活仏の性的パートナーであること  宮本神酒男

 ジューン・キャンベルのセンセーショナルな著書のタイトル「空中の旅人」とは、サンスクリット語のダーキニー、漢訳の空行母、チベット語のカンドマ(mKha’ ‘gro ma)のことである。わが国の稲荷神社の荼枳尼(ダキニ)天は、キツネに乗る神様にすっかり様変わりしてしまっているが、インドのダーキニーから派生した神である。ヒンドゥー教のダーキニーは女神カーリーの眷属であり、人間の血を飲み、肉を食らう魔女とされる。チベット密教においては修行者の護法神であり、ときには明妃、すなわち性的パートナーのことを指す。

 キャンベル女史は西欧において多大な信者を獲得したチベット仏教の高僧、カル・リンポチェ(19041989)のダーキニー、つまり明妃(性的パートナー)であったと大胆にも告白したのである。

「私自身の経験を述べさせていただきましょう。禁欲的な宗派であるカギュ派のトゥルク、すなわち転生ラマであるカル・リンポチェの明妃(ソンユム)であった私は、側近ひとりを除くほかのだれにも知られない秘密の関係を何年間にもわたって続けていました。この高僧の伝記が出版されましたが、私という明妃との関係はきわめて重要であるにもかかわらず、そのことに言及されることはありませんでした」

 あまりの衝撃に、われわれはキャンベル女史の言い分をにわかに信じることができない。聖なる存在である転生ラマの性的パートナーだったというのである。チベット仏教を貶めたとして、彼女に対する非難が殺到したであろうことは十分に想像できる。アマゾンのブック・レヴューで、カル・リンポチェが米国に招待され講演をおこなった際のスタッフであったらしいRiver Skyという男性がキャンベル女史への辛辣な批判を繰り広げていて興味深い。

「キャンベル女史はカル・リンポチェの性的パートナーであったと主張しているが、リンポチェは当時すでに80歳代後半という高齢だった。私はリンポチェが米国に滞在したとき、その安全の責任者のひとりだった。ダライラマが米国に来たときも同様の役職を担っていた。だから言うが長い年月のあいだ何万人もの女性がリンポチェに近づくチャンスがあったなかで、太り気味でたいして魅力のないスコットランド人女性に心を動かせられるなんていうことがありえるだろうか。リンポチェは女性にたいして性的興味をもつことはなかった。私は当時リンポチェのそばにいて通訳を務めていたキャンベル女史に会っている。その印象といえば、彼女が妄想にとりつかれ、情緒障害のある女であったということだ。私は彼女をクビにするよう提言し、その提言は受け入れられたと思う。
 ジューンよ、あなたは自らを深く恥じるべきだ。そしてよい精神分析医を探すべきだ。そのさい医者は(彼女がウソを言ったときのために)第三者を立ち会わせたほうがいい」(一部略、または中略)

 カル・リンポチェの米国の講演旅行にスタッフとして同行し、キャンベル女史にも会っているというのだから、その発言は重いと思う。しかしよく読めば、River Sky氏が怒りのあまり興奮して本人がむしろ事実をねじ曲げていることがわかる。

たとえば彼はカル・リンポチェが80歳代後半であると述べて、女性に興味がなかったと付け加える。しかしリンポチェは1989年に85歳で死去しているのである。リンポチェの米国滞在がいつのことかわからないが、キャンベル女史がリンポチェのもとを離れたのは1983年のことだという。Sky River氏の証言する米国滞在がこの年であるなら話の辻褄はあうが、リンポチェは79歳であり、Sky River氏は年齢さえきちんと確かめていなかったということになる。

キャンベル女史がカル・リンポチェに会ったのは70年代初頭のことだった。そのとき彼女は20歳代後半、リンポチェは70歳手前だった。70歳の男性の性的能力に関してはわれわれの知るところではないし、老人と若い女性との性的関係の中身がどんなものであったかも、問うべきものではないだろう。

 1996年の雑誌「トライシクル」のインタビューのなかで、ジューン・キャンベルは「ずっと私は頭のおかしいウソつき女だと、僧侶たちから攻撃されてきました。長期間、秘密の関係を結ぶのはよくありません。一生、その重荷を背負って生きていかなければならないのですから」と真情を吐露している。

 雑誌のインタビュアーも「ふたりのチベットのラマから、この記事を出してはいけないと圧力をかけられた」と明かしている。カル・リンポチェを支持する西洋人たちもまたキャンベル女史のことを快く思っていない。嫌気が差して彼女がスコットランドに帰ったのは、そういった状況があったからだった。

 それにしても彼女が秘密を暴露しようと考えたのは、なぜだろうか。


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