第一部

奇瑞に満ちた聖者の生誕

 尊い経典に「我、持戒を守る比丘」とあるのは一切知ゲンドゥン・トゥブ(dGe ’dun grubダライラマ一世)、「我、五明に通じるパンディタ」とあるのは妙音喜ゲンドゥン・ギャンツォ(dGe ’dun rgya mtsho ダライラマ二世)、「わが化身遍在す」とあるのは三界衆生の上師ソナム・ギャンツォ(bSod nams rgya mtsho ダライラマ三世)、「わが教法灰燼に帰す」とあるのは大楽法王ヨンデン・ギャンツォ(Yon tan rgya mtshoダライラマ四世)、「わが福利安楽、根本の宝」とあるのは勝利者ンガクワン・ロサン・ギャンツォ(Ngag dbang blo bzang rgya mtsho ダライラマ五世)。歴代の聖僧の灯火は消えることがなかった。

 また空を飛ぶ大鵬にたいしてみすぼらしい鶏があざけるように、智慧の世界を飛翔する私に対し、「チンピラのような者がののしるかもしれない」と仰せになるのは尊者である。

 リグジン・テルダク・リンパ(Rig ’dzin gter bdag gling pa)は「霹靂岩無上甚深精義(gnam lcags brag gi a ti zab don snying po)」のなかでつぎのように言う。

「このカルマを擁す者、シャムポ雪山(Sham po gangs)の西南に生を受け、衆生の主となり、聖なる教えによって人びとを救うであろう」。

 これによってご生誕の方角は明確である。また「神鬼遺教(lha ’dre bka’ thang)」の第二十四品によれば、

「傲慢が戦乱を生む日、心が教化を断念させる日、癸(みずのと)の亥の年、パドマサンバヴァの化身、オゲン・リンパ(O rgyan gling pa)が誕生される」。

 これによって水の猪の年にお生まれになることが予言され、父祖の名も明確にわかる。

 テルトン・チューギ・ギェルツェン(gTer ston chos kyi rgyal mtshan)は古い書のなかでつぎのように言った。

「亥の年、あるいは子(ね)の年、亥の年生まれの者、降臨し、オゲン・パドマ・ダク(O rgyan padma bdag)の化身が現れる。亥の年、子の年までは衆生のなかにその名は隠されるだろう」。

 これにより亥の年に生まれ、十二年以内に生きとし生けるものに姿を隠しながら福をもたらすということがわかる。予言中の十二年という年月はデシ(sde srid 大臣)のみ理解していて、尊者にはその名を隠させ、きよらかな生活を送らせる。

 お生まれになる場所は、ウッディヤーナの第二ブッダ、すなわちパドマサンバヴァがかつてその地を祝福されたベユル・ケンパティン(sbas yul mkhan pa sten)のとなり、13種の穀物を産し、森や草花が生い茂るナラオ・ユルスム(sNa la ’o yul gsum 現在のツォナ)だった。

 誕生された日、まさに偉大なるダライラマ五世が衆生の教化を終えられ、六世の菩提心と願いが実現されようとしていた。ガンデン・ポタン(dga’ ldan pho blang チベット政府)の行政も発展し、絹織物の地(中国)とビャクズクの地(カシミール)の間、すなわちチベットにも十善が行き渡った。世の中にも戦乱や疫病、災害などが見られない、太平の日々が続いた。

 尊者の家族に関して言えば、天神が降臨されて以来、父母七世の間、問題となることはなかった。父母の家柄はたしかなものであり、純正、賢明、聡明、正直、堅実、謙虚、無欲、技に巧みであり、鋭敏、善をなし、洞察力に富んだ。父はリグズィン・ペマリンパ(Rig ’dzin padma gling pa)の曾孫、忌み名をリグズィン・タシ・テンズィン(Rig ’dzin bkra shis bstan ’dzin)、無上タントラを修めた。母は品行方正にして欠けるところなく、先祖代々徳にすぐれ容貌端麗であることはとくと知られている。うつくしい行いの数々も世に轟いていた。出産も知らず、礼儀を知り、施しもよくし、いつもほがらかに笑みを浮かべられる。智慧があり、慎み深く、勇断で、博学、聡き心をもっておられる。嘘偽りなく、むやみに怒ることなく、嫉妬や吝嗇もない。傲慢も怠惰も騒ぎ立てることもない。人を信じて耐え、恥を知る。三毒(貪、怒、痴)もなく、女性特有の弊害とも無縁である。家を支え、女性としての分を弁えていた。さまざまな功徳もまた円満であった。「普曜経(mdo rgya che rol pa)」中に述べられる仏母のように三十二の功徳をそなえ、欠けるところはなかった。御母堂の忌み名はギェリ・ツェワン・ラモ(rGyal rigs tshe dbang lha mo)、水・猪の年に尊者がお生まれになり、まさに予言のごとくであった。ご誕生のとき七日にわたってあまたの吉兆奇瑞があらわれた。

 

十五歳のとき、ポタラ宮で宝座に就く

 十二年余り、尊者は生地に留め置かれることになった。

 当時デシ・サンギェ・ギャンツォ(sDe srid Sangs rgyas mtsho)はポタラ宮の修築と(ダライラマ五世の)霊塔作りに忙しく、(六世のことを考える)時間の余裕がなかった。もちろん五世が逝去されたことは極秘にされていた。そのため尊者が法王の座に昇ったのは火の牛の年(1697年)、御年十五のときである。ダライラマ五世は「(死を)十二年秘密にせよ」と仰せられ、サンギェ・ギャンツォはそのことばを守ったのだが、数年ほど越えてしまうことになった。そのためのち、大徳たちはそのことを指弾することになる。

 火の牛の年、チベットの暦で九月十七日十五時三分、ナカルツェ(sNa dkar rtse)にて、アミターバの化身、パンチェン・ロブサン・イェシェ(Pan chen blo bzang ye shes)がふたつの教師の役を負い、持明師ジャムヤン・タクパ(’Jam dbyangs grags pa)がチュジェ・ンガリクパ・シルノン・ドルジェ(Chos rje lnga rig pa zil gnon rdo rje)やダルモパ・ロブサン・チューダク(Dar mo ba blo bzang chos grags)、ジャムヤン・チュンペ(’Jam dbyangs chos ’phel)らの助けを借りて、得度剃髪し、受戒をお与えになった。号を一切知ロブサン・リンチェン・ツァンヤン・ギャンツォ(bLo bzang rin chen tshangs dbyangs rgya mtsho)という。天、すべての衆生に福徳が生じたのである。

 同じ年の十月、ツォンカパの入滅の日、ダーキニーたちが集まり、祝福するなか、二十五日五時三十分、ポタラ宮のシシプンツォク殿(srid zhi phun tshogs)で宝座に昇られたのである。