クンガ・ノル湖畔で六世、出奔する

さらに進むとクンガ・ノル(Kun dga’ nor)という湖に着いた。天幕と外周の幕との間でモンゴル人の老人とおぼしき男が様子をうかがっているので、私は人をやって呼び、ドゥンニェル(卓尼)・ビドゥル・プンポ(mGron gnyer bi dur dpon po)に通訳をさせた。

「ここは何というところなのか。おまえは何という名か」。

「ここはクンガ・ノルという場所です。わが名はアルパ・シラン(Ar pa si lang)と申します」。

これを聞いて私は思った。「この名はモンゴル語で獅子の意。ここではすべて(クン)が楽しく(ガ)、豊か(ノルブ)であり、畏れるものは(獅子のように)なにもない、ということを表わしているのだろう。彼らの心情もとてもよいので、ひとつ法術(占い)を試してみようか」。

そして三宝に祈願(占い)をすると、その結果はすべて吉と出た。吉祥天女(dPal ldan lha moパルデン・ラモ)の思し召しだということがこれからもわかる。

以上の神の思し召しによって、その晩、ビドゥル・プンポらソル(gsol)、ドゥン(mgron)二官を除いてだれにも知らせず、ひっそりと出発した。そのとき私は内側に黄色の僧服、外側に赤いガウンを着て、ポクト帽(黄色い平頂碗型の官吏の帽子)を被り、モンゴル靴を履いていた。身に着けていたものといえば、鶏卵大の舎利が収められた未生怨王(インドのアジャセ王)の護身具、数珠、リグジン・テルダク・リンパからもらった降魔杵(プルバ)だけだった。

出発前、ソル、ドゥン二官に最後の言葉を伝えると、ふたりは涙を浮かべ、見るからに悲しそうだった。

東南の方向に向かってしばらく歩くと、突然天地を揺るがすような強風が吹き荒れ、暗くなり、方角を見失ってしまった。そのなかに突然光があらわれた。よく見るとそれは牧人に扮した女性である。私は女性のあとをついていったが、明け方頃、女性は忽然と消え、風もまたおさまったのである。目の前には茫々とした砂漠が広がっていた。

遊行僧に扮し、商人の旅隊に紛れ込む

 明け方、ふたつの峻険なる青い山のあいまにたどり着いた。こんなに長い距離を歩いたことがなかったので、のどは渇き、足の指は水泡ができ、からだは疲弊の極致に達していた。進んでは休み、考えた。

「高貴な者も、最後には落ちぶれる。集まったものも、離散する。蓄えたものも、いずれ消えうせる。はたして、今日はそういう日なのだ」。

 こうして無常の思いにとらわれ、嫌悪感がたかまってきた。

「しかし束縛から逃れることができたではないか。これぞ三宝の慈悲というものよ。ひとりの隠遁者が生まれ、罪を洗い清めたのだ。純粋なる巡礼者であり、禅定をきわめるのだ」という結論に達し、喜びを感じた。

 からだを起こし、大きな街道を進んでいくと、アリク(A Rig)の商人たちと会った。彼らは西寧から戻る途中で、道の真ん中で火を起こしていた。私は喉が渇いていたのだけど、何も言い出せず、焚き火の近くに座っただけだった。そのなかの年配者が語りかけてきた。

「お坊さんよ、なにが欲しいのかね。お茶を飲みたいのかい」。

「そのとおりです。しかし茶碗がないもので‥‥」と、その声にも張りがない。

 なかのひとりが黒いお碗にお茶をいっぱいにそそいで持ってきた。私は他人の茶碗にそそがれたものを飲んだことがなかった。最初は汚いものに思えたが、一杯飲んでみると、甘露のように美味なのだった。

 奇妙で、また新鮮に映ったのだろうか、商人たちは私を取り囲み、じっと私を見つめた。興味津々に言う、「こいつはここの人間ではないようだぞ。服装や面(つら)を見てみろよ」「体つきも凡人とはちがうぞ。神様かもしれねえぞ」。

 そして問いかける、「あんた、どっから来た? どこへ行くんだ? だれといっしょなんだ?」

 私はなんとこたえていいかわからず、あわてた。しばらく考え、つぎのようにこたえた。

「われわれは僧侶の一行なのですが、途中で強盗にあってしまい、散り散りになり、私はひとりでここへ逃れてきたのです」。

 こんな作り話をしたのはわが生涯で唯一のことだった。しかしその話が同情を引き起こし、商人の首領らしきペンデキャブ(Bande skyabs)という老人は私にあわれみを感じるようだった。

 しばらくして彼らは荷物を家畜に載せ、出発の準備を整えた。こちらを見て、(首領は)言った。「よかったらいっしょに行きませんか?」。私は答えた。「足が痛くて、思うように歩けないのです」。

 すると彼らは何も載せていない多くのヤクから一頭を選び出し、木の鞍を置き、私を乗せた。しかし鞍の上部が摩滅し、股の当たってその痛さといったら、言語に絶するものがあった。そして叫んでしまった。「これでは行くことができません!」。すると首領は自分の衣服を脱ぎ、鞍の上にかけて座布団がわりにし、さらに縄を編んで鐙(あぶみ)代わりにした。こうしてヤクに乗ると、きわめて快適だった。

 道中、私なりにヤクの群れを追いやるのを手伝った。しかしその様子を見てさぞおかしかったのだろう、彼らは言った。「このおかたはいったいどこで(そんなやりかたで)暮らしをたてていたのかい」。私自身、おかしくもあり、哀れでもあった。彼らに私のほうからなにかをしゃべることはほとんどなかった。もししゃべったとしても(言語が違うので)彼らは理解できなかっただろう。

 ほかの商人の旅隊にもよく出会った。彼らのなかには私を見て(立派な僧衣を着ているので)奇異に思う者もいた。そこで私は仲間に「もし僧侶と出会ったら衣服を交換したい」と伝えた。のち、商人のグループといっしょに旅をしているひとりの黄色い袈裟を着た僧侶と出会った。さっそく私は尋ねた。「貴下の僧服と私の僧服を替えていただけないでしょうか」。彼はなかなか信じようとしなかったが、私が先に脱いで渡すと、彼は喜びにあふれながら、自分の袈裟を渡した。この光景を見て、居合わせた人はみな口をあんぐりとあけて驚くばかりだった。

 他人の木椀や衣服の汚れがついたのか、その後私の顔はむくんだのだが、それも時間がたつとおさまった。

 さらに進むと、道は南路と北路に分かれていた。南路が望ましいが、黄河が氷結していなければ渡れないので、彼らは躊躇し、私に占いをするよう頼んだ。占いの結果は氷結。そのコースをたどると、実際黄河は氷結していた。それ以来彼らは私に一目置くようになったのである。

 アリク地方に着き、ペンデキャブ老人は私にたいし礼を尽くした。老妻もまたあたたかくもてなしてくれた。慰留されつづけるうち、私はここに二ヶ月余りも滞在することになったのである。私は彼らに「八千頌」を詠み、業の道を教えた。敬虔な信徒になった彼らに、私のことを口外しないようにお願いした。

 私は黄色い僧衣を彼らに贈ることにし、人々のために法事を行い、腰帯のひもをほどいて吉祥の糸とし、それを彼らに贈った。老妻は靴や衣、その他さまざまなものを私に渡そうとしたが、お茶やバター、チーズのみ受け取った。

 出発する時は、すべての人が悲しく思った。ペンデキャブ老人とその子息がほぼ一日分の行程を共にし、見送ってくれた。彼らに祝福を与えたあと、私の旅はまたはじまった。はじめ私は乞食に扮していたが、ペンデキャブ老人の家族以上の施主は現れなかった。

 アシュル部落ランガン村(A shul gyi sde blang sgang)というところに着いた。ここでひとりの人と旅の友となり、数日一緒に歩き、ボン教の寺に着いた。彼と別れたあとドゥクパ派の寺に至った。ここで僧侶らによってお茶がふるまわれていたので、私もいただいた。そのとき年老いた僧が近づき、「昨夜私は夢を見ました。夢の中で啓示を受けたのです。遊行僧がやってくるのでよく供奉するようにということだったのだが、それはそなたのことであろうか」と言う。

 老僧は敬意を表しながら、自分はスル・チューイン・ランド(Zur chos dbyings rang grol)の弟子であると告げた。私に金の貨幣と白銀を贈ろうとしたが私は断り、鉄の鍋と茶、油、ザンパなどだけをもらった。老僧は私を見送りながら、いつまでも名残惜しそうだった。