第二部

密かに英才教育を受ける幼少のツァンヤン・ギャンツォ

 至尊のラマは貴い経典のなかで仰せになる。

「ポタラ山の頂上から、聖なる心は四方を輝き照らす。私はひとりの賢者となり、チベット北部から北方へ向かい、あらゆるものを守り、災いを取り除くだろう」。

 尊者は北土で待つ頼るもののない衆生のために、母を看病する孝行息子のように、深遠なる菩提心でもって、忍耐強く、慈愛の行為をお示しになった。二十五歳までの在位期間中、仏の御子として、六波羅蜜(六つのパーラミター)や四摂事(布施、利行、愛語、同事)などの菩薩行を実践した。先達と同様、政治・宗教の規律を遵守し、維持した。これについてはよく知られたことなので、一、二のことを述べるにとどめる。

 パンチェンラマ・ロサン・イェシェ、ガンデン寺座主チョネ・ツルティム・タルギェ(Co ne tshul khrims dar rgyas)、ゲロン・ジャムヤン・タクパ、ンガリ・ゲレク・ギャツォ(dGe slong ’jam dbyangs grags pa)らゲルク派の高僧から潅頂を賜り、根本タントラを決め、生起次第や究竟次第を伝授された。またゲロン・ジャムヤン・タクパを根本ラマとして拝し、(ダライラマ5世の)四部経典「ガンガーの流れ」(Ganga’i chu rgyun po)の教えに沿って三年間、暑さ寒さに負けず修行した。

 この時期、名声をいよいよ高めていたデシはつねに口うるさいほどゲロン・ジャムヤン・タクパに、すべてのことを活仏に教え、厳しく育てるように命じていた。

 しかし私はまだ幼く、教えを受けるときもじっと座ることさえできず、そのへんを走り回っていたものだ。そんなときは白髪頭の先生が経典をもったまま私を追いかけ、捕まえ、「聖者さま、座ってちゃんとお聞きください。そうしてもらわないと、あとでデシ様にこっぴどく叱られてしまいます」。そうして合掌され、なんとか席に座ったものだった。先生は私の前に座り、授業のつづきをはじめるのだった。その光景はいまでも目に浮かんでくるようだ。私の悲喜こもごもの生涯はこうしてはじまるのだ。(と尊者は目を潤ませる)

 カンギュル(仏陀の言葉)経典をデシが一回、根本ラマ、ゲロン・ジャムヤン・タクパが一回、テルトン・ラトナ・リンパ(gTer ston Ratna gling pa)が半分と、あわせて二回半も教えたことになる。サキャ派、ゲルク派、ニンマ派といった雪国チベットに栄える宗派の潅頂や解脱の伝授、教え、真言など、顕密、宗派を問わず学んだ。

 ある冬の日、寺院の庭でゲルク派の舞踏が演じられているとき、尊者は金剛杵舞、三股金剛杵舞、五股金剛杵舞などを指導された。尊者の足跡をたどって僧侶たちは学ぼうとしていた。そのさまを見ていた(筆者である)私は幼く、あとをついて遊ぶだけで、そこに学ぶべきものがあることにすこしも気づかなかった。

 またどれだけ時間がたったであろうか、ある年、ポロル寺院(dGon pa po rol)にいた頃、尊者は大威徳(’Jigs byed ジグジェ)十三尊の砂マンダラをお作りになり、こう言われた。「いつかこの寺にゲルク派の神舞がもたらされるといいのだが」。この言葉がずっと私の胸のなかにあり、尊者亡き後、(神舞を学ぶため)チベット中央部に行ったのである。かつてギャルワン・リンポチェ(rgyal dbang rin po che ダライラマ七世)にもゲルク派の舞を確立すべきではないかと申したことがある。するとこうおっしゃった。「私はナムギャル僧院においてゲルク派の舞を演じさせたいと思っている。しかしゲルク派舞をよく知る人を探してンガリ(西チベット)にまで人を送ったが、探し当てることができなかった。いまはプトゥンが考案したというシャル寺院の舞をもってきてはどうだろうかと考えているのだ。ところがそれを伝えるのはわずか十三戸にすぎず、その十三戸もいまやほとんど消えかかっている。カムのほうへ向かえば、まだなにかいいものが残っているかもしれないが……」。

と、その口ぶりにはくやしさがにじみ出ていた。尊者に対する尊敬の念をこめて、つぎのようにおっしゃった。「もしいまも生きておられたら、すべてがうまくうくのだが!」

仏典「入菩薩行論」(*シャンティデーヴァ 610節)にもつぎのような一節がある。

もし(トラブルにたいして)処置の施しようがないならば、悲しんだところで何の益があろうか。