チベットのシャーマニズムの一様式

〜アムド地方のシャーマンのイニシエーション、トランス、神託について〜


1 さまざまなチベットのシャーマン

 下は、患者の体から病気を起こした異物を吸いだすヒーラーから、上はダライラマやチベット政府御用達の神降ろしまで、チベットにはじつにさまざまなシャーマンが存在する。本稿で解析するハワ(lhapa)と呼ばれるシャーマンは、ローカルな神が憑くためか、どちらかといえば低級シャーマンとみなされる。ラダックのマトゥ寺(サキャ派)を訪ねたとき、寺に二名いるシャーマン僧ロンツェンのことを、ロンツェンでなくうっかりハパ(ハワ)と呼んだところ、僧侶にひどく怒られたことがあった。寺の護法神が憑くシャーマンを低級呼ばわりしてはいけない、ということなのだ。とはいえアムドのレコン(青海省同仁県)ではハワの地位は比較的高く、祭りのとき、憑依状態で踊るハワを前にしておばあちゃんが額づいて祈る姿は、ありふれた光景とさえいえる。人々にとって仏法を守る神の憑いたシャーマンは、神そのものなのだ。

 チベットでもっとも位の高いシャーマンは、ダライラマ御用達の神降ろし、ネチュンのチュジェ(chos rje 法の主の意)である。ネチュン寺は16世紀にラサ三大寺のひとつ、デプン寺のすぐ下に建てられた小さな寺院。主神は外来(中央アジアのバタ・ホル族)の神にしてチベット最大の護法神ペハル。ネチュン・チュジェはダライラマ14世と同時期の1959年、チベットを脱出し、インドのダラムサラに落ち着いた。現在のネチュンは亡命後、三代目となる。転生ラマではないので、前任が死亡すると、新しいチュジェを探し出さなければならない。

 ネチュンにつぐのがラサ郊外のガドン寺やセラ寺に隣接する祠堂カルマ・シャル堂の神降ろしである。ガドンの神降ろしは馬のいななきのような声を発するだけでしゃべれないので、通訳(ドゥン・イグ 秘書の意)を要する。

護法神チウ・マルポが憑依するチベット最初の寺院サムエ寺の神降ろし、護法神ツァンパ・カルポ(白梵天)が憑依するラモ寺の神降ろしなども、位が高いとされる。

しかしこれらの神降ろしも、インドに亡命したガドンをのぞけば、ほぼ系統が途絶えてしまった。ラモ・ツァンパを輩出する村には憑依する人物があらわれたが、それを認めるシステムが働かず、そのうち普通の人になってしまったと聞く。

位置付けはむつかしいが、その呪力すさまじく、ネチュンなみに名を馳せるのがドルジェ・シュグデンだ。ダライラマ5世の時代(16世紀)、トゥルク・ダクパ・ギェルツェンという栄達の誉れ高い大臣がいた。ダクパ・ギェルツェンはしかしその能力を妬まれ、失墜し、追い込まれてカタ(白い儀礼用のスカーフ)で首を吊ったという。彼はそうしてドルジェ・シュグデンになるのである。シュグデンは神というより、怨念パワーが神霊となったかのようで、わが国の平将門や菅原道真を彷彿とさせる。

ちなみにシュグデンの憑く神降ろしは、降神のとき、首を吊ったかのようにもだえながら苦しそうな息を吐き、異音を発するのだという。

シャーマンに憑依する神格のなかでもよく知られ、庶民に人気があるのは、テンマ十二女神だ。いくつもの女神の名のパターンがあり、ここで紹介しきれないが、最高位にあるのがドルジェ・ダクモ・ギェルだ。デプン寺近くのテンマ・ツォグという祠堂にいるシャーマンには、女神を補佐する大臣パウォ(勇者の意)が憑依するので、シャーマン自身もパウォと呼ばれる。またセラ寺近くの祠堂にもテンマ十二女神が憑くハパ(ハワ)がいて、ダプドプのハパと呼ばれる。お告げをもとめてやってくる者の多くがダプトプ(放蕩僧)だったからだ。これらのシャーマンも、今では姿を消してしまった。

ヒーラー(治療師)と呼びうるシャーマンは各地に残っているのではないかと思うが、実態はわからない。馬麗華氏はチベット北部の双湖で会った巫医について報告している。その巫医は彼女の面前で患者の背中から「黒い肉虫」を吸いだした。また(実見したわけではないが)遺体を「踊らせ」、鼻から血を流させて、魂と肉体を分離させるという。

 南チベットやシッキム、ブータンでパウォ(男)、ニェンジョマ(女)と呼ばれるシャーマンも上記の巫医と変わらないだろう。私がブータンで会ったニェンジョマは一か月あたり平均で30人ほどの患者を診ると言っていた。

 ケサル王物語をうたう吟遊叙事詩人のなかにも、典型的なシャーマンが含まれる。しかしそれについては別の機会にくわしく述べたい。

 すべてを網羅したわけではないが、さまざまなシャーマンの形態が存在し、チベット人社会がシャーマンを許容してきたことがわかる。それどころか団結を強める上でも、要をなしてきたといえる。ダライラマ探しや政治、戦争における判断など、歴史上大きな役目もはたしてきた。本稿で述べるアムドのレコンでも、シャーマン(ハワ)は共同体を維持するにおいて必要不可欠な存在なのである。

 

2 アムド・レコンのシャーマン

 レコン(青海省同仁県)にはおよそ20のチベット族、土族の村があり、チベット暦(アムドでは中国暦と同じ)の6月16日から25日頃にかけて村々で順繰りに行なわれる六月会という祭りが正月と並んで重要視される。ルロル(六月会)は歌舞、娯楽といった意味をもち、麦の刈り入れの前夜祭的な祭典といえる。ハワは年間を通じて活動するが、六月会での活動の比重が圧倒的に大きい。

 ここで土族について注釈すべきだろう。土族はチベット文化の影響を強く受け、外見上はチベット族と変わらないが、モンゴル語の一種を話し、4世紀から7世紀にかけて歴史に登場する吐谷渾(とよくこん)の後裔ではないかとみなされている。レコンには五つの土族村がある。しかしそのなかでも重要なサンゲション村の土族は漢語の一種を話すのである。伝承によれば唐代、吐蕃兵がこの地にやってきて駐屯した。「父はチベット人、母は漢族」という言い習わしがあり、吐蕃兵が唐軍に属する女子を略奪したことを示すのかもしれない。またさまざまな伝承や遺物などから、明代の14世紀、少なからぬ内地の漢族が屯田兵としてレコンに移住したことがわかる。レコンは漢文化とチベット文化融合の地であり、その橋渡し役をしたのが土族と考えられるのだ。

 私は六月会とその期間中の主役、ハワは、中国南部の漢族の廟会とその主役であるタンキーの影響を受けて発生したのではないかとさえ考えている。しかしそれでも、本質においてハワは漢族的というより、チベット的である。

 約20の土族、チベット族村に、通常、それぞれひとりから数人のハワがいる。各ハワには複数の神が降りる場合が多い。主だった神はユハ(yul lha)、すなわち山神である。山神といっても、その山はどこかと尋ねると、カイラースやアムネマチェンのようなチベット全域で崇拝される高峰ではなく、村の裏の低い山、ときには丘であったりする。もっとも遠い山でも甘粛・青海省境のニェンチェン山や同仁県内の最高峰シャチョン山なのである(シャチョン山の神シャチョンは霊鳥ガルーダでもある)。

 ハワの死亡や引退などで(老いると能力が発揮できなくなる。またインドに亡命した例もある)村にハワがいなくなると、長老たちは臨時会合を開く。多くの場合、15歳から35歳くらいまでの若者全員を集め、神廟の堂に閉じ込める。若者たちはすくなくとも一週間外界との接触が禁じられ、一心不乱に経典(降臨する山神について書かれたもの)をよみふける。ソグル村ののちの大ハワは、経典をよむうち、体中が痛くなり、ついには神がかりの症候をあらわすようになったという。ソグル村では一週間では絞りきれず、数日間延長して、ようやく彼とのちの小ハワのふたりが残った。だがのちの大ハワはハワになりたくなくて、ひたすら拒もうとした。しかし夜、家の中にいるとき、建物が地震のごとく揺れ、屋根の上を馬が駆けるのに驚愕し(馬に乗った戦神を暗示する)、夢の中にも何度か馬に乗った武将があらわれ、彼をぐちゃぐちゃになるまで踏み潰した。こうして彼は観念し、ハワになることを受け入れた。彼とのちの小ハワは、ともにロンウー寺の活仏に会い、ハゴシ(開神門の意)といわれる一種のイニシエーション儀式を受けたのだった。サフチ村のハワの場合も大同小異であるが、神廟のこもりで絞られた4人がロンウー寺の別の活仏に会ったところ、4人のうちふたりには魔が憑いていると言われた。残るふたりのうちひとりも交通事故に会い、二十代の若さで他界してしまった。

 ハワのトランスについて考えてみよう。六月会期間中、祭りが行なわれているとき、ハワは半トランスの状態にある。半トランスというのは、実際には憑依状態にあるのではなく、唇をふるわせながら、踊ったり行進したりする参加者を監督官のように取り締まる。このとき会話は厳禁で、「記憶もない」ということになっている。それは作られたトランスであり、偽トランスなのである。平常の状態の老ハワのまわりを、子どもたちがふざけて唇をぶるぶる震わせながら走り回り(いわばハワごっこ)、老ハワに叱られる光景を目にしたことがある。見かけ上、半トランス(偽トランス)は簡単にできるのである。

 祭り最終日の午後は、だれをも納得させるほど、深く激しいトランス状態に陥らなければならない。神がかりはチベット語でハ(神)バプ(降りる)という。文字通り、神降ろしなのである。脱魂型でなく、憑依型のシャーマンだということが示される。ただしソグル村のハワが堂内で矢を持ち戦闘のポーズを取ったまま半時間も身動きせず、瞑想状態にあるのを見たとき、それは脱魂なのではないかと私は思った。抜け出た魂がどこか異次元空間で魔物と戦っているのである(このポーズから、ダンドゥ神という老いた戦神が憑いていることがわかる)。

 かかりの早いハワの場合、こちらが気づいたときには労せず、すでに激しく神がかっていることが多い。かかりの遅い、サフチ村のハワのような場合が問題だ。参加者全員が庭に集合し、ハワはお堂の入り口の人々を見下ろせる所に立ち、唇を震わせながら、酒や麦粒をまきちらす。杜松の葉のお香や太鼓の響き、さらには男たちの掛け声によって、なにかが起こりそうな異様な盛り上がりが醸し出される。その直後、ハワは深いトランスに陥り、胸を叩きながら、声ならぬ声を発する。これが今年度の神託なのである。じつはこの少し前、私はハワが祠堂の裏で吐いているのを目撃した。酒の力を借りようとして、飲みすぎてしまったにちがいない。

 このサフチ村のハワは、かかりは遅いが、ひとたびかかると激しいトランスを示す。とくにマッホン(二郎神。はげしい神)がかかると、狂人のように荒々しくなり、呪語の書かれた紙を燃やし、火がついたまま掌にのせ、空へ向かって抛る。ひとりのハワに複数の神が降りるのは珍しくなく、どの神が憑いたかは、そのしぐさなどでわかる。

 ソグル村のハワは、かかりも早ければ、抜けるのも早い。痙攣に近い激しいトランスのあと、椅子のうえに倒れ、ぐったりとする。だれか(ふつうは長老)が抱え起こすと、つぎの瞬間、何事もなかったかのような表情にかえり、立ち上がる。このときはすでにふつうの人なので、会話をすることもできる。

 もっとも神のかかりかたに優れていると思えるのが、ホルジャ村のハワである。神がかりのシーンを写真に撮ってあとで眺めてみたところ、顔の表面上に不自然な波のようなものが走っているのが認められた。半トランスではありえない神業のような筋肉の動きなのである。そのハワがお堂のなかのニェンチェン(彼の主神)の像の前で神がかったとき、口はアア、アア、と苦しい息を吐いているのに、地の底からハハハハハハという笑い声が響いてきて驚いたことがある。腹話術ではとうてい説明できない。あれはニェンチェン神の笑い声だったのではないかと今でも私は思っている。

 ここでひとつだけ、興味深いエピソードを加えたい。数十年前、当時のソグル村のハワは日ごろの素行が悪く、馬泥棒だったともいわれる。神様が憑いてしまい、活仏も認証したのだろうから、通常の素行がどうであれ、文句をいう筋合いではないのである。ある年、六月会の期間中、ハワがお告げをしたとき、通訳はなんと「おれが体を借りている者は、不届き者である。殺せ」と述べたのである。推測だが、ハワは心の中で「おい待て。おれはそんなこと言ってないぞ。おれを殺す気か」と思ったに違いない。しかし神が憑依しているときは神になりきっているのだから、個人の考えを述べたら、本物のハワではないということになり、「にせハワ」の烙印を押され、それこそどんな処罰を受けるかわからない。ハワは流れに身を任せるしかなかったのではないだろうか。(いや、あるいは神になりきっていたのかもしれないが)

 「殺せ」という神の命令を受けた村の男たちは、ハワの首に縄をかけ、村の外まで引き連れていった。そして崖から突き落としたのだという。落とされる瞬間、ハワはなにを考えただろうか。この馬泥棒ハワには子どもがいた。子どもは仏道に入り、90年代後半はまだ存命していた。緋色の衣をまとったおだやかな老僧侶に私は会ったことがあるが、父親について聞くことはできなかった。

 お告げ(ハカ。神語の意)の内容はほとんどの場合、ありきたりで、面白みがない。喧嘩はするな、年長者を敬え、今年の収穫はいいだろう……といった調子で、これなら私にだって言えそうである。

しかしお告げの仕方となると、十人十色なのだ。はじめてお告げのシーンに出会ったのは、マパ村だった。紙吹雪(ルンタという小紙片)が舞い、片面羊皮太鼓が打ち鳴らされるなか、ハワは舞い踊り、それから神像の描かれたタンカの前に座った。参加者の男たちはハワを囲むようにして膝をつく。静まり返ったなか、白眼をひんむいた表情で、声を絞り出した。その声はなつかしい鳳啓介の声とそっくりだったので、私は思わず吹き出してしまった。おそらくこれは一種の腹話術だったのだろう。地元の人の話ではこのハワのことばはわかりにくいが、まったく聞き取れないほどでもないという。いちおう通訳がつき、お告げの内容をはっきりと告げる。ハワの通訳は兄弟、親戚、長老であったりするが、規則のようなものはない。

 内容が他と異なっていたのが、ランジャ村の半世紀近いキャリアをもつ老ハワのお告げである。そもそもお告げの仕方が変わっていた。ハワは祭りの後半、突然神輿に上り、首を垂れて、ふだんとは違う声でお告げを述べ始めたのである。甲高い声で一節しゃべると、息を激しく吐く。村人にかろうじて理解できるしゃべり方なので、通訳はいない。その一部は以下の通り。

「作物のこと、家畜のこと、外敵のこと、村で起きたこと、私はすべてを知っている。ロンジャ三百家よ、よく聞け。四十年間のあいだによくわかった。共産党のことはそのまま受け入れたほうがいい。私のいうことをよく聞くなら話をつづけよう。聞かないなら、話はしない。気をつけなければならない。過激な人は刑務所に入れられてしまうだろう。暴れ馬の脚が結ばれてしまうように……」

 そのあと日ごろの心がけなどを述べたあと、「大丈夫。みな死ぬときはいっしょ。勝つときも負けるときもいっしょ」で締めくくる。

 老齢のため引退する前年度のこのお告げが発せられたとき、どよめきが起こった。聞きようによっては、(中国)政府に対する反感は抑えておいて、表面上はすなおに従おう、ときが来るまで、と言っているように思えるからだ。

 以上、駆け足でレコンのシャーマンについて書いてきた。単発で発生する巫医のようなシャーマンと違い、シャーマンを許容する共同体があり、その共同体のなかで大きな役目をもつシャーマンなのである。若者全員をお堂のなかに一週間以上閉じ込め、神がかった者を有力候補とするかなり強引ともいえるやりかたで、シャーマンを探し出す。神がかりの能力が最低限のラインなのである。しかしレコンは仏教の盛んな地であり(ボン教も小さからぬ勢力だが、詳細は別の機会に譲りたい)中堅寺院(ゲルク派のロンウー寺)の活仏が認証しなければ、シャーマン(ハワ)たりえない。このように、レコンのシャーマニズムは、長い歴史と強力な文化のなかで育まれてきたきわめて特殊なシャーマニズムなのだといえる。