているのだろう。バングラデシュの国境はそんなに遠くなかった。

ベンガル人あるいはロヒンジャっぽい顔立ちの青年。

 じつは1459年から1666年まで、チッタゴン(現バングラデシュ領)はラカイン(アラカン国)の一部だった。ラカイン人とベンガル人の血が混じるのは当然のことだった。ラカインには相当数のイスラム教徒を抱え込むことになった。

小船の一つ一つに家族の物語がある。 

 チッタゴンからラカインに移住してきたベンガル系のイスラム教徒はロヒンジャと呼ばれる。現在このロヒンジャ難民が国際問題となっている。ネウィン政権時代にロヒンジャは迫害され、30万人もの難民がバングラデシュに逃れた。1982年の人権法制定の際に彼らは市民権を得ることができず、1988年の民主化運動では民主側を支持したため、ミャンマー国内ではいっそう苦しい立場に追い込まれた。2005年にマレーシアがある程度のロヒンジャ難民の受け入れを表明したものの、解決までの道のりはまだまだ遠い。日本政府はといえば、相変わらず対岸の火事とみなしているようで、この問題そのものが日本ではまったく知られていない。

 ロヒンジャとは別に、ミャンマーには非常に多くのインド系住民がいる。ビルマが英領インドの一部となったあとの20世紀初頭、オリッサやマドラスから大量のインド人がビルマに流れ込んできた。その数は年間25万人以上、もっとも多い1927年には48万人にも達したという。彼らはラングーン(ヤンゴン)、アキャブ(シットウェ)、バセイン、モウルメインなどに定住した。彼らはクーリーや季節労働者といった当時下賎とみなされていた職種についたため、民族差別も蒙ることになった。


シットウェの市場の入り口。中は迷路のよう。右は野菜市場。


シットウェのメイン通り。仏教のお坊さんだってサイカーに乗るし、イスラム教徒だって商談に忙しい。

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