レコン民族誌

 

 

レコンの社会と文化

 レコンを含むアムドの農業区(ユル yul)は、古くから戦略的農業基地として発展してきた。農民(ユルパ)と、遊牧区(ドク 'brog)の遊牧民(ドクパ)とは、生活様式ばかりか、身体的特徴や言語にも違いが生じている。

農民の思考法が遊牧民のそれと異なるのは当然のことであり、祭礼(ルロル祭)にもそのことが反映されている。

しかし、レコンで実地調査してみると、農民とはいっても、中国大陸の農民とはずいぶんおもむきがちがうことに気づく。定着農耕民でありながら、かならず若干の遊牧民的な家畜を所有しているのである。まるで定着する前の遊牧民の頃の名残であるかのように。かつて屯田兵が定着する場合も、牧畜兼業農民であったと思われる。それがレコンのチベット人のもっとも一般的な生活形態だった。註1

 この章ではレコンの定着農耕社会について述べたい。重点的に調査した部落は、チベット人の部落としてサフチ(Sad dkyil 約200戸 約1100人)、テウ(The bu 67戸 370人)、ソグル(Sog ru 90戸 675人)、マパ(sMad pa 115戸 670人)、ロンジャ・マル(gLing rgya ma ru 82戸 560人)。

土族の部落としてニェントフ(gNyan tog 350戸 2300人)、トルジャ(Tho rgya 170戸 245人)、またかつては土族、現在は蔵族に分類されるサンゲション・ヤンゴ (Seng ge gzhong ya 'go 128戸 765人)の八部落である。2

 

部落の由来

 サフチ…最初の家族サプチザンは中央チベットのタグロンからやってきた。はじめ四,五家族にすぎなかったが、タウェグ(大万戸)のころに栄え、ロンウォ寺を建てた。詳しくは前章を参照。

テウ…古くから三つの部落があった。現在糧油公司がある場所にゲリン寺が建てられた。

この寺の僧侶をガルワ(テントを建てる人、の意)と呼ぶが、ガルワがやってきたことによってテウができた。

ソグル…河南県のモンゴル人がレコンに寄ったとき常宿にしていたのがソグル。チンギス汗の時代にソグルになった。

マパ(ドンカム)…最初にロクマ部落があった。北東からジャムが侵攻し、ジャムコル部落になった。ズナン部落、ついでカワルマ部落がジャムコル部落の上方に移動してきた。長い間にそれらはひとつになり、ドンカム・ジャウオ・スムガとよばれるようになった。ドンカム(枯れ木の意)の村名由来については伝説の項参照。

ロンジャ・マル…ロン(リン)国からやってきた。リンとはケサル王物語中の中心的な国のことだが、実在していた。

ニェントフ…フビライ汗のとき従軍してやってきた。言語的には、モンゴル語系土語60%、チベット語36%、漢語4%の比率になっている。

トルジャ…チンギス汗に派遣されてやってきた。

サンゲション…吐蕃ティソン・デツェン王の時代、唐との関係が修復し、吐蕃兵たちが漢人の女を嫁にして住み着いた。母は漢人、父はチベット人、という言い方をする。しかし周囲からはチベット化した湊族と捉えられることが多い。言語は漢語63%、チベット語37%の比率になっている。

 

職業

 以下、幹部(las byed pa 公務員)を引いた割合が農民の割合と考えていい。

サフチでは幹部の割合が40%。テウでは幹部の割合が19%、その他商人3人、絵師1人、鉄匠1人。

ソグルでは幹部70%、商人8人、大工12人。

マパでは幹部10%。

ロンジャ・マルでは幹部は30人のみで農民95%、牧民10戸。

ニェントフでは絵師150人(人口の6・5%)、幹部250人、商人20人。絵師が突出している。

トルジャでは幹部300人、商人3人、絵師8人。

サンゲション・ヤンゴでは絵師250人(人口の33%)、農民75%、幹部62人。

レコンは「レコン芸術」として知られるタンカ(仏教掛軸画)製作がさかんな土地。とくに四屯(ニェントフ、サンゲション、ゴマル、ガサル)とよばれた村々には絵師が多い。画工伝説に関しては伝説の項参照。

 

農作物と農業カレンダー

 テウの農業カレンダーをつぎに示す。(期日の表示は農暦)

 

作物

播種時期

収穫の時期

小麦

2・18

7・5

チンコー麦

2・18

6・20

2・20

6・10

ゴマ

2・22

6・30

油菜

2・18

6・10

ジャガイモ

2・30

8・15

 

 テウは小麦とチンコー麦栽培の境界上にあり、おなじ田で両者を栽培する場合もある。

 小麦にもアポ(a po)とツェメ(tse me)の二種類がある。一畝あたりの収穫量は750キログラム。

*やや高度の高い村では、3月13日に播種式をおこなう。このとき五穀豊穣を祈って、ヤクの角に白い羊毛の束を結ぶ。実際に播種をするのは式の一、二週間後。

 

家畜

 ここではマパを例にとりたい。

黄牛(あかうし)各戸に3〜5頭。総計230頭。

ラバ  各戸に1頭。総計65頭。

ロバ  各戸に1〜2頭。総計80頭。

ブタ  総計40匹。

ヤギ  総計50匹。(7戸のみ)

 また参考として、山間部の村タルジョン(Dar grong 海抜3000b 32戸 260人)を例にとろう。(ダルジョン村についてはボン教の項も参照)

ヒツジ 1400匹。

牛科  200頭。

ヤギ  160匹。

馬  10頭。

ラバとロバ 90頭。

 比較的低地のマパ(海抜2200b)と山上のタルジョンとではおのずから家畜の構成がちがってくる。広大な小麦田(小麦の栽培上限は二六〇〇b前後)が広がるマパではブタを飼育する家庭も多く、漢族の畜産兼業農家とさほど変わらない。

いっぽうタルジョンはヒツジ(綿羊)の占める割合が圧倒的に高く、岩肌むきだしの山塊が連なるスケールの大きな風景のなかに牧夫がヒツジを放牧する姿を見ると、遊牧民ではないかと錯覚してしまうほどである。しかし山の斜面を削って棚田をつくり、狭い耕地面積をフルに利用してチンコー麦を育てる農耕民でもあるのだ。おそらく前身は遊牧民だったのだろう。

 

住居(別紙参照)

 図はマパの民家の平面図である。横幅が20b、奥行きが35bもあり、200坪ほどの敷地面積はかなり大きな部類に入るが、平均的な民家でも80坪ぐらいはある。特徴的なのは、長方形の建物の中央が畜圏(lhas ra)になっていることだ。といってもほとんどの場合、家畜は前門を入った脇か敷地外に設けられた家畜小屋に収容されていて、ここは中庭として使用される。

中庭を取り囲むように、小麦など収穫物を貯蔵する部屋や農機具置き場などの部屋もあり、畜産と農業の両者とも生活の核になっていることが、部屋の構成にあらわれている。

 前門は通例南に面していて、門内側の左右に家畜部屋、トイレがある。牛糞をパイ状に固め、壁に貼り付けて乾燥させる家も多い。良質の燃料を得るためである。北側の奥には厨房兼食堂の部屋がある。西北隅の部屋が通例母室(ma khang)とよばれる客間。東北隅の部屋は物置庫であったり、客用寝室であったりして、一定ではない。

 チベット人の民家に欠かせないのは仏間(mchod khang)と香炉(bsang khung)だ。仏間には家族の噂好や信仰に応じて観音菩薩像やパドマサンバヴァ像が祭ってあったり、パンチェン・ラマの写真が飾ってあったりする。香炉は多くは中門(nang sgo)を抜けたところの中庭の隅に置かれた瓶形の香炉であり、ここで杜松の枝をくべて起こした焚香(サン bsang)を神に献納する。

 マパでは際立っていないが、とくにテウやソグル、ニェントフなどでは村を取り囲む外壁が五bにも達し、村全体が要塞のような外観を呈している。各家の壁も高く、前門も頑丈にできており、外敵にたいしてきわめて堅固である。何百年にもわたって戦争や強奪が頻繁に発生したという歴史的経緯もあるが、半世紀前にも回教徒の侵略があり、過去の遺物とはいえない。

 

食べ物、飲み物

 麺(thug pa)、コレ(go re パン)、茶が基本。*コレは自家製。

 ツォマ (tshod ma 野菜ギョーザ)、肉の煮込み、油で揚げたコレ。

 バター、ザンパ (麦こがし)。*バター茶はないが、茶にバターを溶かして飲む。

 ヨーグルト。*各家庭でも作る。

 チンコー酒(nas chang 蒸留酒)。*自家製もあるが市販されたものがほとんど。

 祭日や年節にはジョンジェ(gro 'bras 人参果とご飯を混ぜ合わせ、砂糖をかけたもの)を食べる。

 人が死んだときは、ニョトク(nyog thug 豆のヌードル)。

 

装身具

 シル(byi ru)の首飾りは女子にとって価値あるもの。とくにルロル祭のときはレンタ

ルをしてでも立派な珊瑚をつけたがる。良質の珊瑚一粒で3千元(約5万円)もする。平均的で一セットで5万元(約85万円)にもなる。

ある16歳の少女の場合、母親が40歳のとき、長女と次女に半分ずつ分け与えたという。そのため3万5千元分はじぶんのもので、残りはレンタルだった。その原産地は台湾。ある別の既婚女性の首にかけているシルの飾りについてたずねると、原産地はインドであり、10万元の値打ちがあるとこたえた。

 ついで珍重されるのはトルコ石(g-yu)。

 ングドン(dngul rdumg 銀飾)を頭の上に、コル(sko ru 銀飾)を長い髪の端につける。

 集りのときに着用する民族衣装には男女ともカワウソの毛皮シャム (sram)が用いられている。上下それぞれ3千元、つまりあわせて6千元にもなる。布代100元、縫製代30元を引いた残りがシャム代と考えていい。

 

服飾

 夏服。150元くらいの布で作る。冬服。400〜600元の羊皮で作る。

 祭りのときの夏服。プ('bob 靴下)、ズイマ(bzos ma)、テマ(ther ma)150〜200元。トゥラ(phrug lwa)400〜900元。ツレンカンディマ(tshil len kha 'dris ma チベット式ワイシャツ)80〜180元。祭りのときの冬服。ツァル(tsha ru 子羊の皮で作った服)千元以上。シャムは上述。1500元以上。ワ(va キツネの毛皮で作った襟)150〜200元。ワシャ (va zhwa キツネの毛皮で作った帽子)100元。

結婚

 通常自由恋愛結婚だが、まれに両親が決める場合もある。婚約するとき、ふつう男が茶と酒、生地、帯、カタをもって相手方の家をたずね、「嫁にください」と申し込む。家族、親戚が一堂に会し、認めるかどうか話し合う。許諾されると、男は酒を十本以上女の父に贈る。父はそれを村中にふるまう。仲人は親戚から選ぶ(ひとりとはかぎらない)。

仲人は期日から食事、飾りつけ、必要なものを借りる、親戚・友人・村人に知らせるなど、すべてのことを担当する。結婚式のとき、いちばん奥の上座に座るのはアジャン (新婦の父)、ついでマシャン(母の兄、あるいは男の最年長者)である。あとはだいたい年齢順。はじめ新婦の家で式をおこない、ついで新郎の家でおこなう。

 新郎は4百から8百元、ときには千元以上の持参金をわたす。ニェントフでは持参金が高い場合1万5千元、安くても5百元という。新婦の衣装や装身具は、式のときじぶんで持っていく。出席者は50元から100元のお祝いを新郎新婦にわたす。

 結婚してあたらしい家に住むということはあまりない。ただ新郎の家に姉妹が同居しているときには新宅に移り住む。 結婚平均年齢は20から21歳。一夫一婦制。

*ロンジャでは、ボン教徒とンガッパの家族の間には婚姻がない。ボン教徒と仏教徒が半ばするダルジョンでは、比較的自由。

生育

 こどもが生まれて一週間後、ドゥン・カーガン(bdun kha gang)という誕生祝いの儀式をおこなう。そしてンガッパか活仏のところへ行き、生まれた日時をもとにツェカル・ツェルン(btsas skar btsas lun)という生誕占経を参考に命名する。生まれたときに起こった徴から名づけることもある。

 こどもがよく泣くときなど、アンニ・シャウ山(a myes sha bo)へ行って名前を変える。このときシャウと名づけることが多い。マパだけでもシャウという名をもつ人が15人もいるという。子種にめぐまれないときにも、夫婦でシャウ山へ行って交わり、こどもを得たという最近の実例がある。

 女の子は16歳になると、正月かルロル祭のときフチャパパ(skra phab pa おさげに櫛を入れる儀式)という成人儀礼をおこなう。男の子は16歳になった年、ルロル祭で軍人(dmag myi)になるのが成人儀礼に相当する。

葬送

 人が死ぬと家族は僧侶、活仏、村長などのところへ行き、葬式の種類を決める。

 ふつうは天葬か火葬。

 癩病の場合、土葬。(きれいな布にくるみ、箱に入れて3bくらい掘った穴に埋める)

 3歳以下のこどもの場合、水葬。(こどもの首に石をつけ、父親ひとりが遺体をもって川のふちに行き、沈める)

 サンゲションだけ他とちがっていて、村の外で死んだ場合、水葬。家で死んだ場合火葬。天葬はないが、場所がないためと思われる。

 10歳以下のこどもが死んだ場合、新しい着物を着ないなどの禁忌はなく、ふだんどおりの生活を送る。通常の死の場合、49日の間、髪を整えない、顔を洗わない、一年間帯を前で締める、新しい服を着ない、大きな声で話したり、笑ったり、歌をうたうことを避ける、などの禁忌がある。

また毎日朝夕ザスル(tsha gsur 焚煙供施。ヅァンパと三日、三甜を混ぜ合わせたもの)を香炉に供える。

禁忌

 病人がいるときなどの、遠来の客。遠来の客を迎えるときは、門で火を起こし、そのうえを跨いで入ってもらう。他人の櫛。あるいは櫛に付着した毛髪。寡婦。あるいは寡婦の服。帽子の交換。殺人者。人が死んだときの禁忌は「葬送」の項をみよ。ニンニクを食べたら、寺廟や神廟へは行かない。母、姉妹の前でラーイー(情歌)を歌ってはいけない。ただしルロル祭は例外。

15日、18日などの吉日には動物を殺してはいけない。シラミさえもだめ。サンゲションでは、毎月8、15、30日となっている。外で見つけた汚いものを家のなかに持ち込んではいけない。

家のなかの仏間(mchod khang)や焚香間(bsang khang)を背にして座ってはいけない。ルロル祭開始二日前以降、交わってはならない。

ことわざ

 夕方雲が出ると翌日は晴れる。朝赤い雲が出ると雨が降る。(サフチ)

 ソグルの人はノコギリの歯をもつ。口が悪い、の意。(ソグル)

 雪がたくさん降ると、夏、たくさん雨が降る。(マパ)

 ロンジャはゲンジャ(rgan rgya)村を破って名を馳せた。ロンジャのセカ川(gser rka)の水はおなかにいい。ロンジャの人とセカの水は借用できない。(ロンジャ)

 よい家には三人の絵描きがいる。悪い家には三人のたばこを吸う人がいる。(サンゲション)

伝説

マパ ドンカム部落 村名縁起譚

 むかしあるところに、プルワ(phur ba)という青年が年老いた母といっしょに暮らしていた。

近所に一匹の野良犬が住み着き、いつも残飯をかすめとる機会をうかがっていた。ある日、老母は山へ柴刈りに行った。いっぽうプルワは犬をこらしめてやろうと思い、棒をもってまちかまえていたが、日中はあらわれなかった。日が暮れて老母は柴を背負って戻ってきて、戸をあけた。

そのときプルワは野良犬だと思って老母の頭を思い切り叩いて、殺してしまったのである。 プルワはひどく後悔し、罪をあがなうために岩穴にはいって一心に瞑想した。三年後、かれは罪が軽減されたように感じ、超能力で空を飛ぶことができるようになった。空を飛んだあと、一本の木の上に降り立った。すると木はたちまち枯れた。ゆえにその地をドンカム(sdong skam 枯れ木) という。

 それからかれは岩穴に戻り、また三年間瞑想した。罪がいっそう軽減されたように感じ、海(湖)まで飛ぶことができた。すると海も滴れてしまった。かれはまた岩穴に戻り、さらに瞑想した。プルワはついに仏になった。

* 「安多政教史」に原型と思われる伝説が収録されている。

 マソ・シル・ウルワ(Ma gsod zhi lu ur ba 母を殺したため泣き騒ぐ男の子、の意)は、母殺しの罪業をあがなうためたくさんの経典を書写し、念誦するうち、飛ぶ能力を得た。空から潮に落下したところ、かれの業障が甚大だったので、湖は枯渇した。ゆえにこの地をツォカム(mtsh skam)という。かれはまた空を飛んだが、木の梢の上に落下した。するとこの木は枯れた。ゆえにこの地をドンカムという。

かれはこのさまを見て後悔し、さらに罪障をほろぼし、善を積み重ねる努力をした。そしてついに仏像や種字を見ることができるようになった。

*マパのドンカム部落とチョンオ部落の戦いについての伝承があり、それはルロル祭のなかにも生きている。(ルロル祭の章参照)

ボン教との戦い

 むかし仏教を信仰するドンカム部落は、ボン教徒のチョンオ部落と戦った。ボン教徒たちはブラックマジックを使ってドンカム部落に呪いをかけようとした。形勢不利とおもわれたとき、突然ハワが神懸かった。「あす、わたしを見てください。わたしが敵を征圧しましょう」。

翌日、はたして黒馬に乗った黒衣のひとがあらわれたので、それを先頭にドンカムの男たちはチョンオ部落に攻め入り、勝利をおさめた。いまもルロル祭のとき、チョンオ部落との境界でゾッホグ儀式を行なうのはそのときの記憶を保つためである。いっぽうチョンオ部落は儀式のあいだ、鎌を家の中に隠して戦いの準備をするという。黒馬に乗った黒衣のひとがボン教を倒すというモチーフは、ラルン・ベルギ・ドルジェの伝説が影響を及ぼしていると考えられる。(P6参照)


画匠伝説

 シャルツァン一世のとき、四つの村(四屯)は仏教を信仰するようになった。そのころはとても貧しかったので、シャルツァンはサンゲション村に絵筆を与えた。ニェントフ村にはハサミを与えた。ゴマル村には木刻を与えた。ガセル村には彫刻刀を与えた。それでサンゲション村ではタンカ(仏教巻軸画)が、ニェントフ村ではパッチワーク・タンカ(rtseg grub)が、ゴマルでは木刻印版が、ガセルでは印版・彫刻がさかんになった。

*他にもいくつかの画匠伝説がある。(『黄南民間故事』より)                                             シャルツァン一世のとき、ひとりの経師がいた。経師はシャルツァンに経典について講義するかたわら、念仏を忘れなかった。経師は天神に学識豊かな活仏を授けてくださるよう願った。感動した天神は夢の中にあらわれて、告げた。「シャルツァンこそ、まさにその活仏である。レコンにいま必要なのは、画匠であろう」と。そして智慧を司る文殊菩薩を派遣し、絵画や彫刻に必要な絵筆や彫刻刀をもたらしたのである。こうしてレコンは「画家の郷」とよばれるほど、美術がさかんになった。

シャルツァン一世はある晩、文殊菩薩から絵筆を授かる夢を見た。シャルツァンは絵筆をもってサンゲション下寺へ行き、ここに画を描ける者はいるかとたずねた。ひとりの僧が馬や花をうまく描くことができたので、シャルツァンは絵筆を渡し、チベット(中央部)へ学びに行かせた。戻ってきたあと、僧の画はいっそううまくなっていて、花や蝶、ミツバチ、鳥はまるで生きているかのようだった。

伝え聞くところによると、釈迦牟尼が大覚成就するころ、洛衛(カピラヴァッツ)のボーホールマ国王は絵画に長けていた。王は釈迦の教えに心酔し、世にひろく仏教と釈迦の形象を広めたかったが、光り輝くさまを伝えるのは困難だった。その後、釈迦が蓮華宝座に座って弟子に説教している様子が池に美しく映っていることに気がついた。さっそくそれを模写すると、一幅の見事な釈迦牟尼像が出来上がっていたのである。蓮華宝座の釈迦牟尼像はそれ以来、インドからチベット、さらにモンゴルや中国へと伝わったのである。

 チベットの仏画はまずチュマ部落ガリ村に伝わった。最初に描き始めたニマとノンクはガリ神匠ニマとよばれるようになった。ニマはタンゲイマ寺の初代活仏である。画匠たちはニェントフ寺の仏画や装飾画を描き、弥勒仏の仏像を彫った。

*史書にはつぎのように記されている。(『安多政教史』より)

ニェントフ寺もシャルツァンが受け持つようになった頃、寺にはガル・ル派(sgar ru) の絵師がたくさんいた。そのなかのウィータン・ファルダン(Bis thang dpal ldan)とその徒弟ツェラン・ドンチュプ(Tshe ring don grub)が弥勒仏を造り、また壁画に十六羅漢像を措いた。弥勘仏の中身を詰めるとき、祝して多くの絵筆を献上した。それ以来仏教美術はさかえ、伝統が受け継がれ、数多くの画匠を生み出してきたのである。

 つぎに、『黄南民間故事』より、ルロル祭の起渡に関する伝説をあげる。

神舞伝説

 鉄囲山の上に巨大な菩提樹があった。その根は天間の阿修羅の池に伸び、梢は玉皇大帝の住まう三十三天の上にまで達した。菩提樹には長寿果が生った。毎回花が咲き、長寿果を結実するたび、天間阿修羅と三十三天の神将神兵は争った。最初の戦いで神将神兵軍が敗れたため、玉皇大帝は金剛手菩薩に援助を要請した。しかし金剛手菩薩は十三位戦神を推薦した。戦神たちはたちどころに阿修羅を破ったので、西王母娘々をかしらとする二十一位地母仙女を招いて盛大な祝勝会を開催した。のち、十三位戦神のひとり伏敵神が人間界に転生して勇猛神将軍となった。そしてティソン・デツェンの御世、蓮華大師によってレコンに送り込まれ、ジャモ村の山の護法神となった。

このときに神舞を伝えたのである。

竜舞伝説

 むかしランジャ地方にアニ・アラク(a mes a lags)とよばれる人がいた。村の南を流れる川の水を村の北側の砂地に引こうと、灌漑工事に尽力したが、完成にはいたらなかった。のち、谷間で泉を発見したが、堆積する砂が厚く、水は遠くまで流れなかった。これはル(竜)によって起こされた怪だとみなされた。そこでアニ・アラクは童男童女をあつめて、毎年六月に竜舞を踊り、歌って、泉の竜を喜ばせた。竜泉の近くに楊樹があり、それは竜樹とよばれた。こどもたちはその楊樹にのぼり、枝を折ってきて水と遊んだ。それは竜を退治するということを表していて、水を守り、五穀豊穣を祝う伝統的な習俗となった。

六月会(ルロル祭)起源

 ティツ・デツェン王のころ、吐蕃と唐は甘家で対峙していた。レコンは吐蕃軍の後方に位置していた。吐蕃軍の将軍のひとりイェツァはソグル村ツォワ部落の娘と結婚し、四人のこどもが生まれた。長男は現在の循化県のドウィに、次男と母はソグル村に、三男は循化県ダルジャに、四男はレコンのジャウに住んだ。次男の後裔がいまのツォワ部落を形成した。二十数戸の小さな部落である。

 のち高僧の調停によって休戦が成立し、吐蕃の兵士たちはダルジャ山の山神に感謝の意をこめて歌舞を奉納した。ダルジャ湖でかれらは山神に神舞を、湖の竜に竜舞を、軍隊に軍舞を献じたのである。そのとき湖から二匹の竜があらわれた。一匹は虎面、もう一匹は豹面だった。いまも六月会のとき男たちが花紋のゲートルを足にまとうのは、竜を象徴しているのだという。

神鼓舞伝説

 むかし、羌族の首嶺が家来を西天にやって、経典を取りに行かせた。しかし帰りに天の河を渡るとき、家来は経典を水に濡らしてしまったのである。かれは経典を岩の上に置いて干そうとした。だがあまりに疲れていたので、そのまま眠りこけてしまった。

目が覚めたときには、経典は見当たらなかった。どこを探しても見つからず、かれは必死に菩薩の助けをもとめて大声で叫んだ。すると感動した菩薩があらわれ、言った。「ヒツジを屠ってその皮で太鼓を作りなさい。その太鼓を叩けば経典があらわれるであろう」

 言われたとおり、家来はヒツジを見つけて屠り、羊皮鼓を作った。そして太鼓を叩きながら、神に祈って経典がもどってくることを願った。すると突然、岩の上に経典があらわれたのだった。かれは喜んで首額のもとに帰った。

 ひとびとはそれ以来、菩薩の徳に感謝して、羊皮鼓を作り、祭りのときには羊皮鼓を叩きながら菩薩と諸神に歌舞を奉げるようになった。そしてこの羊皮鼓を神鼓とよぶようになった。


 チベット各地でもっともよく聞く伝説は山にまつわるものだ。山の神々に色恋沙汰が絶えるっことはない。

シャチョンとダフロン

 ソグル村の後背にダフロン山というレコン第二の高山がそびえている。よく見ると、ダフロン山はとなりにすっきりと立つジョモ山の肩に手をまわしているようだ。このデフロン山の中腹に上ると、西の方角にレコン第一の山シャチョン山が見える。

 ダフロンとジョモは夫婦である。シャチョンはジョモに横恋慕して、ダフロンが出かけたすきを狙って私通するようになった。そしてダフロンが家にいるときも、ジョモはシャチョンに秋波を送ったり、茶碗の下で手を触ったりするまでになった。ついには関係がばれて、ダフロンとシャチョンは激しく闘った。シャチョンは弓でダフロンの下腹を射た。いまも山腹に草の生えない土砂だらけの場所があるが、そのときの傷である。

ダフロンがガツンとパンチを食らわせると、シャチョンは西の方角に押しのけられた。いまも、反対方向の貴徳のほうをむいているが、心はジョモのほうをむいているのである。

1 チベット人の遊牧民の生活形態についてはロバート・B・エクヴァルの報告に詳しい。Robert B. Ekval "Fields on the Hoof" (1968)

2 この論文は1998年の調査を基本資料とする。

レコンの宗教民俗

 チベット人にとって、また土族にとっても、宗教活動は生活のなかでもっとも重要な要素であり、毎朝の焚香から一年に一度の新年(ロサル)や祭礼(ルロル祭)、あるいは経典読誦まで、あらゆるレベルでの活動が含まれている。つぎの行事・カレンダーを見れば、宗教活動がどれほどさかんであるかが明瞭にわかるだろう。

民間行事・宗教儀式カレンダー

サフチ

毎月10日 ツェチュの経典、たとえばグル・レウドゥン経(gu ru le'u bdun)読誦。カンガ経(bskang ba)読誦

毎月11日 カンガ経(bskang ba)読経。

正月元旦 ロサル(新年)

正月3日 3歳になった長男を祝う儀式。

正月12日〜16日 ロンウ寺のモンラム祭(12、3日 賽馬。14日 タンカ開帳。15日 弥勒仏出巡。16日 宗教仮面劇チャム)

3月13日〜17日 ヤマラジャ経(ya ma ra dza 閻魔王経)読誦。

4月1日〜15日 村人はあつまってニョンニ(斎戒 smyung gnas)をおこなう。

4月11日 ラブツェ(la btses)を立てる。(ルロル祭中の6月17日も)

5月5日 チュコル祭(chos bskor)。経典を背負い田野の間を歩いてまわる。五穀豊穣祈願。

6月1日 馬に乗ってシャチョン山へ。

6月4日 シャチョン山の麓にテル (伏蔵袋)を埋める。(詳細は後述)

6月16日〜19日 ルロル祭

10月25日 ンガッパたちは午前中ゲルク派の経典を、午後ニンマ派の経典を読誦。

11月25〜29日 センドン経(seng gdong 獅面母祈祷経)読誦。

12月5日〜9日 ドゥッカル経(白傘蓋仏母経)読誦。

12月15日 シャチョン神廟中のロトル(lo gtor)を替える。

12月16日〜 カンガ経読誦。

テウ

毎月10日 ツェチュの経典読誦。

正月元旦 ロサル。

正月23日〜30日 ドゥッカル経(白傘蓋仏母経)読誦。

4月1日〜15日 ニョンニ(斎戒)。

5月4日 ラブツェ祭。

5月5日 ハツォ (lha tshod祭。

6月4日 チュコル祭。

6月21日〜25日 ルロル祭。

11月23日〜29日 サンドン経読誦。

12月1日〜4日 ドゥッカル経(白傘蓋仏母経)読誦。

ソグル

正月元旦 ロサル。

2月11日 子供のためのラブツェ祭。

4月14日〜15日 ニョンニ(斎戒)。

5月5日 ハツォ祭。

5月9日 ラブツェ祭。

5月15日 チュコル奈。

6月20日〜25日 ルロル祭。

マパ

正月元旦 ロサル。子供たちは「お正月」をもらいに村中をまわる。年長者は食べ物をあげるのだが、「年をあげる」(lo ster ba byin)という。そのとき長寿祈巌のことばをのべる。

元旦はみな初詣のように神廟に参り、山神にサンを献じる。それから年寄りの家を訪ねてロ(年)をもらう。近くの親戚の家に贈答品をもっていく。亡くなった人がいる家には酒をもっていく。午後、村人があつまって歌をうたうことがある。

 4月15日〜 ニョンニ。昼間、断食潔斎をはじめたい人々がマニ堂にあつまり、チョマ(人参果 gro ma)にバター、砂糖をまぜて煮たものを、コレ(パン)とともに食べる。寺、活仏、家になじみのある僧のところを訪ね、油であげたコレを差し上げる。

 5月5日 チュコル。経典を背負い、マントラを唱えながら田畑の間を練り歩く。曲がり角や行き止まりでは焚香を献じる。

 5月15日 ラブツェ祭。各家の代表が矢(ダヒュン mda' shing)と飾り枝(タグ・タウ stag rta'u)をもって将軍廟(マッホン・カン dmag dpon khang)にあつまり、神にサンを献じる。廟の裏にラブツェがあり、そこに矢を挿し、飾り枝をとりつける。終わったら、木の下で歌ったり、酒を飲んだりする。

 6月21日〜25日 ルロル祭。

 9月22日 グニェルニ(九・二二)。

 10月25日 チュニェルンガ(十・二五)。

 12月晦日 夕方六時半か七時頃、村人があつまってきて、焚香を献じる。火を燃やし、コレを投げ入れて死者にささげる。子に恵まれない夫婦がコレをささげると、翌年にはこどもを授かるといわれる。年寄りが「年」をもらいに来るので、女性たちは肉を煮て準備をしなければならない。夜、肉とモモ、グトゥク(臘九粥 dgu thog)を食べる。グトゥクは食べきれないほど作らなければならない。

ロンジヤ・マル

正月元旦 ロサル。

1月10日 ツェチュ経典読誦。

1月18日 ザムロンチサン('dzam gling spyi bsang)という大きなサンを焚く儀式。未婚の女性たちは矢を片手にもち、歌ったり踊ったりしながらサンの周囲をまわる。ハワはことしについておつげをする。

5月5日 チュコル。

6月17日 ラブツェ祭。

6月20日〜24日 ルロル祭。

7月 カジュ経(bka' brgyad)読誦。

12月 家にこもって瞑想する。

12月晦日 ハワは神憑かって殺したヒツジの心臓を取り上げる。

*ボン教部落(ロンジャ・サソマ)では1月5日〜8日(最大は7日)と10月8日〜11日(最大は10日)にチャム(宗教仮面劇)をおこなう。ルロル祭に代わるイベントである。ただし会場は六つのボン教村で順繰りにまわす。(ボン教の項参照)

ニェントフ

正月元旦 ロサル (春節)。

1月8日〜13日 モンラム。(12日、タンカ開帳)

4月10日〜15日 チョパ (mchod pa)。

4月14日 ニョンニ。

5月4日 ラブツェ祭。

5月5日 ハツォ祭。

5月8日 チュコル祭。

6月20日〜25日 ルロル (ナートゥン)祭。(最大の盛り上がりは24日)

11月8日 バン祭(bang lha skor)。神を回る、の意。夜、男女があつまって踊ったり、歌ったり (ラーイー)する。                   
 11月20日 ウトゥ祭(o'u th'u stag)。ウトゥとは古代中国語の於菟(おと)であり、虎をあらわす。前夜から各家庭は「悪いもの」をこめてかまどでドーナツ型のパンを焼く。

翌20日は一年で「もっとも悪い日」とされる。選ばれた七人のウトゥ(かつて八人だったが、銃の暴発でひとり死亡して以来七人)は、村の背後の丘にある二郎神廟にあつまり、半裸になって(かつては全裸)灰を全身に塗りたくる。

村の絵師がその上に墨で虎の画を措く。腹と背中の虎面は憤怒相である。廟の後ろのラブツェから挿されている樺(stag pa)の飾り枝を削ってスティックとし、それをもって廟前に整列し、二郎神に祈りをささげてから、ハワに率いられて、いっきに村里のほうへ駆け下りる。

ウトゥたちは「門から入ってはいけない」ので、五メートルの壁を乗り越えて中庭に侵入し、壁伝いにほかの家に移動する。各家庭はウトゥに酒と肉でもてなす。虎のように、生の羊肉を食らうことがある。路地を走るときは、村人はみなドーナツ型のパンを触り、ウトゥはそれをスティックでキャッチする。

ウトゥは最終的には氷結した川にたどり着く。そこで串刺しになった大量のパンを投げ捨て、厄払いする。さらにウトゥは氷に穴をあけ、冷水をからだにかけて(というより、なすりつけて)沐浴をして、身を清める。

 12月8日 ロバゴタン祭(lo pa go thang du nyeg)。各家庭で豆ご飯を作ったり、大掃除をしたりする。門前、屋根の上、田畑などに氷塊を置く。

 1224日 ゾウネネ祭(tso lpu ne ne thab lha)。ゾウネネ、タプラはかまど神の意。おそらく竈王ナイナイ。かまどの修理をし、サンを焚く。「いい友よ、来い。敢よ、出て行け」と唱える。この日は漢族の小年であり、かまど神を祀る風習は中国全土に見られる。吉林省には「竈王ナイナイ回娘家」という説話が伝わる。註1

トルジャ

正月元旦 ロサル。

5月5日 チュコル。

6月6日 ラブツェ祭。

6月17日〜24日 ルロル (ナートゥン)祭。

8月15日 ジャペチョンガ祭(brgyad pa'i bco lnga)。

12月17日 ホィフン祭(dpe shong)。

サンゲション・ヤンゴ

 年三度 チョコル祭。ハワが神懸って期日を決める。マニ車をもち、経典を背負い、オーンマニペメフームと唱えながら田畑の間をまわり、サンを焚く。

正月元旦 ロサル。(マパと同様)

2月2日 ラブツェ祭。樺(ここではニョンル nyung ruという)の枝を挿す。

2月と4月 ニョンニ。

5月5日 ハツォ祭。ニラで作ったツォマを食べる。川辺で儀式をおこなう。

12月晦日 (マパと同様)


民間神と主尊

サフチ

 主神はシャチョン(Bya khyung 標高4163bのシャチョン山の神。ガルーダ)。トルマを作るときはシャチョンの左に子のセブンワ・ドンジュプ(Sras 'bum ba don 'grub)、右に妻のアマ・ヌウモ (A ma nu'u mo)左端にマッホン(軍官、二郎神 dMag dpon)、右端にラルゾン(Ra rdzong シャプラン村の神)。シャチョンの上にはアンニ・マルジュ(アムネ・マチェンA myes rNa chen rMa rgyal)があるが、卜ルマや図像として登場することはほとんどない。

主尊はタムディン(rTa 'grin 馬頭尊)。

テウ

 アンニ・ニェンチェン(A myesgNyan chen 甘粛和政県太子山の神。アンニ・マチェンの妻を奪ったため右目を射られて片目になった)。その子ママナンゲと妻セムジョ。マッホン(二郎神)。

主尊はタムディン。

ソグル

 アンニ・マチェン(rMa rgyal)、ユハ (Khri ka'i yul lha 文昌帝)、ダフロン(sDag lung

標高3984bのダフロン山の神)、ダンドゥ(dGrag 'dul dbang phyug)、ロンウ・シェンワ(blong poshen pa)。

主尊はナガ・ラクシャ(Naga rag sha)。

マパ

 アンニ・マッホン、アンニ・ジャタン(A myes gya ting)、ユハ、アンニ・ワゾン(Ba rdzong 把総)。

主尊はトゥカマ (rje Du dkar ma)。

ロンジャ・マル

 シャンパ・メルツエ(Shan pa rme rtse「ケサル王物語」に登場するホル国大臣。ケサル王の部下となる)。アンニ・ハラ(A myes lha ri)。アマ・ルモ(A ma klu mo)。

主尊はツオンカパ。

ニェントフ

 ゴモ・ルラン(Go mo ri ling 二郎神)、ニェンチェン、シャチョン、マチェン、ダンドゥ。

主尊はダムチェン (Dam chen)。

トルジャ

 アンニ・タルジヤ(A myes dar rgyal)、ニェンチェン、トンル(Thong ru)、ママルク(Ma ma lu gu)。

サンゲション・ヤンゴ

 アンニ・ウシャン(A myes bo shan)。アンニ・ユハ。

主尊は六臂ゴンボ(mGon po phyag drug)。


レコン八大成就地

 シャルツァン一世によれば、蓮華生(パドマサンバヴア)は雪国チベットに降臨し、百の化身としてあらわれ、神鬼妖魔を調伏した。その聖地のひとつがレコン八大成就地だという。「その名声たるや日月のごとし」と、その語勢にも誇りが感じられる。具体的にはロンウ寺後方のセク山(se ku)とシャチョン山の間である。これは九つの方角に分けて説かれる。

中央部

 中央に位置するのがヤーナンチャン(Yar nang 'phrang)。そのカルゴンドン山(mKhar gong dong gi ri)麓に突き出た小丘が菩薩の成就された聖地。丘のまわりは非人の地である。この事薩は、破仏のランダルマ王を刺殺したラルン・ベルギ・ドルジエ(Lha lung dPal gyi rdo rje)のことだとされる。

東方

 ダフロン山(sTag lung dpal kyi ri bo)は、シェジ・オデ・クンジェ(Shel kyi 'o de gung rgyal)が成就された聖地。岩の上には、自然にできた赤い花の模様と三つの文字が遺されている。(伝説ではシャチョンの矢が刺さったところ)

 ジョモドチャン・ゴンマ(Gyo mo'i edo 'phrang gong ma)はパドマサンバヴァが羅刹女(Srin mo)を制圧した聖地。パドマサンバヴァの脚印が遺されている。

土鼠の年(1168年)にはディグン・ラマ・リンチェンサンボ(Bri gung bla ma ring chen bzang po 簡称ディグン・リンポチェ)がこの地にやってきた。タクツァン・ラモ(sTag tshang lha mo)で強盗に襲われたときは、呪法を使って駆逐した。その脚印がツォロンチユカ(mTsho rong chu kha)にのこる。

 ここに高弟のユチョン・ファルサン(Yul skyong dpal bzang)が抜け落ちていない角を一本残した鹿に乗ってやってきた。鹿は草地で草のなかに角を差し込んだので、ここはシャルスク(Sha ru zug 鹿角を差し入れる、の意)と呼ばれるようになった。

 また高弟ツォンカ・ドルサン(Tsong lha'i rdor bzang)は黄金の九尖金剛杵を空中に放り投げたところ、三日三晩浮いていた。

 高弟ツォイ・ゲ二ェン(mTsho bZhi'i dge bsnyen)は太鼓の上に結跏趺坐し、太鼓をぽんと叩いた瞬間、山頂のほうまで飛んでいった。

 彼らは神の啓示にあらわれたメンリ・ナクショ(sMan ri nags shod 森下薬山)とダク・センゲ(Brag seng ge 獅子岩)を探す旅に出た。

彼らを導いたのは、三羽のカラスだった。シェゴン寺址を通ってレコン谷口にたどりつくと、漢人風の男があらわれ、カルゴンドンナ(mKhar gong gdong sna)まで連れていくと、忽然と消えた。

そして三羽のカラスは獅子岩に墜落して鳴いていたかと思えば、また飛び立ち、草地に落ちて、姿を消した。そこへ行くと、不思議なことに、ディグン寺護法殿にあるはずの四面謙法神(mGon po zhal bzhi pa)のタンカがあったのである。

彼らはこの地に禅室を建て、こもって修道に励んだ。生活が苦しくなると、彼らは本尊に祈りを捧げた。すると本尊がおおせになった。「右方向に泉がある。泉のなかに青色の宝石とガルーダ修法のための法器があるだろう。そこから悪竜(ル)の足跡をたどっていけば、食べものや財物が入手できる」 と。

 本尊のいうとおりに七日間の法事をおこなったところ、漢人風だが目に青みを帯びたふたりの男が訪ねてきた。「ラマはいるか?」。従者が「はい」とこたえると、ふたりの顔色が紫になり、シューシューと息を吐くと、ふっと消えた。

師(ディグン・リンボチェ)は「悪竜の気が増大している」といった。

七日後、またふたりの男が訪ねてきたが、従者は「ラマたちはいません」とこたえた。

 ツォイ・ゲニェンが戸口まで出てみると、男たちは死んでいた。ひとりの頭髪には緑色の宝石が、もうひとりの頭髪には水晶があったので、それをむしり取った。宝石はきりがないほどあった。それらは竜宮の財宝だったのである。この場所はコルルン(dKor lung 財宝の谷)とよばれるようになった。

 ディグン・リンボチエはツォイ・ゲニェンに鉄の九股金剛杵や経典、四面護法神タンカ、ならびに獅子岩を賜った。

ゲニェンの三人の子の末裔からツォイ村ができた。リンボチェはほかのふたりの弟子にもたくさんの経典や仏像、聖地を賜った。

聖地のひとつ、象が臥した姿の山には、のち、レコン禅院の祖、タシチ寺(bKra shis khyil)が建立された。この周辺のトンボド(mThopo'i mdo)の巻貝状の地には埋蔵経典がたくさん眠っている。

カルルン(mKhar lung)の鉄匠の穴では上下がさかさまになった鉄塔が作られた。悪竜や妖魔、刹鬼を駆除するためである。

東南方

 ジャンプ・ラダクカルポ(sPyang phu'i lha drag dkar po 狼谷白色神岩)の上でシャルツァンは菩薩の化身と十六尊者のすがたを見た。岩の上に法身、報身、化身、五仏などさまざまな像を見ることができた。

 『蓮華生伝』に出てくるロドン・ルンバ・ナクポ(Ro dong lung pa nag po)は、ジャンロン(sPyang lung)に比定される。

ここの巨岩の上にパドマサンバヴァに調伏された羅刹(Srin po)が仰向けになった痕跡がある。

さらに近くにマソ・シリウルワ(Ma gsod zhi li 'ur ba)が修行したジャンガラツェ岩洞(sPyang gi rwa rtse phug pa)がある。

「母殺し」のウルワについては前章のマパの伝説参照。

南方

 ダムウ・ダカルセンカン('Dam bu'i brag dkar gser khang)はリチョ・アジャリ(sLob dpon 'phags pa Li khrod)が成就された聖地。ここの白岩水晶山洞のなかで修行するプパという者がいた。

かれは癩病にかかったが、金剛手菩薩を修することで全快した。いま、ここにはタンプ温泉が湧き出ている。

西南方

 タームクゾン・マル寺(mTha' smug rdzong dmar pa)はアティ呪師(ンガッパ)ユトク(A thu'i sngags pa gYu rdog)が成就された聖地。

タークムゾンの洞窟で成就したのは息子のアティ・セポ・ユトク(A thu'i sras po gYu rdog)。かれのまえに吉祥天母があらわれ、氏族の守護神となることを言明した。

かれは八部神魔衆像を下僕のごとく使役するころができ、木に火を起こすことができた。また魔鬼の頭を裂く太鼓ももっていた。

西方

 シェデチュ宮(Shel del chos kyi pho brang)はシェギ・カデオジェ(Shel gyi Ka de'o rgyas)が成就された聖地。あるいはオデシャンポ導師(sTon pa 'O de sham po)が成就された聖地。


西北方

 ジャカンネモ(sKya rgan gnas mo)巡礼地はセイ・ジャワシャンチュプ(bSe yi rgyal babyang chub )が成就された聖地。岩洞のなかに字母があり、五部仏種子が天然に形成されている。

ドリニン山(do ri nyin)もまた聖地。仏殿を建てるとき、護法神の力によって、森林の木が川の上を流れてきた。

北方

 ゴンモグルカン岩(Gong mo'i gur khang brag)の下は、ボン教導師ナムカ(Bon kyi ston pa nam mkha')が成就された聖地。

タンカム岩(Thang skam brag)の下はボン教呪術師ジャンパ・ナムカ(sNgag Bon Dran pa nam mkha')が成就された聖地。これらの岩壁には天然の沈香樹が生えている。

東北方

 第11番目聖地シェジ寺(bCu gcig shes kyi dgon pa)はカトゥ・ドルジェワンポ(Kathog rdo rje dwang bo)が成就された聖地。ここには自ら成った勝楽像、金剛亥母像、八大近侍菩薩像、蓮華大師像から水晶瓶、杵鈴、宝傘、勝幡、楽器まで、さまざまな珍奇な品物にあふれている。

チュワ・リンボチェもリジャ修行者シェラブ・センゲ(Li kya sgom rgan Shes rab sengge)もここで修行した。チュプジャ修行者ゲドゥン・シェラブ(Gru kya sgom chen dGe 'dun rab)はここに仏殿を建てた。

シャルツァン一世もここで修行し、その手印と脚印が岩上に遺っている。シャルツァンの弟子ジャムランジャンパ・ジンパジャツォ ('Jam rab 'byams pa sbyin pa rgya mtsho)は13年間も閉じこもって修行した。これら修行者はすべてラルン・ベルギ・ドルジエの弟子だともいう。

ンガッパ

 レコンにはニンマ派在家修行者ンガッパが千人もいるという。ニンマ派ジャンロン・チョンゴン寺(lCang lung khyung dgon pa)の年五回の集会のときには580人集まるというから、千人というのは誇張ではないだろう。集会というのはつぎの通り。

 正月7日〜22日のマニ会。3月13日〜20日の修供会。5月10日〜13日の静猛明王会。6月1日〜5日の勝楽金剛会。9月21日〜24日の八大法行会。

 チュマ村のンガッパ、ジャムヤン・ジャツォ('Jam dbyangs rgya mtsho 65歳)は近隣に聞こえた法力にすぐれたウェザー・コントローラー型のンガッパ。洞窟にこもって修行を重ね、41歳のときにウェザー・コントロールをはじめた。いままで失敗したことがないという。報酬として収穫期に各家からニ袋の小麦粉をもらう。

 じっさい筆者はジャムヤンに空の白雲を雲散してくれないかと頼んだ。「必要でないときに力を使うと、神の怒りをかい、天罰が与えられるかもしれぬ」と躊躇しながらも、ともしたロウソクを卓上に置いてマントラを唱えながら祈祷した。白雲はしだいに小さくなり、やがて消えた。

 彼はその能力の秘訣についてつぎのように説明した。

 四大元素の土、水、火、風が相克し、あつまって暴風雨となって農作物に被害をもたらす。さて、世界の本性は心の智慧の本性である。だから自己の四大元素を調和させることによって、外界にある雲の四大元素に働きかけることができる。つまり外部の気と内部の気は調和しているのである。

 調査した八村のうち、マパ村はもっとも多く、三百人ものンガッパがいる。なかでも有名なのがラマ・ツェラン(bLama Tshe ring)。

ボン教

 「ボン教はチベット土着の宗教である。仏教の影響を強く受けながらも、今日まで生き残った」とトゥッチは説明する。じっさいのところ、仏教の影響を受ける以前の「原ボン教」を復元するのは、ナンカイ・ノルプらの飽くなき探求をもってしても、なお困難だといわざるをえない。

トゥカンラマ三世の分類法によるボン教の三段階「ドゥルボン(出現したボン)」「キャルポン(派生したボン)」「ギュルポン(変容したボン)」でいえば、レコンのボン教もチベットの他の地域と同様、チベット仏教、なかんずくニンマ派ときわめて似た宗教形態なのである。

 レコンにおいて、ボン教と仏教、民間信仰の関係はどのようになっているのだろうか。ダライラマ14世のように「ボン教は仏教の5番目の宗派」と捉える傾向があるが、私が話をしたレコンのチベット人の大半が「ボン教は法を知らない」などと非難したり、蔑視したりした。

 民間信仰の代表ともいえるルロル祭は、一部をのぞいてボン教とは関わりをもたない。むしろ仏教と密接な関係にある。僧侶がルロル祭に参加したり、観覧したりするのは基本的に禁じられてはいるが、一般の村人にとっては仏教信仰活動の範疇なのである。仏教と対極にあるように思えるシャーマンであるハワも、そのロンウ寺との関係は、ネーチュン・クテンとデブン僧院の関係に比せられる。ハワやネーチュン・クテンは仏教の敵ではなく、守護者なのである。そしてユハ(山神)もまたパドマサンバヴァによって調伏されて以来、仏教の強い味方なのだ。こうした民間信仰的なものは、すくなくとも現時点ではボン教とはいっさい関わりがない。調伏される前のユハがボン教の神であったかどうかはさだかではない。

 レコンのボン教の支柱は市街から南へ20キロ下った曲乎郷のムフサ寺(dmu gsal sgar)である。1994年に改修されたが、もとの寺殿は15、6世紀に建立された。現在の活仏はオンジャ九世(Bon brgya dGe legs lhun 'grub rgya mtsho 67歳)である。レコン内だけでなく、周辺からも多くのボン教徒が参拝に訪れる。

 おもなボン教村はつぎの五つ。

 ホルナク(黄乃亥 Hor nag)ジツァン(吉倉 dKyil tshang)ジャンリ(江日 sKyang riマパ・チョンウ(麻巴群吾 sMad pa 'khung bo) ランジャ・サソマ(浪加沙索麻 gLing rgyal sa so ma

 最大イベントであるチャム(宗教仮面劇)は、これらの村で順繰りに正月5日〜8日と10月8日〜11日の年二回、開催される慣わしになっているが、2002年正月は、ランジヤ・サソマから山を上って二時間ほどのダルジョン村(Dar grong 海抜3千メートル)でおこなわれた。この村に番がまわってくるのは三年に一度ほどだという。

 ダルジョン村の特筆すべき点は、ボン教徒と仏教徒が同居していることだ。32戸、260人ほどの小村だが、そのうち18戸が仏教徒(ニンマ派)の家族である。両者のあいだに婚姻関係は普通におこなわれており、結婚しても相手の宗教に改宗することはない。ある西寧で学ぶ大学生の青年(22歳)の場合、八人兄弟のうち二人はボン教徒、二人は仏教僧、二人教師、二人農民。二人の姉妹は学生と主婦。兄弟のなかにボン教徒と仏教僧が含まれることに注目したい。

ボン教チャム

 ダルジョン村のハカン(神廟)でおこなわれた。

 本堂の前に赤く塗ったピラミッド型のゾル(zor 魔術的な武器、の意)とやはり赤いトルマを置く。

 中庭には白墨でマンダラが描かれる。シャクティを表したヨーギーニのシンボルを描き、その中央に赤いリンガ(男性原理を象徴)が置かれる。登場する各神がそれを刀で破壊する。

一日目に誦する経典は「ツェワン(tshed dbang)」。二、三日日に誦する経典は「ブムパ('bum pa)」。

 プログラムは以下の通り。

1 骸骨(keng rus

2 チョペハモ (mchod pa'i lha mo

3 ザ(gza'、曜神、ラーフラ)

4 ダクツェン(brag btsan a bse

5 ドゥラモ (bdud lha mo 魔神女)

6 ツェン (btsan

7 ブクセ (sbug ze

8 ギャルワ(rgyal ba 鬼王)

9 ナクモ (nagm mo 黒女)

10 マルチェン (dmar chen

11 チュゲ(chos rgyal法王)

12 チャムマン ('cham mang

 パフォーマー全員でゾルをもって村はずれまで行く。火を燃やし、そのなかにゾルを投げ入れ、燃やす。

 ランジャ・サソマ村のボン寺の内部を飾る像とタンカは以下の通り。

シェラブ・マセン (Shes rab smra seng)坐像

ジェ・ニャムメ(rJe mNyam med)坐像

ナムキェン(rNam mkhen)坐像

ブムパ ('Bum pa)立像

ベルセ (dPal gsas)立像

ツェワン (Tshe dbang)画(タンカ、以下同)

クンサン(Kun bzang

ブムパ (画)

キャブド・ツオクチャン(sKyabs 'gro tshogs byang

チンドゥ(sByi 'dul

タクハ・プチ・マルポ(sTag lha spu gri dmar po

ウギャ・チャクトン(dBu brgya pyag stong

カンド・サンチュ(mKha' 'gro gsang spyod

ナムハ・カルポ(gNam lha dkar po

シワ・クンドゥ (Zhi ba kun 'dus

チャンマ (Byams ma

1 劉錫誠編云『竈王爺的伝説』(花山文芸出版社)1995

ルロル祭

 家族、親戚があつまる機会は年に二度、新年のロサルとルロル祭である。註1 しかし、それらにはまったく異なる点がある。ロサルのとき、親戚回りをする程度でほとんど外出することはないが、ルロル祭のときは積極的に外に出て交流し、村の祭礼活動に参加する。

 ルロル祭は、20ほどのチベット人や土族の村々で、それぞれ農暦六月16日から25日のあいだの数日間におこなわれる。ジャモなどレコン内の一部の村や隣接する循化県内のチベット人の村では正月に開催される。

 ルロルのル(glu)は山歌という意味であり、歌舞をあらわすルガル(glu gar)の簡略形である。また、綴りのちがうル(klu)、すなわち竜と解釈する人もかなり多い。ロル(rol)は遊戯という意味だが、変化(へんげ)の意味もある。ルロルで歌舞、娯楽などを幅広く表現する語となる。

土語でナトゥン(モンゴル語のナーダム)という語をあてるが、ほぼおなじ意味である。あるいは土族が主張するように、ルロルのほうがナートゥンの訳語なのかもしれない。

 ルロル祭の目的はいくつかあげられる。

@ 豊作祈願。(雨が降るように。降りすぎないように。雹の害がないように)

A 山神にご加護を願う。無病息災。除厄招福。

B 山神を喜ばせ、他の村との戦いに勝つ。団結を高める。

 @とAに関しては、祈顧対象は竜(ル) のこともある。

 祭りの内容は村ごとにくわしく見ていきたい。

サフチ

●参加者…男女200人以上。男15〜40歳。女10〜20歳。

●由来…ラブツェ祭とサンチュ(bsang mchod 焚香儀式)が発展した。

●費用…ハチャンカで神輿が各家を回るときの布施。見るかぎりほとんどの家が10元札を出す。

●準備…6月1日、みなで馬に乗ってシャチョン山へ行く。4日、テル(gter 伏蔵)をラブツェに埋める。この場合のテルはテルクク(gter khug 宝袋)のことであり、チンコー麦、小麦、豌豆、茶菓、緞子、プル布、金、銀、銅線、虎皮、豹皮、白糖などを袋のなかに入れる。祭りに使うシュクパ(shug pa 杜松)の枝をあつめる。またこの日にあつまってカンゴワ(長老)を決める。ハワが神憑かって決める場合もある。

●カマル (挿銅針)…おこなわない。

●ハチャンカ(lha chang kha 神をもてなす酒宴の意。漢訳は「看望百姓」)6月16日

 神を安置した神輿を四人が担いですべての家をまわる。これは「神の視察」であり、ハワはつねに半神憑かり状態で一行を指揮する。各家はサン(杜松)を焚き、中庭に供え物を置いて、神輿の到来を待つ。神輿は敷かれた白布の上に降ろされる。供え物は、トルマ、茶、酒、ヨーグルト、カタ(儀礼用自綿スカーフ)、布地、現金(通例10元札)、果物など。長老たちが踊りながらヨーグルトを地面にそそいで神に捧げる。一連の儀礼が終わると、供え物は神廟にもっていく。

ハワに依頼してヒャンモ(shing mo 角占い)をやってもらうこともある。角占いは他のチベット地域では一般的ではなく、漢族のパーポエが導入されたものと推察される。裏・裏や表・表は凶、あるいは無視すべきで、裏・表が吉である点は共通している。

●キッタル(khis dar 旗・幡)…描かれる神はシャチョン(Bya kyung)、ラルゾン(Ra rdzong)、マッホン・ワゾン(dMag dpon Ba rdzong 把総)の三柱。つづいて虎、獅子、ガルーダ、竜など。また、竜の絵が措かれたルタ(klu rta 纏のようなもの)を燃やす。

●本祭(6月17日〜19日)

 ラブツェ祭…6月17日朝9時頃、男たちは旗をもって、神廟の裏手の斜面にあるラブツェへむかう。ムタク(rmu thag)を張り替える。ムタクといえば、チベット初代王ニャチツェンポからの七代の王は、ムタク(天縄)を伝って天と地のあいだを上り下りすることができた。

 ウェーハー舞(ウェー、ハー、と叫んで気勢をあげる踊り。軍舞。
 男のガル。女のガル。
 十人の男によるハツェ(lha rtse)。
 竹馬。
 アツァラ(インド遊行僧の面を被った子供の舞)。
 クロウ舞(gu ro'u)。
 ツェリク(rtsed rigs 幕間寸劇)。
 ハ・ンゴン・パ舞(lha ngom pa)。
 ツォンギ・ゴルギヤッパ舞(mtshon gyis mgor rgyag pa)。
 トゥジェチェンポのガル。

テウ

●参加者…男女約80人。男5歳〜60歳。女7歳〜18歳。

●ハチュカ (lha chu kha) 6月20日

 チュは水。神輿を担いでロンウ河の急流を渡り、向こう岸の楊柳の枝を取ってくる。楊柳は神輿の上に置く。清めの意味合いがある。

●ハチャンカ 6月21日

 サフチと内容的にはおなじ。ラブツェ祭もおこなう。まずワンマ・ツェラン(Padma tshe ring)という人が矢を立て、他の人々はそれにつづく。

●キッタル(khis dar 旗・幡)…ニェンチェン、ダフロン、シャチョン、虎、獅子、ガルーダ、竜などの画が措かれる。最終日の夕方、ハワはゾッホグ(rdzogs shog 或いは klu rta)とよばれる

纏のようなものをもって四つの方角へ行き、燃やす。竜や神を填める。

●カマル…おこなう。銅針を挿す人は占い(ハモ)で決める。挿す前に体を清める。血を流すのでマルチユ(dmar mchod 赤い犠牲の意)とよばれる。

●本祭(6月22日〜25日)

 神輿を担いで各家をまわる。村の中の路地を暴走したり、壁に激突したりする。
 カマルをする。
 ウェーハー舞。
 竹馬。
 アツァラ。
 ハ・ンゴム・パ舞。
 ハツェ(神舞)。
 アンニ・ガルツェドン。
 男のガル。女のガル。
 神輿の前の男のガル。神輿の前の女のガル。
 カマルを抜く。
 幕間寸劇。
 ショッカ舞(shog ga おいで! の意)。この段では中国語まじりで「どこから来たの? あなたはだれ? ルロルには20種の踊りがあるよ。坊さんは25人いるよ。テクの家は70戸。吉祥よ、来たれかし」と言う。
 トゥジェチェンポ舞。

ソグル

●参加者…男女170人。男は年齢制限なし。女は15歳以下、20人程度。

●カンゴワ…4つの部落から2名ずつ出す。計8名。

●ハチュカ…6月20日、神輿を担ぎ、太鼓(単面羊皮鼓)をたたきながらダフロン山の麓の小川へ下りていく。人も神輿も水を浴びて清める。太鼓(神鼓 lha rnga)も水に濡らす。この日から30歳以下の男たちは廟のなかで寝る。

●ハチャンカ 6月21日、ハワ(=神)を招いて酒でもてなす。バター灯(mchod me)、サンツ(bsang rtsi 小麦粉)、ヨーグルト、ミルク、茶、酒、カタ、布、飴、果物、トルマなどが献じられる。ハワは神憑かって占いをする。この日、ラブツェ祭がおこなわれる。ラブツェは年長者が最初に立てる。

●本祭 6月23日〜25日

 ウェーハー舞。ウェー、ハーと叫びながら踊り、各神を呼ぶ。もともと戦争へ行くときの軍人の踊り。刀などをもつ。30分。
 竹馬。15分。
 アツァラ。15分。
 男のガル。20分。
 幕間劇。豊作を願う目的。45分。
 女のガル。ダフロン神の帽子をかぶって踊る。25分。
 男女いっしょにトゥジェチェンポ舞。20分。

 このプログラムの内容を23日は3回、24日は4回、25日は5回繰り返す。

●ヤギのトルマ…最終日の25日正午頃、ザンパ (麦こがし)で作った実物大のヤギのトルマをサンとして焚き、神に捧げる。かつては本物のヤギを捧げていたが、86年頃、サフチのハワ(すなわちシャチョン)が祭りのとき、殺すのはよくないといってカタをかけて逃してやった。それ以来トルマのヤギが犠牲として使われるようになった。

●開紅山…午後、モ(占い)で選ばれた男たちはハワによって額を傷つけられ、血を流しながら踊る。血は神への捧げもの(赤い供え物 dmar mchod)と考えられる。

●カマル…ハワがモ(占い)で21人の男を選ぶ。男たちは長さ20センチほどの銅針を頬に貫く。釣針は酒と胡麻(サルマ)の油で消毒し、熟した白と黒の石を清水に入れて発した水蒸気によって清める。数人は銅針を背中にも挿す。(占いで選ばれたので)小ハワも頬と背中に挿して踊ったことがある。

このとき、自分で銅針を抜いてはいけない。動きのなかで自然に落ちるのを待つ。身を清めているので、釣針を挿しても血が流れることはない。カマルは勇者であることを神の前で示すためのもの。

●宣誓…24、25日の夕方、ハワの占いによって選ばれたカンゴワ(長老)のひとりが宣誓をする。まず、廟の前に男の参加者全員が二列に並ぶ。ふたりのハワは監督官の役目を担い、杖をもって半神懸かりの状態で歩き回る。宣誓者は皆の前に立ち、「ジャンファーロー、ジャンファーロー」と宣する。漢語の「講話了! 講話了!」である。

つづいてチベット語アムド方言で、「今日はとても日和がよく、神様もみなここソグルに集まった。あたらしい堂も建ち、なかにはいろいろな像があり、ダライラマの像もパンチェン・ラマの像もあり……」というぐあいに、活仏や守護神の名前をつぎつぎとあげていく。さらにアンニ・マチェンやダンディ、ニェンチェン、ダフロンなどの山神の賛歌をうたい、呼び出す。

 そして祈顧はつづく。「今日はルロル祭のために、富める者は裕福な供え物をし、貧しい者は貧しいなりの花だけの供え物をし、踊りも献じました。ですから神様も、仏法を守護してください。ジャワ・テンジン(ダライラマ十四世)も守ってください。チベットの人々を守ってください。ソグルの善男善女が神の名を呼んだら、助けてください。村に危害を加える敵を退治してください。今年は山の上は家畜であふれ、畑は作物でいっぱいになりますように。ひとはみな幸福になりますように。タシテレ!」

●25日夜…戦神ダンドゥが大ハワに憑依する。その間小ハワと村の男たちは村の端まで行ってルタを燃やす。戻ってきて、堂に入るとき、「ハジャロ!(神に勝利あれ)」と叫ぶ。

マパ

●参加者…男85〜95人。16〜40歳は軍人(マグミ dmag myi)、40〜60歳は総監(チャワ spyi pa)とよばれる。女35人軽度。16歳以上の未婚。

●由来…1)戦いに勝って帰ってきたときの祝いがはじまり。

2)6月の収穫期を前に、雨による被害がないよう、山神に供え物をし、歌舞を捧げた。

●費用…各家が一斤の酒を供出。

●組織…力をもっているのはハワとカンゴワと8家族(mi khyim brgyad)であり、かれらが規則、費用、準備などについて話し合う。うまくいかない場合、8家族の管理人('khyug bdag khyim brgyad)が仲裁にはいる。

●準備…はじまる一週間前、からだをきれいに洗う。

開始日の朝、サン(焼香)をしながらドゥッカル経(白傘蓋仏母経)を読誦する。

サンチュ(焼香)が終わったら、カンゴワが規則や予定について発表する。

●供え物…各家の供え物は酒、ヨーグルト、甘酒、飴、果物なんど。サンに供えるのは、サンツ(小麦粉)、ツアンパ、小麦、米、飴、果物、茶、花など。真ん中にバター灯を置く。

●ダヒュン(mda' shing)…矢。6月21日午後、ダヒュンをもって川へ行き、水に浸す。軍人(マクミ)たちは川の水で顔を洗う。むかしは泳いだという。そうすると病気にならないと信じられていた。

●キッタル(旗・幡)…キッタルにはタルチマ (dar dkyis ma)とツァカ(tsa kha)がある。ツァカ上にアンニ・サーロン(A mye gsa' lung)が描かれる。ゾッホク(ルタとおなじ。纏に似る)は経文を印刷した紙を木に吊るしたもの。

●カンプク(カマルとおなじ)…ハワ、あるいは年長者が挿す。行なう前にきれいにしておかないと血が出るといわれる。血が出るのは屈辱的。カンプクをすれば病気にならない。

●チェムゼ(khyim 'dzul 家に入る、の意。ハチャンカのこと)

6月23日 ロクマ部落(Rog ma)でチェムゼ。

6月24日 カワマ部落(rKa ba ma) でチェムゼ。

6月25日 ジャンクル部落('Jam skorでチェムゼ。

 チェムゼは、アンニ・マッホン神が降臨したとみなされる。チェムゼをすれば、人も家畜も無病息災だと信じられている。各家に入るのはアンニ・マッホンの旗、ハワ、軍人(マグミ)の順。この村に神輿はない。入るとき、ウェーハーの掛け声を三度唱える。家のなかの守護神の前でもウェーハーを三回唱える。占いをして、吉(裏・表)が出たらまたウェーハーを三回唱える。

●本祭

6月21日 午後6時、ダヒュンをもって川で沐浴。

6月22日 午後6時、村人は二手に分かれ、アンニ・ジャタン(A mye Gya ting)とユハ(Yul lha)のタンカが掛けられた軍旗(トク)をもって行進する。半時間後、さらにアンニ・マッホンのタンカが加わる。

6月23日12時30分 ドンカム部落長官(dpon po) の家にみな集まり、チェムゼに出発する。

4時30分 チェムゼを終え、将軍廟広場(dmag dpon thang)に入場。広場の外側を三周、内側を三周まわり、ウェーハーと唱える。占いをしたあと、ガル(舞踏)の輪を作っていく。

4時50分 男のガル。5時10分、女のガル。5時30分、男のガル。5時50分、チヤワ(長老)の踊り。6時、女のガル。6時20分、男のガル。6時40分、チャワの踊り。

6時50分、 女のガル。

7時20分 ウェーハーと唱えながら、外、内、各三回ずつ踊りながら回る。

6月24日正午 カワルマ部落でのチェムゼが終わるとマニ神廟に至り、みなでドゥッカル経を読経する。

2時30分 各家がマニ神廟でサンを焚く。

3時30分 ボン教のチョンウ部落(Khyung bo)に近い広場でサンを焚き、軍人たち(マクミ)は弧を描いて群舞する。このときカンプク(kha 'bugs カマルのこと。挿銅針)をする。そのあと長老はサンを焚き、ほかのひとは爆竹を鳴らし、鉄砲を撃ち、雄叫びをあげる。ハワとマクミたちはチョンオ部落との境界まで行き、火を起こしてゾッホグ(tdzogs shog)を燃やす。灰を混ぜたり、雄叫びをあげたり、旗をあげたりして、ウェーハーと叫びながら戻ってくる。それを年長者たちが迎える。ゾッホグ儀式には由来がある。(伝説の項参照)この儀式のあいだ、チョンオ部落の人々は家のなかに鎌を隠し持ち、戦いに備える。

4時30分 四つの家族だけがジャツァンマ村(rgya tshang ma)へ行き、祭りに参加する。

4時50分 将軍席広場へ行き、外と内三回ずつ踊りながら旋回する。

5時10分 男のガル。5時30分、女のガル。5時40分、チャワ(長老)の踊り。5時50分、男のガル。6時10分、女のガル。6時30分、男のガル。6時50分、女のガル。7時、チャワの締り。7時10分、男のガル。7時30分、女のガル。

7時50分 アンニ・マッホンのツァカ(tsa ga 小画片)とタンカをもち、四時半と同様に、チョンウ村との境界でゾッホグを行なう

8時20分 終了。

6月25日

正午 ジャンコル部落へ行ってチュンゼを行なう。

1時50分 ゼナン(rdzi nang)という所で踊り、カンプク(挿銅針)をする。

2時10分 将軍廟広場へ行き、外内を三回旋回しながら踊る。

2時30分 男のガル。2時50分、女のガル。3時10分、チャワの踊り。

3時20分 (挿銅針しながらの)男のガル。3時40分、女のガル。

4時 雨が降っていたら、雨を止める儀式を行なう。四方にマクミ(軍人)が立ち、中央にハワと長老(ンガッパ)が立つ。各方向にむかつて雨を駆逐し、マクミが頭に巻いているタオルを取ってくる。

4時20分 劇。高官らしくきれいな服装を着たボンポ(長官)とボンモ(その妻)が招待され、顔を隠しながら登場する。

4時30分 劇。ボンポはヒツジの皮の衣を裏返しに着て矢をもった父であり、ボンモは装飾品をこってりつけた母。

4時40分 劇。ガッサルのハワ(演員)登場。ガッサルはマパの隣にある土族の村。由来はあきらかではない。

4時50分 劇。ふたりの男がポロ布をかぶり、獅子舞のように雌牛を演じる。雌牛が場内に牽かれて入ってくると、年長者はつぎのような説明をする。「ドンカムには百人もの息子がいる。それなのにこの雌牛は山に行っても草を食べない。海に行っても水を飲まない」。

4時55分 劇。顔をタオルで覆った男たちがマッホン廟から駆けてくる。雌牛にのり、交尾のしぐさをする。それから香炉(サンクン)へ行ってサンを焚き、ツァカの棒にのぼり、子宝に恵まれない家族を訪ね、交尾のしぐさをしてから戻ってくる。

5時 マクミ(軍人)たちはルカン(竜廟)へ行く。廟の前にはガッサルのハワ、父母なども来て、寸劇(喜劇)を演ずる。

5時40分 劇。母はマッフン廟に戻る。父は母を探すが見つからない。探しながら、いろいろな冗談を飛ばす。

5時50分 劇。父はガッサルのハワをよび、母の居所を尋ねる。ハワ(演員)はお告げをする。

6時 劇。母を探し当てる。ジョークを連発。

6時20分 ラーイー(情歌)。男が男役、女役にわかれて恋の歌をうたう。

7時20分 劇。秤で計って、マクミ(軍人)それぞれに千五百斤の金を与える。(という演技)

7時30分 ウェーハーと叫びながら、アンニ・ジャタンとアンニ・ユハをマッホン廟に招来する。アンニ・ジャタンがアンニ・ユハを送る。

6月26日 午前 ハワとカンゴワはマッホン廟で清めをして終結。

ロンジャ・マル

●参加者…原則的に各家から一名。男160人、女25人。

●由来…ロンジャのルドンナン(klu sdong nang)にひとりの修行僧がいた。このあたりで放牧している子供たちの遊びを見てルロルを考え出した。

●費用…組織人は村をまわりバター、羊毛、小麦、現金などを集める。現金は七.八千元くらい。

●アマラモ…30センチほどの笑みを浮かべた木彫りの女神像。バケツのなかの発酵した小麦の液中に赤い布にくるまれて入れられる。男の踊り手が片手にこのアマラモ像、片手に木彫りの陽物をもって生殖行為の模擬動作を行なう。子宝を欲する女性はとくに触れようとする。ハワの噴出する水も類感受術的に子宝を授けるといわれる。

●本祭

6月20日 トグ(tog 軍旗)を立てる。

6月21日 

午前10時 将軍(マッホン)の踊り。

12時30分 前半の踊り。

3時 休憩。

5時 踊り。

8時 後半の踊り。ラーイー(情歌)もある。

6月22日

午前11時 踊り。カマルもある。刀で口や頭を切る。ゾッホグ儀式を四方で行なう。

ハワのおつげもある。

午後3時 休憩。

4時 ジャンモタン村('Jam mo thang)のアマ・ルモ廟(a ma klu mo'i lha khangで踊る。

6時 組織担当の15〜40歳の男たちがアンハニラ(A myelha ri)の憤怒相と静寂相をもって踊る。

8時 ラーイー(情歌)。

12時30分 終了。



ニェントフ

●参加者…男女計230人以上。うち女は20人。男は10歳〜60歳。女は未婚であること。

●装身具…女性はポドゥ(pho du'u)、カトゥル(rka thur)、ドルツェ(dor tse)という飾りをつける。45歳以下の男はヤーシャ(dbyar zhwa 夏帽)をかぶる。45歳以上はタオルを巻くだけ。

●ハチュカ…6月18八日午後、ゴモルラン(二郎神)の神輿を担いで河へ行き、水に浸す。それからオンポ(地方官の旧名)の屋敷にもっていき、安置する。翌日神輿を担ぎだし、ラタ(klu rta)を燃やす儀式を行なったあと、丘の上のゴモルランの廟(二郎神廟) へ返納する。

●ハチャンカ…6月20日、二郎神廟の前で踊りを奉納したあと、神輿を担いで、山神たちとともに山を駆け下りて、村里へ。楊柳を神輿に載せる。楊柳は神の道具であり、神の力を象徴する。家一軒一軒、すべてまわって儀式を行なう。

●本祭

ラブツェ…ラブツェを建てる順序は寺の僧侶、ウェホン(pe dpon 百戸長)、チェンボン(chan dpon 千戸長)、一般村民。

カマル。
軍舞ウェーハーラー(pe ha la)。
ハ・ンゴン・パ舞(lha ngoms pa)。
若者の竜舞六種(pho dsar tsho'i klu rtsed sna drug)。
竹馬(rkang shing)。
クルークルー舞(kuro'u kuro'u)。
ナトゥ活仏(Lama Na thu'u)。
神舞(lha rtse)。
ワンヤンピー舞(ban yan 'bus 45歳以上の年長者が踊る)。
女のガル(skye ma'i gar)。
劇「誕生」(bis bs skyes ba'i tshul gyi rtsed rigs)。劇「皇帝」(gong ma yi tshul gyi rysed rigs)。チュパシュ(mchod pa gshogs)。劇「商人」(lad ka yi tshong ba'i tshul gyi rtsed rigs)。劇「虎退治」(stag 'dzin pa'i tshul gyi)。 劇「仏像行商」(pag tshong ba'i tshul gyi rtsed rigs)。
フィナーレの歌舞。

トルジャ

●参加者…男は15歳から30歳、200人くらい。女は18歳から20歳、50人くらい。

●由来…戦いに参加するときの閲兵式がそのはじまり。

●費用…アンニ・ダルジェの神輿が家々をまわるとき(ハチャンカ)集められる。

●カンゴワ…もっとも重要なカンゴワはタシ・ツェラン。その家族はチュジエド・リンボチエ(Chos rje do rin po che)とよばれるが、ツォンカバの師チュジェド・リンボチェによって家族がカンゴワに選ばれたという故事に由来する。

●準備…6月18日、前年8月にハワが決めた(中心となる)家にカンゴワが全員集合し、グスイ(dgus rdzas)という粥のような食べ物を食べる。ハワは事前にコレ(パン)の麹を作っておく。それをもとにコレを焼き、ハカン (神廟) にもって行き、子供たちに食べさせる。

6月21日 朝、神輿をきれいにし、楊柳を上に置く。ハチュカはなく、河には行かない。この日、家々をまわるが、ハチャンカとはいわない。(内容はハチャンカとおなじ)

●本祭…6月22日〜24日

●旗・幡…アンニ・タルジェ(A mye dar rgyal)、ニェンチェン(gNyan chen)、タンナ(Thang nag)、そして虎、獅子、ガルーダ、竜など。

●ゾッホグ(rdzogs shog)…21日に二回、24日に二回の計四回、ゾッホグを燃やす。21日は西南の方角で、24日は東の方角で燃やす。そのとき、経文の印刷された紙の上にヤギの血を垂らす。

●カマル…ハワが神憑かったとき、踊り手たちに銅針を挿す。カマルをする人は廟のなかで寝起きし、節制する。カマルはマチュ(赤い犠牲)と考えられる。

サンゲション・マル

●参加者…男15歳〜40歳、女15歳〜25歳。

●費用…参加しない人からの罰金。

●組織…四つの部落が順繰りに担当。約20人のカンゴワから成る。

旗・幡…アンニ・マチェン。

ツァカにはアンニ・フーシャンが描かれる。その他虎、獅子、鳳凰、竜。

ハチュカ、ハチャンカ…六月二〇日、神輿を川辺にもっていき、清める。あたらしい柳葉(lcang lo)を採ってきて、神輿に挿す。6月21日の夜、カンゴワたちは神輿を担いで各家をまわる。家は酒、茶、ヨーグルト、食べ物を供える。カンゴワたちは門の前でマッツェ(dmag rtse 軍舞)を踊る。

●本祭

6月21日

12蒔、マッツェ(軍舞)。12時20分、ハツェ(神舞)。1時30分、スンダン舞(sum ldang)。

2時30分、休息。3時30分、マッツェ。4時30分、男女の群舞。5時20分、スンダン舞。

5時25分、12人の踊り手によるキルキル舞(gir gir rtse)。

6月22日

ほぼ同じ。午前二時頃、ホルジャへ踊りに行く。

6月23日

ほぼ同じ。12時頃、ホルジャの人々がやってきて踊る。五時、ゾッホグ。

6月24日

11時頃、サンゲションのヤンゴ(上村)とマンゴ(下村)がいっしょに踊る。1120分、ハツェ。12時、スンダン舞とガル。2時、マッツェ。2時20分、ハツェ。3時、スンダン舞とガル。5時、マッツェ。5時20分、ハツェ。6時、キルキル舞。6時30分、ススク舞(si si gi)。730分、虎退治。

6月25

11時30分、ジャツォンマへ迎えにいく。12時30分、マッホン廟でカマル。1時、マッツェ。1時30分、ハツェ。2時30分、スンダン舞とガル。320分、キルキル舞。350分、マッツェろカマル。410分、ミニャンス(mis nyan zig)。430分、ススク舞。5時、神帽舞。530分、ハツォンギャパ(lha mtshon rgyag pa)。630分、虎退治。

1 ルロルの現地発音はリル、ないしラルに近いが、日本語表記は不可能なので、ローマ字表記にあわせた。

祭礼の主役、ハワ

一世紀も前に鋭くもアーノルド・ヴァン・ゲネップが指摘したように、シャーマニズムという言葉はあいまいなうえに、危険な誤解を与えることがある。註1

 しかし、シャーマニズムという言葉で括れる現象があり、世界中にそれが見いだされるのもたしかなことである。レコンのハワ(lha pa)もまた、エリアーデが定義した典型的なシャーマンではないにしろ、シャーマンたる特質を十二分にもっている。註2 

その特質とは、シャーマンになるときのイニシエーション的なプロセスだ。病気にかかったり、あるいは精神的危機などに陥ったりしたあと(巫病という)、それを先達のシャーマンの力添えによって克服し、神や精霊と交信する能力を得るにいたる、というのがもっともオーソドックスなパターンだろう。ハワもまた、チベットの他地域でバウォやチョキョンとよばれるシャーマンと同様、精神的危機に陥ったあと、活仏の導きなどによって克服し、精霊と交信する能力を得てシャーマンになるという点ではそのパターンを踏襲しているといえる。註3

 同時にハワは他のシャーマンといくつかの点で異なっている。まず特筆すべきは、ハワの祭礼時における地位がきわめて高く、仏法の守護者でもあり、簡単に憑依する市井の霊媒師とは異なるという意識が浸透していることだ。村人はハチャンカの際、ハワが家々をまわるときも、神廟で神憑かっているときも、神仏に礼拝するかのように五体投地をして崇めるのだ。

ハワは祭礼期間中、ほとんどつねに半神潜かりの状態(唇をふるわせ、頬をふくらませる)にあり、祭のパフォーマー(軍人とよばれる)を統括する指揮官のような役目をはたす。一般人の理性ではなく、神の理性によって動いているのだ。祈祷師・ヒーラー的な要素は比較的少なく、もっぱら神と人間のあいだの仲介役を請け負う霊媒である。神の降りる器となることで、病気のアドバイスをしたり、事故や不幸の厄払いをしたりすることもある。

なんといっても、共同体における精神的支柱であることが大きい。だからこそ文化大革命前後の時期をのぞき、村でハワが欠員になったときは、あらたなハワを探し出すため村の若者全員を招集し、堂に一週間こもらせて神憑かりを待つというような信じがたいほど面倒くさい作業を行なってきたのである。

 シャーマニズム学の面からひとつ注記しておくと、シャーマンは「憑依型Jと「脱魂型」に二分されると考えられてきた。ハワはあきらかに「憑依型」である。註四 しかしソグルのハワが堂内で槍を構えたまま、何十分間も恍惚とした表情を浮かべて動かず、ときおり馬に乗り、槍を振りかざすしぐさをするのを見ると、戦神ダンドゥに憑依されたあと「脱魂」し、敵(=魔)と戦っているとしか思えない。もっとも、当人に憑依期間の記憶がないため確認することはできないのだが。

 つぎに、何人かのハワの実例を示したい。

タンゼンブム(Ting 'dzin 'bum

 サフチ。33才。石油公司勤務。漢族の女性と結婚し、一女をもうける。

 十人兄弟姉妹の八番目。上から、男(56)女(48)女(45)女(42)男(39)男(37)男(35 インド在住)男(タンゼンブム本人)男(30)男(28)という構成。

 父親はよく知られたキャリア40年のハワだったが、八八年に六二才で亡くなった。

 長い間のブランクののちルロル祭が復活したのは一九八四年。しかしタンゼンプムの父親ハジャ・ツェラン(Lha skyabs tshe ring)が亡くなると、ハワ不在となり、偽ハワでルロル祭を乗り切った。ハワ不在の間、偽ハワが唇をふるわせ、頬をふくらませてハワのようにふるまう情景はけっして珍しいものではない。

 92年、若者全員をシャチョン神廟に集め、数日間こもらせ、その間シャチョンの経文を読経させた。神がかった者が四人いた。ロンウ寺のシャルツァン活仏はそのうちふたりに憑いたのは悪霊にすぎないと断じ、残るふたりをハワと認め、ハゴシ儀式(lha sgo pye)を行なった。ハゴシとは神の扉をひらく」という意味である。ハワ(ラバ)やパウォと呼ばれるシャーマンや神授型ケサル叙事詩人(ドゥンパ)は、はじめにこのハゴシ儀式を受けることが多い。これはチベット的なシャーマンのイニシエーションだといえるだろう。

 94年、もうひとりのハワが事故死したため、それ以降はひとりで重責を担うことになった。十年目を迎え、タンゼンプムはレコンの代表的なハワど目されるようになっている。

 もともとお告げはしなかったが、最近は訓戒のようなお告げもする。ことばではなく、胸を叩くなどのしぐさで神意を側侍の者(従兄弟や長老)に伝える。タンゼンプムはルロル祭のとき以外はほとんど活動しないが、父親は活動範囲が広かった。病気になったとき、商売をはじめるとき、戦争に出かけるとき、また探し物をしているとき、人々はハワのもとにやってきた。治療行為などをしたわけではなく、神意を知って治療法をアドバイスしたり、占いをしたりした。

 憑依する神は、シャチョンとラルゾンとマッホン。憑依のしかたによって、神を識別することができる。神憑かりのときの記憶はない(そもそも、記憶があるとなると、ほんものではないということになる)。憑依状態のとき酒は飲まない(しかし実際は飲んでいるように思える。嘔吐するところを見たこともある)。

 

シャムワ・ツェラン(Byams pa tshe ring

 テウ。60歳。農民。

 宗教が自由化されたとき、自ら神憑かってハワになった。セゾン活仏(bSe tshong)によって神の扉がひらかれた。このハゴシ儀式のとき、サンを焚き(bsang mchod)、カンガ経(bskang nga)を読経した。

 以前はカンジョ(mKha' 'gro)という名のハワがいた。1911年に生まれ、1958年に刑務所で死んだ。58年以前も、ルロル祭のとき、現在と同様神がかった。

 シャムパ・ツェランは病気を治したり、邪気を祓ったりする。神がかりのしかたは憑依する神によって異なる。ニェンチェンが憑いたときは、中国語で話す。しかしお告げはチベット語で、ふつうの人にも理解できる。神が出て行くときは、首を三回振るので、まわりのひとにもわかる。憑依しているあいだの記憶はない。

 

シャムワ・ザシ(Byams pa bkra shis

 ソグル。39歳。農民。

1992年冬、三十年ぶりにハワを選ぶことになった。ハゴシをするのはケンチェン活仏mKhan chen rin po che)だった。18歳〜35歳の若者、合計77人が寺の堂に集められ、一週間とじこもって経文を読経することになった。外部との接触は禁止され、差し入れの食べ物を食べることしかできない。一週間後、10人の若者が憑依状態に陥っていた。彼らはさらに十日間、経文を読経しつづけることになった。シャムワはその間、からだの不調を感じていた。熱っぽく、薬を飲んでも神がかった状態になった。からだ中に痛みを感じ、食欲がなく、無理に食べると吐いた。とくにダンドゥ経(dGra 'dul)を読むと、いっそうからだが痛くなり、我を失って茶碗を放り投げた。

 その頃、シャムワは夢を見た。白髭の凛々しい馬に乗った武将が、手に矢をもち、かれのほうに近づいてきた。武将は白いカタ(儀礼用スカーフ)をかれの首にかけようとするが、シャムワは拒絶する。つぎの夜も夢を見た。やはり武将はカタをかけようとするが、なおも抗おうとしたので、武将はシャムワを地面に倒した。そして馬の蹄でシャムワのからだをぐちゃぐちゃになるまで踏みつけた。

 十日後(開始から十七日後)、四人が憑依状態にあった。村の長老たちは四人の名簿をケンチェン活仏に渡した。活仏はふたりの名前を選び、護身結(pyag mdud dmar po)を与えると、他のふたりは何事もなかったかのようにおとなしくなった。憑いていたのは黒い霊だったのである。

 シャウ(小ハワ)はハワに選ばれたことを喜び、家族も賛成したが、シャムワはそうではなかった。シャムワの父も、むかしハワを見た記憶があり、そのときハワになるのはたいへんだと思ったという。シャムワはその夜、ひそかに別の活仏に頼んで、ハワにならないための護身結をもらおうとした。するとそのとき突然、地震が起きたかのように建物が揺れ始め、屋上を馬が走る蹄の音が鳴り響いたのである。

シャンワはケンチェン活仏のところへ行き、ハワになりたくない旨を泣きながら訴えた。しかし活仏は言った、「扉の前に来たのだから、もう後戻りはできない」と。シャンワは観念してハワになると決めた。

 シャンワはハワになることに乗り気でなかったのに、レコンでももっとも有名なハワになった。かれの真骨頂は、最終日の夕方の堂内での巫儀だろう。はじめシャンワは憑依状態で坐ったままジャンプしたり、走り回ったり、まるで狂人のようにふるまう。ダンドゥ神はあらぶる戦争の神なのである。しばらくするとシャムワは急におとなしくなり、パドマサンバヴア像の前で槍をもち、ひたすらじっとする。およそ二〇分間、身じろぎをしないのである。

このとき、ダンドゥ神が憑依し、からだを脱け出した魂(神が憑依した魂)は敵と戦っていたのではないかと思われる。ただハワはこのときのことは記憶にないといい、確かめる手立てはない。

 シャムワがこうして瞑想状態にある間、小ハワと村人たちは村の端まで行き、ゾッホグ儀式を行なっていた。

 

シャウ・ドルジ(Sha po rdo rje

 ソグル。30歳。農民。

 ハワになったのは、シャムワとおなじときで1992年冬。神の扉をあけたのはアラク・セツォン活仏。ハワになるとき、やはりからだの調子が悪かった。夢の中で神によばれた。また神が自分を守ってくれる夢を見た。

 祖父がニョンチャルジャ(sNying cag rgyal)というハワだった。1941年〜45年の間に先代ケンチェン活仏によって神の扉がひらかれた。1962年、祖父は餓死した。そのとき60歳だった。それから30年間、ハワ不在がつづいたのだ。

 ルロル祭のとき以外も、なくし物を探したり、病気を治したりもする。といっても、どの医者へ行ったらいいとか、どんな経文を読むべきか、というアドバイスだが。

 ルロル祭のときのお告げはだれにでもわかるチベット語で語られる。

 上記のようにルロル祭の最後の場面で、村の端まで行き、白傘蓋仏母経を誦Uながら、ゾッホグを燃やして邪気を祓う。

 しばしば杜松(shug pa)を生のまま食べる。からだをきれいにするためである。 

*マパにはむかしふたりのハワがいた。アンニ・マッホンが憑くタンジン・ジャブ(rTa 'grin skyabs)とアンニ・サーロンが憑くダルジェ(Dar rgyal)である。かれらの動きはとてもきれいだった。解放後捕えられ、拘束されていたが、信仰の自由が認められた頃、両者とも亡くなった。タンジン・ジャブの息子が偽ハワを演じるなどしてきたが、現時点では本物のハワは現れていない。アンニ・ワゾン神のところへ行き、神の降臨を願ったが、願いは叶えられていない。ここではマパの幹線道路の向こう側ラツァ部落(Ri rtsa)のハワについて記そう。

 

シャウ・ツェラン(Sha bo tshe ring

 マパ・ラツァ。33歳。農民。

 ゾンカル活仏(rDzong dkar)がマパのチョルテンを訪ねたとき、シャウ・ツェランの神の扉があいた。そして1986年、セチュ活仏(bSer khri)がハゴシを行なった。このときソグルなどと同様、村中の若者があつめられ、四人が神がかりの状態になったが、他の三人にかかった神は黒い神だった。

 その前のハワは、ハべ (Lha bhe)という。七八歳で健在だが、文革が終わったときから神がかりしなくなった。

 なくし物について、あるいは病気のことを相談されると、神が憑依する。

 正月一日、ゴモルラン神(Gos mo'i ri ling)が憑依し、五台山の算術(chu rtsis)が提示される。今年の作物や健康についての算術をする。

 ルロル祭六月二三日午後三時頃、憑依する神はシャンヒャムバリ・チェジュ・ジャウ(Byang sham bha la'i phrul gyi rgyal bo)。

 憑依時の感覚。「神が入るとき、胸がふたつに裂かれ、なかから血が噴き出してくるような感じがします。それから記憶がなくなるのです」。

 ロンウ活仏を訪ね、自分の感覚について話したあと、憑依の感覚とお告げのしかたが若干変わったという。

 お告げのときのしゃべり方は腹話術的。こういうしゃべり方のハワはレコンでただひとりだろう。文語が多いので、一般人には理解しがたいという。つぎに示すのは一九九八年のルロル祭のときの神語。

 

●神語

@ わたしのラマ(導師)はパドマサンバヴァとジャンゴン・ツォチャ・ロンチュ(sKyabs 'gon tshogs drag rang grol)、そしてラマ・ゾンカル・マヌ(bLa ma rDzong dkar ma ni)であ る。ラマの方々はわが頭に御手をおのせになり、赤い護身結をわが首におかけになり、甘露をわが口に含ませられ、訓戒を賜わって、管理をお任せになられた。わたしは言いつけを守ってきた。ああ、暗愚なる人間たちよ。おまえたちの声が稲光のごとく光ったので、わたしは人間界にやってきた。いったいなにが望みなのか。

A(ある老婆にたいして)年寄りのひとたちよ、あなたたちはこの世に生まれ、たくさんの苦労を重ねてきた。しかし死は避けることができないのだから、経典はなるたけ読んだほうがいい。経典ほど役に立つものはないのだ。わたしは神であるから死ぬことはないが、一日で鉄製の靴をつぶしてしまう(それほど多忙だ)。一日で鉄製の服が破れてしまう。だがだれ が不平を言うだろうか。

 

シャウ・ツェラン(Sha bo tshe ring

 ロンジャ・マル。68歳。農民。ふだんは妻の実家があるガッセル村に住む。

1950年頃、ファルデン活仏(dPal ldan)のハゴシ儀式によってハワになった。小ハワのカジョ・ツェラン(mKha' 'gro tshe ring 23歳)もプァルデン活仏によって半世紀後の1996年にハゴシ儀式を受けている。

 ハワの前任者は存命しているが、目がよく見えなくなり、足が悪くなったので廃業した。

 悪霊が憑いたときや物がなくなったときは、ハワに相談する。

 神が憑依しているとき、頭を傷つけて血を流す。そんなときは怒っているわけではない。本気で怒ると、お腹を切って血を流す。口の中を切ることもある。頭から流れる血が止まると怒り出す。神が去ったあと、傷が癒えていることがある。

1999年夏をもって引退した。

 

●神語

 ラマ・ドルジェチャン(金剛持)がわが舌の上に宝瓶の玉露をお垂らしになり、金剛杵を頭上に置かれたときのことは口外しない。作物のこと、家畜のこと、外敵、村の中で起きたできごと、わたしはすべてを知っている。ロンジャ三百家よ、よく聞け。四十年間のあいだによくわかった。共産党の言うことはそのまま受け入れたほうがいい。わたしの言うことを聞くなら話をしよう。聞かないなら、話はしない。気をつけたほうがいい。過激な人は刑務所に入れられてしまうだろう。暴れ馬の脚が結ばれてしまうように。皇帝(中央政府のこと)の命令は守ったほうがいい。

だが神は信じなければならない。酒を飲むときはより気をつけて。みな喧嘩はしないように。チベット人の話を信じてはいけない。それはすべての馬に乗るようなもの。中のいいものを外に持っていってはだめ。外のものを中に持ってきてもだめ。最近のこどもは母親の言うことを聞かなくなった。そんな話をわたしは何度しただろうか。

 わたしチェハ・ハラガルボはカルデン・ジャンツォのいいつけをよく守っている。ロンジャ三百家の男が呼んだとき、女が呼んだとき、わたしはすぐにやってくるだろう。今年は大雨が降るかもしれないから、みな気をつけて。でも大丈夫。皆死ぬときはいっしょ。勝つときもいっしょ。

 

ラブジエ(Rab rgyas

ニェントフ。78歳。農民。

1949年頃、先代ハワ(ラブジェの父。当時67歳)が亡くなったので、村人は若者全員を神廟に集め、一四日間こもらせ、経文をよませた。そのなかから神がかった人、すなわちラブジェを選び、ケンチェン活仏がハゴシをして承落した。ラブジェがハワになる前、ラブジこの父はテル(伏蔵袋)を埋めるためシャチョン山に登った。そのとき土を掘ると、銀鈴が出てきた。これはラブジェがハワになる前兆とみなされた。

 

●神語

ニェンチェンが憑依すると、つぎのような神話を語った。

 「われはニェンチェン・ンゴラ・ユツェ(gNyan chen sngo la g-yu rtse)である。天空では雷に乗り、中空では鳥に乗り、地上では馬に乗って駆ける。夏の三つの月のあいだ、黄色の花を食べます。秋の三つの月のあいだケンパという植物を食べます」と宣して、村のいいこと、悪いことについて言う。

 これらはチベット語で語られるので、一般の村人も理解できる。トランスから抜けるとき、ハワは頭を何度も揺り動かす。みなでまわりから押さえないと倒れてしまう。神がかつているときの記憶はない。もし翌日記憶があったら、本当のハワではない。酒は飲まない。

ニェントフにはほかにジグメ・ザンポ('Jigs med bzang bo 56歳 農民)というハワがいる。

 

ニャン・チャルジャ(sNying cag rgyal

 トルジヤ。30歳。工人。

 七、八年前、突然前触れもなく神がかった。それ以前に前兆となる夢もなく、病歴もなし。前のハワはシャウ・ナムジャ(Sha bo rnam rgyal)。1936年に生まれ、58年、刑務所に収監された。信仰が自由化され村に戻り、神が憑くこともあったが、歳をとったので引退し、娘婿のニャン・チャルジャにハワの仕事は任せた。

 ルロル祭以外の活動はなし。憑依する神は激しい神、とくにダルジャが多い。どの神であるかは神語でわかる。神が出て行くと、倒れる。神語はチベット語(トルジャ方言)なので、村のだれにもわかる。憑依しているときの記憶はない。憑依時も酒を飲む。

●祝詞

hri hrin the/ re thug ci tsan tsi/ thug hrang de gri dpa' gro tsi/hrig hrang na gri dpa' gan tsi/ yo lus tsi gru la hrin pho/ ce lus khran du the tsi dpe'/ tsi lus co du tsho du ca

おそらく漢語で「聖聖太、日頭……、頭上帯的花卓子、手上掌的花杵子……」。

 

デカルチャプ(gDugs dkar skyabs

 サンゲション・マル。74歳。農民。

1943年、ワルマ・ザワ活仏(Padma zla ba)によってハゴシ儀式を受けた。病気を治すとき、病人の家族はサンを焚いてハワの憑依を待つ。おとなしいハワとみなされる。神語はチベット語であり、一般のひとにも理解できる。憑依時の記憶はない。酒は飲まない。 

リンチェン・ドルジェ(Rin chen rdo rje

 ホルジャ。24歳。農民、画家。

 ホルジャ村のハワが長らく不在であったため、1996年6月26日、長老が集まって話し合いをもった。そしてチョゲン活仏(Khri rgan)に助言をもとめた。活仏は、18歳から35歳の男をマッホン神廟に集めて身を清め、ハワを選ぶ儀式を行ないなさいと言った。

 村人たちは言われたとおり若者を神廟に集め、一晩とどめ置いた。

 翌日ハワ選びの儀式を行なった。最初は30歳から35歳の男を神廟のニェンチェン像の前にならべた。このとき村のアンチュ(在家僧)がカンガ経を誦した。ほかの年代の男たちはサンを焚き、太鼓を叩き、雄叫びをあげたりしたが、だれひとり神がからなかった。つぎに25歳から30歳の男たちにたいして同様の儀式を行なったが、やはりだれひとり神がからなかった。18歳から25歳の若者に儀式を行なうと、九人もの若者が憑依状態になった。

 村人たちは九人の若者を活仏に引き合わせた。活仏がシャンダ(護身結)という聖なる赤いひもをそれぞれにかけると、ひとりだけ憑依状態になった。それがリンチェン・ドルジだった。活仏は彼をハワに認定した。

 活仏は呪術的な力をもっているとリンチェンは信じている。チョゲン活仏の力によって神はひとのからだに入ってくる。神はおなかから入ってくると、活仏に言われたという。また活仏がマニ(オンマニペーメフーム)を唱えると憑依するという。

 神が入ってくるとき、まず膝がふるえ、それからおなかに(神が)入り、全身に広がる。神が憑くと、からだが大きくなる。シャツもズボンもパンパンになり、顔も大きくなる。

 酒の撒き方など、具体的な所作も活仏は教えてくれた。

 最近になってようやくお告げ(神語)が語れるようになった。

 神が降臨するためには、村全体の同意が必要。個別の現象ではなく、共同休の構造の要であることが、このことからもわかる。

 リンチェンはハワになる前、予兆となる夢をいくつも見た。

@ マヌガン(Ma ni sgang)という丘にのぼると、たくさんのお坊さんが経をよんでいる。丘のまわりにはきれいな花が咲き乱れていて、そのなかで村の若者がみなハワになっている。

 そのときチョゲン活仏がリンチェンの名を呼び、こっちへおいでと、手招きする。

Aトキガン(Thod gi sgang)という山の上に白い雲があり、長い服を着た三人の男がバターを溶かしている。村の入り口(nkhar sgo)では迎えの準備をしている。そのなかの年寄りたちが「あの三人はアンニ・ニェンチェンとソンチョ・トルジヤ(Sras mchog tho ru rgyal)ママラガレ(Ma ma lag dgu ru)だ」と教えてくれた。するとリンチェンに神が憑き、みなでマッホン神廟に向かった。

B マッホン神廟内のニェンチェン像が言った。「もしあなたがハワなら、海の上にある太陽と月をもってきてください」。海ははてしなく大きかったが、リンチェンは空を飛び、太陽と月を取ってきた。

 

補足

 半世紀以上も前にソグルで起きた「事件」について記しておこう。当時のソグルのハワは家畜泥棒だった。ある年ハワは神がかり、神話で村人に命じた。「わたしは悪い男だ。わたしを殺せ」と。村人はハワをひきずっていき、首に縄をかけて崖から突き落とした。

 ハワの神語はおそらく翻訳されたものであり、実際にしゃべったのかどうか疑いが残る。態のいい村による処刑だったのかもしれない。

 このハワの息子は僧侶となり、85歳で1995年に亡くなった。


註 

1 Arnold Van Gennep "Shamanism is a dangerously vague word"(1903)"Shamans through time" (Narby & Huxley 2001) 所収。

2 Mircea Fliade "Shamanism" (1964)

3 永橋和雄『チベットのシャーマン探検』(河出書房新社 1999)

チベットを代表するシャーマン、ネーチュン・クテンに関しては、「チベタン・プルテイン」に詳しい。"Tibetan Bulletin" July-August 1992

4 神が憑依することをチベット語でハパブ(lha bab)という。この場合のバブは雨が降るなどの降るであり、上方から神が降ってくるようなイメージがある。