レコンを中心としたチベット・アムド史

古代のレコン

 青海省から甘粛省にかけて、とくに河湟地区(黄河上流や水)から4、5千年前の新石器時代の遺跡がおびただしく発掘されている。これらは馬家窯文化(別名甘粛仰韶文化)と呼ばれ、陶器の表面に描かれた彩色紋様が高度な文化を物語っている。そんな古代先進地域の南縁に位置するレコン(青海省黄南省同仁県)は、海抜2500米の高みにあるとはいえ、周囲の高原の遊牧民からすれば冬の宿営地に適した谷だった。新石器時代のあと、カユエ文化という通称で知られるさらに発展した青銅器文化が青海省東部にやってくる。[註1] 遺跡の主は古代羌人だと考えられている。ちなみにカユエは青海湖近くの湟中県内の村名であり、はるかのちの1357年、チベット仏教中興の祖ともいうべきツォンカパがここに生誕する。青海湖近辺は古代より栄え、つねに歴史の中心点だった。

 青海省の省都西寧は、史書上早くも前漢時代に登場する。前121年、前漢の若き驃騎将軍霍去病(かくきょへい)が匈奴を攻撃するとき、現在の西寧に軍事拠点として西平亭を建設した。前62年頃からは老将軍趙充国が屯田政策を進めた。「屯田をすれば12の得があり、出兵すれば12の損がある」と説き、強敵であった先零をのみ撃破し、他の諸羌部落は戦わずして帰順させ、屯田を広めた。これによって羌族と匈奴との連携を断ち、遊牧地の農耕地化も進めることができた。屯田の中心は湟中だった。広義のレコンにも農地が拡大したのではないかと思われる。趙充国がこの時期に設けた河関県はレコン(同仁県)の保安だったのではないかという説もある。

 漢書・後漢書に出てくる大・小楡谷(ゆこく)は循化、貴徳、同徳、貴南などを含む広義のレコンのことをいい、前漢時代は先零羌の領地だった。後漢時代の紀元1世紀、西羌の始祖無弋愛剣(むよくあいけん)13代目、焼当が統率する焼当羌は、現在の共和県を基盤として勢力を伸ばした。[註2] 紀元93年、後漢は大・小楡谷に割拠する焼当羌迷唐を撃破し、数万枡の麦を得ることができたというから、農業の発達した広義のレコンはすでに軍事的拠点でもあったことがわかる。西晋時代、レコンはなお河関県に属していた。後凉の呂光は397年、河関を占領するが、撤退後、吐谷渾がこの地を治めた。北魏も一時期、レコン内(現・古浪堤)に県を設けたことがある。[註3] 

吐谷渾の勢力増大

 モンゴル系鮮卑族慕容部の吐谷渾(とよくこん 首長名)が兄弟の争いを嫌って、七百戸(あるいは千七百戸)を率いて故地(現在の遼寧省)を去り、内モンゴル大青山(フホホトの西)に移住したのは、紀元284年頃のことである。この頃には汗(ハーン)を名乗っていた。西晋・永嘉七年(313)前後に発生した八王の乱の頃、北方諸民族の大移動があり、現在の甘粛省臨夏、甘南あたりへ移ってきた。317年、吐谷渾逝去のあと、長子吐延が率いて諸○羌部落を征服し、甘松の南(現在のゾルゲ)に汗庭(都)を建てる。337年頃には、三代目の葉延が汗庭を赤水(黄河上流。現在の興海県)に移し、吐谷渾を国号とした。吐谷渾はそのあと青海省東部を中心として、五胡十六国時代を通じ、周辺の強国として命脈を保っていく。レコンもまた吐谷渾の勢力範囲に入っていた。*○は低のニンベンを取る。テイと読む。

 吐谷渾と東側で接していたのは、西晋、前凉、後凉(○)南凉(鮮卑)西秦(鮮卑)北凉(蘆水胡)であり、国境はつねに勢力関係によって流動的だった。389年、吐谷渾王視連は西秦によって白蘭王に封じられたが、その子視羆(しひ)のとき西秦と敵対関係になり、手痛い打撃を受けた。410年頃になると、王樹洛干のもと、税、賦役を軽くし、信賞必罰を取り入れたため、多くの部落が帰順し、領土は青海、甘粛だけでなく陝西にまで広がった。しかし強大化を恐れた西秦によって次第にもとの領地に押し戻された。415年には阿柴が即位する。この阿柴(achai)こそ、チベット人が吐谷渾を呼ぶときの名称アシャの由来である。チベットの言い習わしでは、セ(チベット古代四氏族のひとつ)とアシャがむすびつく。[註4] セが中央チベットから(一説には現在のネパール・ムスタン)東遷してきていて、アシャの吐谷渾に併合されてしまったのだろうか。この時代、吐谷渾は近辺の○、羌、鮮卑諸部落を併呑し、強国化を図っていたので、その逆は考えづらいだろう。その名が吐谷渾の別名となるほど、阿柴の名声は轟いた。*○はテイ。

 5世紀から6世紀にかけてが、吐谷渾の最盛期だった。白蘭于◎道(現在の新疆ウィグル自治区和田)を築いた慕利延の時代(在436〜452)は交通、交易を治め、北魏に敗れてもなおカシミールに遠征(449)するほどの力をもっていた。*◎は門構えに真。テンと読む。

 吐谷渾に圧力をかけつづけてきた北魏は534年、東魏と西魏に分裂し、二、三十年のうちに東魏は北斉に、西魏は北周にとってかわった。6世紀後半、北周は現在の青海省化隆県(レコンの北)に廓州を設置した。それ以前の535年に、吐谷渾は都を青海湖畔の伏俟に移している。

 581年、北周が滅び、隋が起こると、吐谷渾は混乱に乗じて凉州に攻め入った。しかし隋の文帝はすぐさま「徳でもって示し、教でもって臨む」という方針で反撃、吐谷渾を撃破した。589年、隋が南朝の陳を滅ぼし、中国全土を統一すると、吐谷渾の王世伏は女を妃として献上しようとするが、すげなく断られた。しかし596年、隋の光化公主が世伏に降嫁した。翌年世伏が刺殺されると、弟の伏允が後を継ぎ、光化公主を妃とした。

 605年、隋・煬帝が即位し、澆河郡(ぎょうが 現・貴徳県、レコンの北西)と西平郡(現・楽都県)を設置した。609年には煬帝みずから二千騎を率いて出征し、吐谷渾を党項(タングート、現・果洛州)まで追いやったという。諸勢力が分裂していた時代(五胡十六国時代)は終わり、隋、そして唐、吐蕃という大国が出現してくるにしたがい、周辺の強国吐谷渾は凋落の一途をたどりはじめたのである。

 ここでひとつ確認しておくべきことは、おそらく二百年以上にわたってレコンを含む青海省東部は吐谷渾の領土内にあったことである。レコンの土族をはじめ民和県、大通県、互助県などの土族も吐谷渾の後裔である可能性は大きい。しかし吐谷渾滅亡後、幾度となくモンゴル人の移住の波が押し寄せていて、しかも漢族やチベット族と交わる機会も多く、単純に、純粋に「後裔」という語で括ることはできない。

ガル家の盛衰

 唐太宗の時代になると、吐谷渾の勢力はますます衰え、諾曷鉢(だくかつはつ)のとき吐谷渾全域が唐の属領となった。それでも636年、諾曷鉢みずから大量の牛馬をみやげに長安に出向き、婚姻を嘆願した結果、弘化公主が降嫁することになった。

 その頃、629年に吐蕃のツェンポの位に就いたソンツェン・ガムポがチベット高原の統一を進め、版図をさらに拡大しようとしていた。チベットの伝承によれば、初代のニャティ・ツェンポから数えてソンツェン・ガムポは33代目となるが、それほどたしかではない。旧唐書は吐蕃の始祖としてヤルルン地方の六ヤク部落の首領、鶻提勃悉野の名を挙げるが、これは’O lde spu rgyalの対音だろう。

 638年、ソンツェン・ガムポの吐蕃は吐谷渾を撃破し、諾曷鉢は青海湖の北方へ逃れた。吐谷渾が降伏するのはその3年後である。吐蕃は党項や白蘭を併呑し、松州(現・四川松潘)をも攻めたが、唐軍の反攻にあい、ソンツェン・ガムポは休戦を申し出て、通婚を願い出た。

 640年、吐蕃の宰相ガル・トンツェンは唐朝廷に歓迎され、文成公主の降嫁が決定した。公主がチベットに与えた影響は計り知れず、穀類の播種や耕作法、建築、占い、機織などすべて公主がもたらしたとされた。公主のたどったルートはあきらかではないが、日月山に短期逗留し、青海省興海県の館にしばらく滞在した。遺跡はないが、このあたりは「公主仏堂」と呼ばれている。長く滞在したのは、ここには穀物が十分にあるので、チベット高原の厳しい旅に備えたのだろうか。このあと公主は江夏王李道宗とともに黄河源流の柏海に到着し、ソンツェン・ガムポ自身の歓迎を受けたという。[註6]

文成公主の降嫁以前に、ソンツェン・ガムポはネパール王アムシュヴァルマンの女ブリクティを迎え入れ、ティツム公主と呼んだ。ネパール王ユナクグティを殺し、ナリババを新国王に立てたというのは、それより前ということだろう。それから3年後、ソンツェン・ガムポはシャンシュンのリニャシュルを破っている。ネパールが吐蕃に併呑されたのは、641年だった。のち北西インドや中央アジアへも進出を図ろうとするが、そのルートの礎が築かれたのである。648年(あるいは641年)唐は王玄策を天竺、すなわちインドへ派遣するが、折り悪く内乱に遭遇してしまう。そのときソンツェン・ガムポはチベット兵だけでなくネパールやシッキムの兵も送って、王玄策を救助したという。

 670年、吐蕃が西域十八州を陥れると、唐は大将薛仁貴率いる軍を青海海南地方(大非川)に派遣し、吐谷渾の復活を画策したが、かえって大将自身が吐蕃の捕虜となった。ここに吐谷渾は滅亡し、レコンを含む吐谷渾の支配地は名実ともに吐蕃の一部となった。

 吐蕃の英雄的存在である宰相ガル・トンツェンは、レコンにとっても大きな存在である。伝承によれば、レコン一帯はガル・トンツェンの息子ギャンツェンブン(おそらくガル・ツェンバ)が受け持ち、統治したからである。[註7] ガル・トンツェンはソンツェン・ガムポの死(641年)から自身の死(667年)までの四半世紀、吐蕃の政治を掌ってきた。ガル・トンツェンの死後、長男ガル・ツェンニャ・ドムブが大相の位を引き継ぎ、二男の欽陵(ガル・ロン・ティディン・ツェンド)が補佐した。685年、長男が死んだあとは二男欽陵が引き継いだ。しかし吐蕃ツェンポ・ティ・ドゥーソンは長ずるにしたがい、ガル家に牛耳られる状態に耐え切れなくなり、大臣ロンヤンとガル家の排除を図った。694年、突厥との戦争中、四男のガル・トグリソンがソグド人の捕虜になったことが、ガル家糾弾の理由となった。その翌年、五男のボロン(ガル・ツェン・ニェングントン)は謀反の告発を受け、処刑されてしまう。その後欽陵も自殺に追い込まれ、698年、危機を感じた三男のガル・ツェンバは千人以上の部下とともに唐に投降したのだった。唐はツェンバを大歓迎し、輔国大将軍などの位を授けた。そのなかに帰徳郡王に封じた、という一節があるが、帰徳は貴徳のことであり、広義のレコンである。実質何十年にもわたってレコンの支配者であったことが推測できるだろう。ツェンバはまもなく病故するが、欽陵の子弓仁(ガル・マンポジェ・ロングンリン)があとを継ぎ、吐蕃と接する膨大な地域を管轄する将軍として活躍した。弓仁は723年に60歳で逝去した。[註8]

吐蕃と唐の争い

 703年、ティ・ドゥーソンが死ぬと、幼少のティデ・ツクテンが王位を継いだ。吐蕃は唐朝に対して何度も下嫁を請い(武則天の儀鳳二年、すなわち677年、のちミニ則天武后のようになる若き大平公主の降嫁を願ったが断られた)ついに709年、中宗は金城公主を降嫁させることに決めた。そして翌年、金城公主は長安を出発し、随行に各種工匠をひきつれ、西域の楽器、数万匹のシルクを携え、青海を通ってラサへ向かったのである。金城公主が途中休息した湯沐の場所「黄河九曲」は、現在の海南からレコンを含む黄南にかけての地域を指すと思われる。

 714年、吐蕃は唐との国境を策定すべく、会盟を求めた。しかし話がまとまる前に吐蕃軍 十万は甘粛南部に攻め込んだ。唐軍も反撃に出て、○河(とうが)で吐蕃軍を撃破し、独山・九曲軍を押し返し、黄河の境界線を回復した。*○はサンズイに兆。

 734年には唐・吐蕃の間に休戦協約が成立し、赤嶺(日月山)に界碑が建てられた。しかしその二年後、吐蕃が交通の要衝、小勃律(現・パキスタン北部ギルギット)を攻めているあいだに、唐は青海湖畔の吐蕃軍に攻撃を仕掛けた。吐蕃王は女を王妃にすることで、唐に服属していた小勃律を属国化することに成功したが、東のほうが手薄になっていたのだ。738年、界碑は壊された。しかしなお毎年収穫の季節になると、吐蕃兵は積石郡(現・貴徳県内)の屯田を襲い、麦を奪った。その後747年、高僧不空を招聘したことでも知られる唐の将軍哥舒翰(かじょかん)は吐蕃兵五千人を駆逐し、麦を確保した。翌年哥舒翰は青海湖北に神威軍(のち天威軍と改称)を設立し、吐蕃をふたたび破った。また青海湖竜駒島に竜城を築き、二千人の兵に守らせたが、翌冬、湖面が凍ると、吐蕃兵が攻め、全滅した。この時点で日月山の東にある石堡城は唐軍の手に落ち、軍事的拠点となった。753年に哥舒翰は洪済城と大漠門城(ともに現・青海省共和県)を収め、翌年には○陽郡(現・甘粛省臨潭とレコンを含む青海省黄南州)や澆河郡(現・青海省貴徳)などを設置した。*○はサンズイに兆。トウ。

 755年、安史の乱が起こると、吐蕃はその混乱に乗じて西平(757年)と廓州(760年)を取り、さらに甘粛、陝西へ進出した。河隴地域の統治は850年までつづいた。762年、吐蕃は唐と和を結ぶが、翌年、都長安を15日間占領した。768年には敦煌(沙州)も陥れ、六十年間治めた。

 吐蕃の最盛期はティソン・デツェン(742〜797)の時代だった。この時期にインドから高僧シャーンタラクシタや弟子カマラシーラが招かれ、サムエ寺が建立され、カマラシーラと摩訶衍(まかえん)の論争が行なわれた。第二の仏陀と称されるタントリスト、ウッディヤーナのパドマサンバヴァ(蓮華生 通称グル・リンポチェ)が招かれたのも、サムエ寺建立の頃である。伝説によればチベット各地で修行し、魔鬼の類を鎮圧したとされ、その後世に与えた影響ははかりしれない。真偽はともかく、はるばるレコンまで来たことになっていて、パドマサンバヴァが三ヶ月こもって修行したという洞窟がレコンのジャンロンにある。またジョモドチャンはパドマサンバヴァが羅刹女を制圧した場所であり、脚印も残っている。[註9]

 吐蕃が長安を一時占領した763年から820年の間は比較的唐・吐蕃関係は平静で、頻繁に使者の交流があった。783年には唐・吐蕃間の国境が画定された。これはおもに吐蕃があらたに獲得した青海湖や甘粛の領土を確認するものだった。この時期、吐蕃は雲南の南詔国や甘粛北部のバタホル(ウィグル、おそらくユグール)などとも領土争いをしていた。821年、吐蕃は特使ロン・ナロを送り、長安郊外で会盟儀式を行ない、石碑をたてた。翌年、唐は大理卿劉元鼎をラサに派遣し、同様にジョカン寺で会盟儀式を行ない、石碑をたてた。

最前線としてのレコン

 吐蕃軍と唐軍が甘家(青海・甘粛省境の甘粛側)で対峙し、和解したあとダルジャ山(同仁・循化県境)で神に奉じた歌舞が六月祭の起源とされているが、これはレルパチェン(長髪王)すなわちティツク・デツェン王(806〜841)の時代だという。レルパチェンはみずからアムドにやってきて、現・貴徳県内の唐・吐蕃の境界線上に塔を建て、なかに自身の毛髪を入れた。この貴徳白塔は、1806年にムニャフ(ミニャク)5世活仏によって修復されたが、文革期に破壊された。また吐蕃期にレコンにやってきた吐蕃将軍イェツァとレコン・ソグル村の娘とのあいだにできた子どもがソグル村ツォワ部落の人々の祖先だという。

 ティツク・デツェン王の時代に吐蕃軍がレコンに駐屯し、現在のサンゲション村に仏教寺院がはじめて建立された。後世の人はその小寺をマゴン・ニャンワ(古い母寺の意)と呼んだ。のち17世紀中葉、他の寺と合併してサンゲション下寺になった。レコン、とくにサンゲションは「芸術の里」として知られるようになるが、一説には、この時期に中央から絵師がやってきてタンカの描き方を伝授したという。

 レコンが吐蕃にとって重要な場所であったことは、いくつかの地名からも傍証できる。レコン出身の二十世紀の知の巨人ゲンドゥン・チュンペによると、ギェルポ(国王)チロン(外臣)ツェンモ(王妃)といった地名は吐蕃時代に名づけられたものだという。[註10]

吐蕃の瓦解

 大国となった吐蕃を根底から揺るがす大事件が勃発した。ティツク・デツェン王の没後王位を継承したランダルマことティ・ダルマ・ウトゥムツェン(809〜843)がラルン・ペルギ・ドルジェによって暗殺された(唐会昌三年)のである。ランダルマといえば破仏の王として悪名高いが、実際はむしろ仏教を保護していたのではないかといわれる。同時代の唐の会昌の廃仏から連想された伝説かもしれない。行者ラルン・ペルギ・ドルジェもまた、伝説では黒帽を被り、顔を黒く塗り、黒く塗った馬に乗ってランダルマを暗殺し、逃げるとき河で墨を流した、ということになっているが、名高い行者に仮託したのかもしれない。この故事はレコンの六月会のなかでもボン教を打破する象徴的できごととして演じられる。実際はボン教もランダルマによって弾圧されているのだが。

 ラルン・ペギ・ドルジェがアムドへ逃げてきたという伝説もある。ランダルマ暗殺のあと、はるばる東へ逃走し、玉樹をへて、レコン北部の尖扎(ジャンツァ)か、あるいは化隆に落ち延びて八人の弟子をもった。そのうちのひとりセ・ギェワ・チャンチュブチプがレコンのチュマ村のタンゲイマ寺を創設したという。[註11]

 ランダルマによる仏教弾圧の際、マル・シャキャムニ、ツァンラプセ、ヨゲジュンがラサを逃れ、ンガリから新疆をぐるりとまわって、現在の青海省へやってきたという。彼らが逗留した地のひとつはマルツァン岩と呼ばれ、のち、この岩をうがってマルツァン岩寺(白馬寺)のもととなる小寺が建てられた。三人の僧の弟子のなかで、もっとも重要なのはツォンカ出身のゲワラプセ(尊称ゴンパラプセ)である。後期チベット仏教の鼻祖であり、アムドの新仏教の鼻祖でもあるのだ。

 ランダルマ事件は権力争いの結果生じたのではないかと思われる。ヤルルンの王統は二派に分かれた。ランダルマの王妃は妊娠したように装い、ある日、昨日生まれたといって嬰児を臣下に見せた。大臣たちはしかし「生まれたばかりの子になぜ歯が生えているのか」とあきれかえった。この子がユムテン(王妃がたてたの意)である。妾妃は実子が殺害されるのではないかと恐れ、日光と夜の灯火によってわが子を守った。この子がウースン(光の守護の意)である。ウースンの王統は西チベットに亡命するが、のち意外な形でアムドとかかわりを持つことになる。[註12]

 そのまえに9世紀中葉の河隴地区に目を向けたい。ランダルマ事件の直後、当地区では吐蕃の将軍同士の争いが勃発し、その結果人民のほとんどが唐に帰順した。ここでは50万人もの漢人が奴隷となり、悲惨な生活を強いられていたのである。

 甘粛・青海地区の奴隷は離合集散をくり返しながら次第に大きな集団を成していき、ウェンモと呼ばれるようになった。とくに869年のウェンモの暴動は大きく、吐蕃全域に広がっていったという。それらの動きは、11世紀はじめの群雄割拠の時代へとつながっていく。甘粛では河州(臨夏)の聳昌厮、青海ではツォンカ(平安)の僧李立遵、○川(楽都)の首領温逋哥などの地方勢力が割拠するようになる。*○はシンニョウに貌。バク。

  唐、吐蕃、南詔という三大国も、9世紀中盤から10世紀初めにかけて軌を一にして分裂ないしは滅亡に至り、混乱の時代が到来する。雲南では南詔が滅んだ後、小さな政権がいくつか交代した後、大理国が起こり、フビライ・ハーン率いる元軍が侵攻してくるまで安定した国政が維持された。唐でも875年に起こった黄巾の乱が収束し、五代十国時代という混乱期を経て、960年に宋王朝が誕生する。ただチベットのみが西チベットにグゲが誕生するものの、中央に統一政権が生まれるまでにはまだ長い道のりがあった。そしてアムドは当時、中国からもチベットからも忘れられた空白地帯だった。

アムドの青唐国

 1008年、河州の商人が西域高昌でウースンの孫を発見し、河州に連れ帰った。ほどなく前述の李立遵と温逋哥が強引にその子どもを廓州に連行し、ツェンポ(吐蕃王)として擁立した。ジャスラ(仏子 997〜1065)である。ジャスラはツォンカを拠点とし、温逋哥の庇護を受ける。そしてのち温逋哥を殺し、自立し、青唐城(西寧)に青唐国を建てた。青唐国はつねにタングート族が建てた大国西夏の脅威にさらされ、何度も交戦しているが、1035年のツォンカ河の役で大勝利を収めて以来、政権を安定させることができた。レコンも青唐国の一部だった。[註13]

 ジャスラからドゥンジャン、アリク(養子)と王位を継承した青唐国は、宋朝とのいわゆる茶馬交易を確立し、財政的にも政治的にも磐石だった。青唐国からは「貢」として馬、真珠、象牙、玉石、乳香などを、宋朝からは「賜」として茶、衣服、金銀などを交換する交易が成り立っていた。11世紀中葉、西夏が甘粛河西回廊を塞いだため、西域高昌などの商人は青唐城をめざすようになった。1083年に王位を継いだアリクは好戦的な性格の持ち主で、◎州に攻め入ったため、かえって宋軍に敗北を喫した。アリクを継いだのはシャチョンだが、1099年、後継者争いに敗れたチェンロジェが宋朝◎西安撫使を導きいれ、宋軍が青唐国に攻め込んだ。茶を湟水に集め、馬と交換する市を設立したのはこのときである。ジャスラ一族はロンツァンを首領として擁立したものの、結局宋に投降することになり、ロンツァン兄は知△州事という名誉職と趙懐徳という名を与えられた。弟は知○州事と趙懐義の名を与えられた。△州は1104年にはじめて西寧の名で呼ばれるようになった。この時期、ロンツァン兄弟に黄南以南を治める力はなかったので、レコンを含む地域はなかば独立していた。

 12世紀は、金と西夏が青海東部をめぐって争奪戦を繰り広げることになった。まず金が1131年、青海東部に侵入し、楽州、西寧州、廓州、積石州(現・循化)などを占領した。1136年には西夏が金の占領地を奪い、金がそれを取り戻したのは1210年以降のことだった。しかしまた1220年には西夏がそれを取り返すというふうに、金と西夏の争いはほぼ百年つづいた。*◎はサンズイに兆。トウ。△はオオザトに善。ゼン。

レコンとモンゴル

 レコンは12世紀頃から宗教の聖地として知られるようになった。ロンウー寺周辺のセク山やシャチョン山に広がるレコン八大成就地の伝説をみると、12世紀頃の故事が多いのである。修行者がレコンに集まるようになっていた様子がうかがわれる。[註14]

 西夏と金はわずか七年ほどの差で滅びている。西夏はモンゴルによって1227年に、金はモンゴル・南宋連合軍によって1234年に滅亡した。チンギス汗は1227年に臨◎、河州、西寧などを攻めてモンゴル帝国の一部とした。太宗オゴデイ(在位1229〜1241)の二男ゴダンは、1236年、四川・雲南攻略に功をあげ、凉州を褒美として獲得する。1240年にはゴダンは将軍ドルタを中央チベットへ送り込んだ。この時期、ゴダンは現在の青海省も受け持っていた。1253年にフビライ汗が雲南へ侵攻したとき、現在の青海省河南蒙古族自治県は物資運搬や兵士の基地になった。*◎サンズイに兆。

 レコンのソグル村はモンゴル人がこの河南から河州や西寧へむかうときの休息地点として村が形成されたという。ソグルはモンゴルの部隊という意味である。ソグル村の住人はいまチベット人として識別されるが、もとはモンゴル人だった。

 土族の言い伝えでは、チンギス汗が青海東部を攻めたとき(1227年)モンゴル兵と地元のホル人が通婚して生まれたのがかれらの祖先だという。ホルは吐谷渾の子孫だろう。吐谷渾の子孫は西夏の中堅層を担っていたともいわれるが、青海では青唐国に溶け込んでいたのかもしれない。モンゴル兵とホル人の女はおなじモンゴル系言語を話すことから、通じやすかったと考えられる。あるいは、土族は純粋に吐谷渾の子孫だが、モンゴルの英雄チンギス汗の血が混じっているというふうに粉飾した可能性もあるだろう。[註15]

 モンゴルが元朝を建てると、チベット仏教のなかでもサキャ派が優勢になった。1244年にゴダンは高僧サキャ・パンディタを凉州に招いた。三年後、甥のパスパ(現在の表記はパクパ)とパグナ・ドルジェを連れてようやく、おそらくしぶしぶ凉州に到着した。1253年、フビライ汗は凉州にいた若干19歳のパスパを招いた。サキャ・パンディタは2年前に没していたのである。最初は軋轢もあったが、次第にフビライ汗とパスパのあいだにチュ(宗教)とユン(パトロン)の関係が築かれていった。フビライ汗はパトロンであるが、同時にパスパはグル(国師)なのである。

サキャ派の聖地レコン

 レコンが宗教的に重要な場所となったのは、元朝の時期である。伝説によれば、パスパがサキャ派のヨーガ師をレコンに送ったという。ヨーガ師はニェンチェンタンラ山麓ダムロク・ロンウに生まれた医師だった。パスパはアムドにサキャ派の教えを広めるべく、このヨーガ師を派遣したのである。アムドへ来る途中、ドワという所で強盗に襲われた。ヨーガ師は呪文を唱え、トルマを岩にぶつけると、崖が崩れて強盗団を生き埋めにした。それ以来人々はヨーガ師をラジェ・ダクナワ(神医岩砕者)と呼ぶようになった。ラジェ・ダクナワはニェンサという所に住んだ。最初の小さなサキャ派寺院が1301年に建立されたというが、はっきりしない。[註16]

 明代のはじめ、ラジェ・ダクナワの子どもロンチェン・ドデブムから九人の子どもが生まれた。そのうち三人が僧になったが、長男ロンウ・サムテン・リンチェンはサフジ・ターウェーフ(サフジ村大百戸)を施主として大小十八寺院を建立した。これがロンウー寺である。なおサフジ村では大百戸ではなく大万戸としている。サムテン・リンチェンの弟ダクパ・ギェルツェンは修行に励み、観音菩薩を見ることができた。下の弟ロド・センゲは学識豊かで、明宣徳帝によって国師に封じられた。この家族は五人の国師を輩出した。

 サフジ村に最初に来た家族(サフジザン)はナンソと呼ばれる。一部のナンソ家族は元末か明初に現在の循化県に移住した。循化県のルロル(六月会)は正月に行なわれる。なお循化県の街に住むサラ族は13世紀はじめに中央アジア・サマルカンドから移住してきたトルコ系のイスラム教徒の子孫である。もともと住んでいたのはモンゴル人で、サラ族に土地を譲って青海湖のほうへ移り住んだという。はじめサラ族は男ばかりだったので、循化ウィンド地方のチベット人の王の許可を得て、チベット人女性を娶って一家をなし、定住することができた。

 元代から明代にかけてアムドにおけるサキャ派の中心は湟中のシナ寺だった。シナ・ゲシェ(学士)とその家族がチンギス汗に気に入られ、パスパの護衛をシナ・ラマ1世が任せられるなど、元朝に重用され、ツォンカ万戸に封じられた。明代永楽8年(1410)にはシナラマ・チュパ・ギェルツェンが国師に任じられ、土地も与えられている。

明代のレコン

 1370年、明の将軍徐達が甘粛定西で元の貴族、拡廓帖木児(ククティムール)を破り、将軍ケ愈が河州を占領し、何鎖南普などの有力者が投降すると、世の趨勢はあきらかになった。甘粛・青海では1371年に河州衛、1373年に西寧衛が設置された。積石州千戸(1371)や帰徳守御千戸所(1375)なども設けられた。レコンは帰徳守御千戸所の管轄下にあり、河州衛の地域に含まれた。『循化志』によれば、帰徳(清代に改め貴徳)十屯が置かれたのは明永楽四年(1406)である。そのうち四屯はレコンの同仁四寨子(呉屯、季屯、李屯、脱屯)であり、現在の土族村、すなわちサンゲション、ニェントフ、ゴマルとガッサル、トルジャをさす。(現在サンゲション村では漢語が話されるが、チベット族として認識される)

 屯田兵の出身者は江南や河州など内地が多く、漢族がほとんどであったと思われる。しかし土族の言語を見ると、サンゲション以外はモンゴル語系の土族語が優勢である。おそらく入植者は数的に優位に立つことはなかったのだろう。

 ニェントフに保存されている『王廷儀碑』(明万暦年間)の碑文はさまざまな情報を与えてくれる。その冒頭に「隴西郡属河州衛境外保安にて建堡、設官、増兵、餉(給料を与えること)したる王廷儀、番(蕃)慰撫の功により官を授かる。特にここに碑に記す」と書かれている。保安四屯(同仁四寨子)の屯首王廷儀は、保安堡の軍千総であり、五百人の兵を率いたという。石碑には軍人の名がずらりとならぶが、ほかにも土木匠、石匠、鉄匠、そして画匠の名が記される。この画匠・梁大智の名が注目される。レコン芸術として有名なレコンの仏教芸術はこの画匠にはじまったのではないかとも思われるのだ。そうするとそもそもの最初から中国画の影響のもとにタンカ芸術がはじまっていたことになる。[註17]

 ボン教についてはあまりはっきりしないが、レコンのムフサ(マクサル)下寺は700年の歴史をもつといい、元代の後半に伝わった可能性が大きい。そのムフサ下寺は貴徳の却毛(キュンモ)寺に属していた。しかし18世紀にはラモデチェン寺のもと、ゲルク派に改宗した。

サキャ派からゲルク派へ

 元朝との結びつきが強かったサキャ派は、元朝が没落すると当然勢力を失っていった。元朝が滅亡にむかい、チベット中央でパクモドゥ派が権力を握りつつある頃、チベット史上もっとも輝かしい存在といえるゲルク派の祖ツォンカパ(1357〜1419)が現在の青海省中県に生を受けた。ツォンカパ年少時の師は、前述のロンウー寺創設者サムテン・リンチェンの師でもあったシャチョン寺創始者チュゲ・ドンレンパ(1309〜1385 レコン・シャブラン村出身)だった。ツォンカパ自身、中央に出てからの師はニヤク・クンガペルやその弟子レンダワなどサキャ派高僧だった。ツォンカパは偉大な仏教哲学者であるだけでなく、多くの偉業をなしとげた実務家でもあった。三大寺のガンデン寺、セラ寺、デプン寺を建立し、ゲルク派の礎をつくったのである。ツォンカパの高弟ゲンドゥン・トゥプパはのちにダライラマ1世に追認された。

 15世紀中葉から16世紀中葉にかけては宗派乱立と闘争の時期だった。大きく分ければ新カダム派、すなわちゲルク派とカルマ派をはじめとする(ゲルク派寄りのパクモドゥ派を除く)カギュー派との戦いだった。大宗派以外にもリンプン氏のような世俗勢力があり、この時点ではチベットを彼らが治める可能性は残されていた。しかしのちにダライラマ2世に追認されるゲンドゥン・ギャンツォ(1475〜1542)があらわれ、ゲルク派がふたたび優勢となった。ゲンドゥン・ギャンツォが没したあと、ゲルク派は求心力を失い危機的状況に陥ったため、カルマ派にならって転生者を探し出した。それがソナム・ギャンツォ(1543〜1588)である。1582年頃、ソナム・ギャンツォの意思によってツォンカパの生誕地に寺院(クンブム寺、通称タール寺)が建てられ、のちアムド最大のゲルク派寺院に発展していく。

チベットとの関係回復を模索していたモンゴルのアルタン汗は、1577年、青海湖南のチャプチャ(共和県)でソナム・ギャンツォと会い、モンゴル語で大いなる海を意味するダライラマという称号を与えた。ソナム・ギャンツォはのちモンゴルを訪ね、布教活動をしている。ソナム・ギャンツォ没後、ゲルク派はアルタン汗の甥スムメタイジの子を転生者として探し当てた。二番目のダライラマ、すなわちダライラマ4世、ユンテン・ギャンツォ(1589〜1616)はモンゴル人だったのである。

 17世紀初頭に台頭したのはカルマ派と結ぶツァンのシンシャク氏だった。それに対しゲルク派は青海のトゥメト族などのモンゴル軍を引き込んで、ラサを制圧させた。モンゴル軍とツァン軍はダムシュンで対峙し、さらにラサ近郊でも対峙するが、1621年、パンチェンラマ1世ロサン・チュキ・ギェルツェンの調停で停戦が成立した。

 1630年代に入って、青海を治めたのはツァン軍・カルマ紅帽派寄りのチョクトゥ汗であり、子のアルサランはハルハのダイチンを殺し、トゥメト族を制圧した。それに対しゲルク派はオイラットのグシ汗に援助を求めた。アルサランは戦っている途中でゲルク派側に寝返ったため、勢力図が変わり、ゲルク派有利の戦況となった。怒ったツァン軍・カルマ紅帽派はアルサランらを殺す。ゲルク派の要請を受けたグシ汗はまず青海でチョクトゥ汗の軍を破り、青海を制圧する。また1639年、カム地方のペリ軍をも破り、カム地方を支配下に入れる。1642年にはツァン地方も征圧し、モンゴル勢の力によってチベット再統一が成し遂げられる。

この時期のモンゴルは一枚岩ではなく、旗同士でいわば内輪喧嘩を繰り広げていたので、ゲルク派軍とツァン軍はどのモンゴル勢力と手を握るかが、命運を分けた。結果的にグシ汗を選んだことが、ダライラマ政権を生む直接的なきっかけとなったのである。もし逆なら、カルマ派がいまのダライラマの席に座っていたかもしれないのである。またこの時期の混乱は、モンゴル勢を青海に入れ、定着させることにもなった。

 1650年、ダライラマを元首とし、ソナム・ラプテンを摂政とする政権が誕生する。グシ汗が実質的な力を持っていたのは間違いないが、チベット中の寺院がゲルク派につぎつぎと鞍替えされ、ダライラマ5世自身強大な権力を手中にする。「偉大なるダライラマ」といえばダライラマ5世のことなのである。5世の時期、周辺国のうちシッキムとは和を結んだが、ブータンや友好国グゲを併合したラダックとは折り合いが悪く、何度も戦火を交えることになる。

 モンゴルの支配下に置かれることの多かったアムドのレコンでも、ゲルク派への鞍替えは続出した。最大寺院ロンウー寺は明万暦年間(1573〜1620)にすでにゲルク派に改宗していた。チュワ・リンポチェ(1581〜1659)は1603年、ダライラマ4世にしたがって中央チベットへ赴き、ジャムヤン・ラマやパンチェンラマ、その他多くの高僧のもとで学んだあと、1608年にレコンに戻り、ロンウー寺を主持している。1652年には青海に行幸したダライラマ5世にも謁見している。しかし同時に禅室にこもって修行しているときにミラレパの幻像を見、逝去のときはミラレパの坐姿で円寂するなど、宗派にこだわっていないようにも見える。

 チュワ・リンポチェの異母兄弟シャルツァン・ガデン・ギャツォ(1607〜1677)はレコンでもっとも尊敬されてきたゲルク派高僧である。ロンウー寺創建者サムテン・リンチェンをはじめ多くの聖者の化身とみなされている。シャルツァンが24歳のとき兄チュワ・リンポチェにたいしてつぎのように語った。「あなたは一般の衆とちがって天賦の才があり、まことに聡明でいらっしゃいます。ウー地方(中央チベット)へ行かれてガンデン寺で学ばれたのも、よりよい仏教をもとめてのこと。よりよい仏教とはツォンカパ大師が創始されたゲルク派のことです。そのような(ゲルク派の)僧になられたことを心からお喜び申し上げます」と。臨○のパスパ寺に詣でるなど、サキャ派を捨てきれないでいる兄にたいし、シャルツァンはきっぱりとゲルク派の優勢を宣したのである。[註18] 

 アムドのサキャ派の中心だったシナ寺もゲルク派に転向した。しかしおなじ地域にクンブム(タール寺)が建立されたため、衰退し、現在では見る影もない。

*○サンズイに兆
トウ。

明末・清初における青海のモンゴル勢力

 17世紀は明が衰え、清が力を増すまでの間、モンゴル勢力がある程度盛り返した時代だった。モンゴルの各部は、チベット仏教の各宗派と結託して権力を奪取しようと狙っていた。とくに躍進めざましかったのが、オイラート四部のひとつホショト部である。ホショト部グシ汗(1582〜1654)は、1637年にカルマ派を推すハルハ部のチョグトゥ汗を破り、翌年ラサでテンズィン・チュキ・ギェルポ、すなわち持教法王の称号を受けた。1640年には西康(現・四川省西部とチベット自治区東部)に入り、ボン教を擁護し、ゲルク派、サキャ派、カギュ派を弾圧した白利(ペリ)土司を滅ぼした。このときに監禁されていた多くの僧侶を解放したので、グシ汗はチベットの支持を勝ち得ることができた。そしてグシ汗はすぐに中央チベットに進軍し、1642年、ツァン王を殺してラサにダライラマ5世の政権を確立した。同年、グシ汗はロサン・チュジ・ギェルツェンにパンチェン・ボクトの称号を贈っている。これがパンチェンラマの称号のはじめである。1717年にグシ汗の孫ラザン汗がジュンガル部ツェラン・アラプタンによってラサで殺されるまで、ホショト部がチベットをコントロールしていた。

 青海を支配したのもグシ汗とその息子たちだった。青海を統治した左右翼のうち右翼を五男イルドゥが担当した。イルドゥの二男がダルジ・ボショクトである。ダルジ・ボショクトはニンマ派にいれこんでしまったため一族に殺されてしまった兄にかわって青海湖などの所領を得た。さらにレコンを含む青海東南、甘粛などを統括するようになった。1694年、ラサに入り、アムド出身の高僧ジャムヤンに会い、寺院創建を強く勧めた。ダルジ・ボショクトは1698年に病没するが、1710年、その子河南親王1世チャハン・テンジンの時に完成する。これがゲルク派六大寺のひとつラプラン寺である。ラプラン寺の大施主である河南親王の所領はレコンも含まれる青海省黄南州の河南蒙古族自治県である。親王の末裔は現在も県の要職にあり、全人代の代表でもある。

 レコンからするとラプラン寺はもっとも近くにある大寺院であり、出家した者がめざす聖地でもあった。1世ジャムヤン・シェパ(1648〜1721)は青海ホショト部ベルチャ汗テンジンから召請を受け、故郷甘南に帰って開いたのがラプラン寺である。2世ジャムヤン・ジグメ・ワンポ(1728〜1791)はレコンのナンラ(現・尖扎県)出身、3世もレコンのニェントフ村出身だった。ニェントフ村は前述の通り土族の村である。

ダライラマ5世

 オイラート部を統一したのはバアトゥル・フンタイジだった。バアトゥル没(1653年)後、継いだのは息子ガルダンである。ガルダンはのち(1678年)ダライラマ5世からテンジン・ボショクト汗の称号をもらった。

 1665年から1685年にかけて、ジュンガリアの内紛を逃れて大量のモンゴル人が青海・甘粛に流れ込んできた。現在、青海モンゴル族の人口は多いが、ほとんどこの時期の移民だと思われる。

 明朝最後の幼帝を殺し、ビルマにも攻め込んでいた平西王・呉三桂が雲南で挙兵し(1673年)、四川に侵入しようとすると、清朝はダライラマ5世に援軍を求めた。しかしダライラマ5世側は呉三桂とも通じていたのであいまいな態度を取り、それどころかモンゴル軍勢をさしむけ、清・チベット境界のダルツェンド(現・康定県)を占領したため、清朝とダライラマの関係は冷え込んでしまった。

 そしてこの「偉大なるダライラマ」は1682年に没する。ダライラマ5世の実子ではないかという噂の絶えなかった摂政(デシ)サンギェ・ギャンツォは、1697年まで死を秘匿した。5世のカリスマ性を利用して15年間も国政を動かしたのである。その間に南チベットのテルトン(埋蔵宝典発掘師)ペマリンパとも血筋がつながるニンマ派の家族に転生を発見し、教育した。しかし15年間も俗塵にまみれて育ったためか、ツァンヤン・ギャンツォはラサのポタラ宮にやってきても、

ダライラマにふさわしい生活をおくることができなかった。酒と女を愛し、類まれな詩人としての資質を見せた6世は、1706年、召喚され北京へ向かう途中、青海西南のクンガ湖で消息を絶った。しかしのち、伝説ができあがる。じつはツァンヤン・ギャンツォは死をまぬかれ、チベット、中国だけでなく世界を旅し、モンゴルの寺院のケンポ(寺主)となって長い生涯をまっとうしたというのである。この物語は6世の行方不明からわずか数十年のちに書かれたものであり、見聞録と冒険小説を兼ねたいわばチベット最初の小説である。しかし青海には6世が生き延びたという伝説がいまなお残っており、あながち荒唐無稽な物語ともいえなくなる。

モンゴル勢力の衰退と清朝の影響力増大

 上述のガルダンは元帝国の再興を夢見ていた。そのためにはハルハ(現在のモンゴル共和国)を基礎にすべきと考え、1686年、3万の兵を率いてハルハを攻めた。ダライラマも清朝も侵攻をやめるよう呼びかけたが、ガルダンは無視して二年後にはハルハを落とした。ガルダン軍はその後清朝の境界を侵すようになったので、清朝はガルダン軍を攻め、撃破した。その頃ハルハの何人かの汗(ハーン)は清に帰順した。清朝はガルダンとデシ。サンギェ・ギャンツォが結託しているのではないかと疑い、ついには1697年、謀ってガルダンを捉え、殺した。

 青海においては宗教政策として、清朝は青海モンゴルを掌握するためにグンルン寺(祐寧寺)座主を務めたチャンキャ2世ンガワン・ロサン・チュダン(1642〜1714)を精神的支柱として立て、1700年には国師に任命した。その後グンルン寺座主トゥカン・ンガワン・チュキ・ギャンツォ(1680〜1736)のときにロサン・テンジンの乱が起こるが、寺が破壊されたあと、清朝は復興の手助けをしている。『一切宗派源流教義善説水晶史』(トゥカン宗派源流)の著書などで知られる大ラマ、トゥカン3世ロサン・チュキ・ニマを清朝はたびたび招いた。
 清代、朝廷は大ラマに称号を与えていた。ホトクトゥ(呼図克図 12名)ノメンハーン(諾們汗 5名)パンディタ(6名)などである。ホトクトゥに封じられたのは12名だが、上述の祐寧寺のチャンギャ、トゥカン、スンポ、ラプラン寺のジャムヤンなどがよく知られている。
 日月山(青海省湟源県)トンコル寺のトンコル・ホトクトゥもホトクトゥのひとりである。もともとトンコル1世から3世はカム・バルカンの出身であり、寺もカムにあった。3世は青海湖周辺やゴロクで積極的に布教活動を行い、またヤルート・モンゴルをゲルク派に導いた。1639年、トンコル3世が没し、遺体がカムへ向けて搬送される途中、偶然19歳の漢族の青年の遺体が墓場に運ばれところだった。と、突然青年が蘇り「我輩はトンコルである」と宣した。トンコル4世(1621〜1683)である。こういう転生の仕方はきわめてまれなことだ。

 中央チベットで1703年に法王(チュギェル)の称号を引き継いだのは、康煕帝の支持を得ていたラザン汗だった。デシ(摂政)はラザン汗を毒殺しようとしたこともあった。1705年の会議で、デシをはじめとする有力貴族はラザン汗を批判した。ラザン汗は青海へ行くと見せかけて途中で兵をあつめてラサに引き返し、デシを処刑した。

 ガルダン亡き後、ジュンガル部のリーダーとなっていたのはツェワン・ラプデンである。1717年、ジュンガル部はラザン汗を討つべく、六千の兵をラサへ送った。ラザン汗は清朝に援軍を求めて対抗しようとするが、結局殺された。

 ジュンガル部はラザン汗を退けたが、清軍が若いダライラマ7世を連れてラサに進軍してくると聞くと、北方へ退却せざるを得なかった。その間にチベットの将軍カンチェネとポラネの軍は西チベットを奪回した。1720年、ポラネを首班とする行政府ができた。

 ホショト部などの青海モンゴルの間には、清軍に協力したにもかかわらず「青海のチベット王」といった称号を与えられず、不満がくすぶっていた。そのころ内紛を戦っていたグシ汗の孫ロサン・テンジンが立ち上がり、青海モンゴルの兵を集めて蜂起した。かなりの数のチベット人が同調し、蜂起に加わった。このとき指導的役割を演じたのは、クンブム寺(タール寺)の僧侶たちである。1723年末、20万人ものモンゴル人、チベット人が西寧を攻撃した。しかし翌年、清は大将軍年羹尭(ニェングンヤオ)を派遣し、鎮圧することができた。このロサン・テンジンの乱は悲惨な結果を引き起こした。清軍によって寺院は破壊され、大量の血が流れた。モンゴルはラサやツァンから完全撤退し、青海・甘粛に定住を許されたものの、権力を奪われた。またチベットの部落に対しても重税が課せられるなど厳しい統治がはじまった。なお年羹尭はグンエという名で呼ばれ、神格化され親しまれている。一見すると逆のようだが、数十年に及ぶモンゴルの支配に辟易していたのかもしれない。

 1715年、康煕帝(1722年逝去)のあとを継いだ雍正帝はラサにテンギュル北京版とツォンカパ著作集を贈り、チベット仏教の保護者であることを誇示したが、翌年ニンマ派禁令とゲルク派への改宗を旨とした勅令を発した。元ニンマ派僧侶だったポラネは自分の領地に隠れ、難を逃れた。ポラネは清朝に援軍を求め、ツァンから巻き返しを図った。翌年暮れ清軍がラサに到着し、18人の反逆者を処刑し、さらに清に対して反抗的だったダライラマ7世を一時北京へ追放した。一年後カムのガタル寺に移動し、謹慎。7世がラサに戻ったのは1738年のことだった。その間、清朝はパンチェンラマに権限を与えた。このダライラマとパンチェンラマの関係を利用した政治手法は現在まで受け継がれているといっていい。ふたりのアンバン(駐蔵大臣)を置いて宰相ポラネを監督し、ラサ、チャムド、リタンに計4千の兵を配置し、清朝の本格的なチベット統治がはじまった。1747年にポラネが没すると、その四年後に清朝は行政府におけるダライラマの権限を強めた。しかしダライラマ8世から12世まではみな短命で、権力が集中されないようにたくまれていたのかもしれない。

グルカ戦争と外国勢力の干渉

 清朝の宗主権を決定的に強めたのはグルカ戦争だった。グルカはネパールを統一し(1769)その十年後にシッキムを攻略した。その際チベットがシッキムに味方したことを理由に1788年、グルカはチベット領内に侵攻した。このとき清の援軍が遅く、一戦も交えないまま不利な講和条約を飲んだ。1791年に二度目のグルカ侵攻があると、1万3千の清軍、7千の四川チベット軍の援護があり、チベットはグルカ軍を撃退することができた。グルカ軍を導いたのはじつはカルマ紅帽派活仏だった。実弟であるパンチェンラマ4世の遺産相続をめぐるトラブルから発生した事件だった。チベット内のスキャンダルを収拾したこと、他国の侵略から救ったことなどから、清朝の介入を許し、その宗主国としての地位はいやがうえでも強まったのである。

 19世紀はダライラマ9世から12世まで夭折がつづくという暗黒の時代だった。在位期間(すなわち寿命)は9世10年、10世21年、11世17年、12世19年にすぎなかった。その間に7人の名代(ギェルツァプ)が入れ替わり、権力争いに明け暮れた。

 その流れが断ち切られたのはダライラマ13世(1876〜1933)の治世である。13世ははじめてみずからの意思でチベットの独立をめざし、改革を断行しようとしたダライラマだった。

 19世紀末になると清朝は衰え始め、インドからチベットをうかがう英国に対して有効な策を立てることができなかった。1903年、ヤングハズバンド率いる英国軍はチベット領内に入り、会談を要求したが、チベット側はこれを拒否。翌年英国軍はギャンツェに到ってチベット軍との間ではじめて武力衝突が勃発した。しかし英国の近代兵器の前にチベット軍はなすすべがなかった。英国はラサに入り、ポタラ宮で条約が締結された。そのころモンゴルにいたダライラマ13世は青海まで戻ったあと、北京へ向かった。いっぽうパンチェンラマ6世は条約締結の翌年インドを訪問し、歓待を受けた。このころから両ラマ間の亀裂はあきらかになった。その翌年、チベットが英国に対して払う賠償金を清朝が肩代わりし、曖昧になりかけていた清朝の宗主権が確認されることになった。清朝はさらに1910年、四川軍をラサに送ったので、ダライラマ13世はインドに亡命せざるを得なかった。

 しかし1911年11月の辛亥革命によってがらりと様相が変わった。ラサに駐屯していた清軍は突然追われる身になって、なんとかインド経由で脱出した。親清派のチベット人官僚は粛清された。二年後にラサにもどったダライラマ13世は独立を宣言したが、それは清にも英国にも認められなかった。1914年にはシムラ会議が開催され、のちのモンゴルのようにチベットを内外に分け、内チベットのみに中華民国の宗主権が認められた。

清代以降のレコンの宗教

 17、8世紀、レコンでは多くの寺院が創建され、他宗派の寺院もゲルク派に改宗するなど、現在の主流派からすればおおいに発展した時期だった。サキャ派からゲルク派に転向したロンウー寺は初代シャルツァン・ガデン・ギャツォのとき法相僧院聞思堂、二代目シャルツァン・ンガワン・ティンレー・ギャツォ(1678〜1739)のとき密教学院、三代目シャルツァン・ゲンドゥン・ティンレー・ラブギェ(1740〜1794)のとき時輪学院を建てた。そのほかサンゲション下寺(17世紀中葉創建)やニェントフ寺(18世紀中葉ロンウー下寺になる)ゴマル寺(1741年創建?)などの有力寺院が建てられたり、改宗したりした。

 「レコン芸術」のはじまりはシャルツァン1世と関連した伝説によって語られる。現在もロンウー寺の活仏といえばシャルツァン1世をさすほど地元民の間では信望を勝ち得ている。

 外国にもっとも名が聞こえた高僧は、しかし正統のゲルク派以外から生まれた。レコンの中心から38キロ東北に位置するショトン村ニンマ派寺院ヤマ・タシチ寺のシャプカルパ1世ツォドゥ・ランドゥ(1781〜1851)は、ミラレパの生まれ変わりであり、チベット中を遍歴しながら修行し、『シャプカルパ自伝』『四幻書』『道歌集』などを著した。現在のシャプカルパの転生はネパール・ソルに在住する。レコンの最大寺院はロンウー寺だが、ニンマ派の在家修行者ンガクパだけでもレコンには2千人いるといわれる。レコンでもっともさかんなのはニンマ派ともいえるのだ。またボン教もオンギェル寺を中心とし、四つか五つのボン教村があり、無視できない勢力を維持している。[註19]

 20世紀になってこの村からもうひとりの天才が生まれた。博学のチベット学者であり、奇人としても知られるゲンドゥン・チュンペ(1905〜1951)である。チュンペは幼少時、ヤマ・タシチ寺に学び、ロンウー寺、ラプラン寺、デプン寺をへてインド、ネパール、ブータン、シッキムなどを遍歴しながら学び、『白史』『列国漫遊記』など多数の著書をあらわすもののラサの獄中で死去した。[註20]

清朝に対する青海チベット人の闘争

 ロサン・テンジンの乱(1723年)のあと、1731年、清朝は「安集番民」政策を実行した。すなわち黄河でもって以北はモンゴル、以南はチベットとし、それを越えてはならないと定めたのである。チベット人の土地は貴徳庁(貴徳、貴南、同徳など。熟番54族、生番19族、野番8族)と循化営(夏河、臨夏、循化、同仁、沢庫など。生番52族、熟番18族)の管轄とした。力で抑えようとしたモンゴルにかわって、清朝は行政機構をこまかく規定し、網を張り巡らすような統治体制を確立したのである。

 しかし西寧弁事大臣がモンゴルをえこひいきしたことから、モンゴル人とチベット人の間に対立が生じた。1778年、チベット人による略奪が頻繁にあるというモンゴル側かえあの訴えがあって、青海弁事大臣恵齢は二回にわたって500人の官兵を派兵し、各部落の兵4千6百人を徴兵して、レコンのゾンカル寺に圧力をかけ、チベット各部落から牛、羊、計6153頭を賠償として払うよう命令した。

 基本的に黄河以北は土地が肥沃で良好な牧草地が多く、清朝の土地の割り振りにチベット人は納得していなかった。チベット人は頻繁に黄河を越えて遊牧し、またモンゴル部落を襲って略奪を働いた。モンゴル24旗のうち23旗が略奪の被害に遭ったと報告されている。1万人以上が難民となってダンガル(現・源県)や甘州、凉州地方に流れ込み、大きな社会不安要素となった。1821年、黄河以南への帰還命令をチベット人に無視されたので、陝甘総督長齢は強硬手段に打って出た。8千の兵を集め、武力行使に踏み切ったのである。このときチベット部落の首領を殺し、彼らを黄河以南に強制的に戻した。

 チベット・モンゴル間の関係でもっともうまくいっていたのは、ラプラン寺の大施主河南親王のチャハン・ノメン汗旗とその周辺のチベット部落だった。このモンゴル・チベット連合は清軍にとって最大のターゲットだった。成果のあがらない長齢にかわって総督に就いた那彦成は、連合体を分離して攻める作戦を取った。そのころチャハン・ノメン汗旗は黄河以北に移動していたので、那彦成軍は黄河以南の貴徳や循化を徹底的に攻略した。孤立したチャハン・ノメン汗旗とチベット部落は南下を余儀なくされた。

 1842年11月、黄河が氷結している間に貴徳地区のチベット部落が河を渡ってココウスへ攻め入った。報告を受け取った陝甘総督フニヤンアは甘粛提督周悦勝、西寧総兵徐華清、站柱とともに総攻撃の準備を進めた。そして翌年春から夏にかけて戦い、九度勝利を収め、千人近いチベット人を殺したと報告された。フニヤンアはそれを「粛清」と呼んだ。しかしじつはほとんどが功績を大きく見せるための虚偽の報告だった。内部告発からそのことがばれそうになったフニヤンアは、道光帝に自軍にも相当の被害が出たことを奏上した。その後まもなくフニヤンアと周悦勝は病死したので、責任が追及されることはなかった。それからも毎年のように青海チベットへの遠征がおこなわれたが、太平天国の嵐が中国中に吹き荒れると、清はそれどころではなくなった。

青海・甘粛に台頭する回教徒パワー

 19世紀中葉からの1世紀、青海・甘粛の「問題児」となったのはモンゴル人でもチベット人でもなく、回教徒だった。第二次大戦の頃、青海・甘粛はモスリム国ではないかと思えるほど回教徒が勢力を伸ばすのである。

 最初に火をつけたのは循化県サラ族のハッサン・アホンの名で知られる馬三である。1860年、馬三は循化、巴燕戎格のサラ族と米拉溝の回族を率い、李二堡と周家大庄を焼き討ち、略奪した。知県は鎮圧に失敗したので、西寧に援軍を求めた。西寧府は5千人の兵を派遣したが、抑えることはできなかった。馬三は翌年西寧に侵攻し、陝西総督兆霖が兵を送って食い止めるという騒ぎとなった。

 しかし翌1862年、馬三は西寧と蘭州の交通を遮断し、西寧を取り巻いた。それに呼応したのは、寧夏、霊州の馬化竜、河州、狄道の馬占鰲(ばせんごう)、河西走廊の馬文禄だった。回族の蜂起というより、中国西北のモスリム革命といっていい大規模な反乱だった。

 清朝は武力鎮圧をあきらめ、「回でもって回を治める」すなわちモスリムでもってモスリムをおさめるという巧妙な策で打って出た。たとえば西寧は馬柱源に任せた。しかしこの馬柱源は貴徳庁回教徒、河州回教徒、それにあとで加わった馬三とともに貴徳を攻略し、武器を奪って同知一家を殺害するという残虐な行為に走っている。清軍は馬柱源を攻めたが、食糧さえ十分でなく、軍は攻撃以前に自滅した。結局、清朝の名の下に馬柱源は堂々と西寧の首領となったのである。

 しかし清朝は面子をかけて大物中の大物、太平天国鎮圧の功労者、左宗棠を回教徒の鎮圧の任にあたらせた。肩書きは欽差大臣兼陝甘総督である。1867年、大軍を率いて陝西に攻め込み、回教徒蜂起の首領三人を駆逐した。そして1871年、左宗棠は西寧の馬柱源と粛州の馬文禄を分断させる作戦に出た。つぎに武将劉錦棠と何作霖を西寧に送り込み、力でねじ伏せた。西寧が陥落したあと、清軍は循化県でサラ族を鎮圧した。

 この「回民抗清」(1862〜1873)の期間に台頭してきたのが清に降った回教徒、馬占、馬安良父子とその部下馬海晏、馬麒父子だった。1900年、八国連合が北京に侵入したとき彼らは正陽門を守備し、功をあげた。民国元年(1911)馬安良は国民党甘粛支部長に任命され、1915年、馬麒は青海の行政の長である甘辺寧海鎮守使と蒙番宣慰使を兼ねた。馬麒はまた弟の馬麟を玉防支隊司令に任命し、青海玉樹地区(ジェクンド)を統括した。いよいよ馬家軍閥の時代が幕を開けようとしていた。*○乃に小。ガ。

馬家軍閥時代

 馬家軍閥時代は回教徒とチベット人の軋轢の時代でもあった。最初の象徴的な事件が1913年に起こった。イスラム商人馬進良の隊商が黄河沿岸ラジャ寺付近を通過中、ゴロク部落の強盗団に襲われ、物資を奪われたうえ、死者も出た。馬安良はすぐにラプランに調査団を派遣し、圧力をかけた。その結果ゴロク部落は犯人を差し出し、多額の賠償金を払うことになった。

 1920年、馬麒はアンニマチェン山地区の金鉱脈を開発し、それにあわせて玉樹と源間の商業活動を振興した。その年、馬麒のキャラバンがバヤンカラ山口にさしかかったとき、ゴロク・ゴンマツァン部落ガル・マトドゥ率いる千人あまりの強盗団が襲いかかった。馬麒の牛500頭とすべての物資が奪われ、鉱山開発師も殺された。翌年馬麒によって「征果洛(ゴロク)司令」に任じられた馬麟は、三千あまりの兵を率いて西寧を出発した。馬麒は部隊を四分し、ゴンマツァ部落を包囲した。没したガル・マトドゥにかわって首領になったデンチュシェが退却したあと、村では虐殺がおこなわれ、寺院が焼かれ、家畜や財産が略奪された。馬麟軍に対しゴロク各部落は抵抗したが、ラプラン寺、ラジャ寺の高僧の仲介によって停戦に至った。しかし馬麒麟や源、玉樹の商人のこれまでの被害に対する賠償が求められ、家畜や財産の4割から5割も賠償金として払うはめになった。また多数の若者が西寧に連れて行かれ、奴隷や妻・妾にさせられた。

 1927年、ついに国民党軍が西寧に入場した。ついで国民党軍は増税策をとり、イスラムの習俗を軽んじたうえ、河州のモスクや村を焼き払ったので、多くの回教徒は反国民党側にまわった。とくに馬仲英は河州府を三度攻撃したが打ち破ることができず、ラプラン寺やチョニ寺の一部を焼いたり壊したりしたあと、レコンの保安に到った。ここでは村人が歓待したので殺戮はなかったが、そのかわり五屯(レコンのサンゲション)に侵入し、虐殺をおこなった。その後馬仲英は貴徳に移動したが、ここでは歓待されたので金や財物だけ受け取り、西寧をへて、源へむかった。ここでは国民党軍が入城したときを見計らって、営長の馬歩元とともに町全体を焼き払った。死者は二千人を上回ったといわれる。馬麟はこのとき発足した(1929)青海省の主席に就任したばかりで、いわば官軍であり、賊軍の馬仲英に総攻撃を仕掛けた。馬仲英軍は河西走廊へ敗走した。虐殺に参加するつもりのなかった馬歩元は射殺された。

 青海省主席代理(1938年より正式に主席)の馬歩芳は馬麒の牧民鎮圧政策を受け継ぎ、ゴロク等の牧区に重税を課すなど締め付けを強くした。馬歩芳部はペユル寺に駐屯して税の徴収を促進した。しかし各部落は激怒し、ペユル寺を包囲した。このとき官軍の兵数十人が殺されたという。ゴロク部落は馬歩芳を恐れ、数人の兵を人質にとって四川側の森に逃げ込んだ。そのニュースを聞いた馬歩芳はすぐ馬忠義の軍をペユル寺へ派遣し、周辺のチベット部落で千人から二千人を虐殺した。馬歩芳は合計すると八度、ゴロクなどへ派兵し、虐殺を繰り返した。馬歩芳は十年にわたって権勢をふるったが、共産勢力が中国国内を掌握し、形勢が悪くなると、重慶をへて国民党とともに台湾へ脱出した。しかしその後中華民国サウジアラビア大使に任命され、赴任中に天寿を全うしている。イスラムの聖地における余生は比較的安穏なものだったようだ。