グル・リンポチェの修行窟ですごす

 少年が示したとおりに進むとヤクの毛を編んで作った大きな天幕があった。その前にはたくさんの家畜やロバがいた。そこからひとりの老人が出てきたので、「私は疱瘡を患う者ですが、もし禁忌がなければ、施しをいただけないでしょうか」と言った。老人は答えた。「我々に禁忌はありませぬ。どうぞこちらへいらっしゃい」となかへ導き、お茶を出してくれた。私はお茶を飲み干したとたん、気を失い、目が覚めたのはずっとあとのことだった。この家の老夫婦や家族は私の様子を見て不憫に思い、涙を流した。

 ここに二日ほどとどまり、彼らに霊験ある修行窟について尋ねた。老人は言う。「この山の上にたしかに霊験窟という岩窟があります。上のほうの霊験窟は、むかしオゲン・リンポチェ(蓮華大師)が修行されたということです」。私が老人に名を尋ねると、カチュキャブ(Ka chu skyab)と答えた。

 カチュキャブに連れられて霊験窟に行き、夜はそこに泊まった。洞窟のなかは手足の跡や古い仏像がたくさんあった。老人は家に帰っていったが、翌日老人の子がヤクに寝具などを載せてやってきた。お茶などを沸かし、帰っていった。いままでの苦難とくらべるなら、洞窟は十分すぎるほど心地よかった。老人が提供する食べ物もとてもおいしかった。

 ふたつの洞窟には交互に泊まり、修行した。ある日、道で出会った少年がやってきて、言った。

「ここに一年、いてください。すくなくとも何ヶ月かは。必要なものはすべて整えますから」。

 私は洞窟に三ヶ月ほど滞在し、修行はより進んだ。それから老人の家にもどり、因果や仏法について講話をし、帰依することの意義を説いた。彼らは信心深く、私に謝礼金を渡そうとしたが、断り、食べ物だけをもらった。そして一日ほどの行程をともにした老人に見送られ、ツァコ(Tsha kho)のほうへと向かった。

 

タルツェンドから漢地の峨眉山へ行く

 二十日ほど歩き、農家や牧民の集落を過ぎ、ツァコ村に着いた。そこに三日滞在し、ツァコ寺に到着した。この寺はわが師の弟子チュージェ・ンガクワン・ダクパの開いた寺院であり、当然ゲルク派に属する。ここに来られたことはとてもうれしいことだった。本殿にはジグチェ(大威徳)像や護法神像、ンガクワン・ダクパ像などがあり、それらに祈りを捧げたあと、十日以上滞在した。

 そのあとサカ(Sa dkar)を経て、タルツェンド(Dar rtse mdo)に着いた。ここはチベットから来た商人でごった返していた。彼らと親しくなっていっしょにチベットへ入れればいいのではと私は考えた。そんなおりペンワル(dPal ’bar)という旅客と出会った。いろいろと聖地について話すなかで、彼は峨眉山の美しさ、貴さについて滔々としゃべった。彼はそこへ行ったことがあるだけでなく、道も熟知していた。私は峨眉山に巡礼したかったが、漢語をまったく知らなかった。するとペンワルはそこまで同行しようと提案したのである。願ったりの私は彼とともにタルツェンドを出発し、大きな川にかかった石橋を渡り、漢人の多い地域に出た。さらに進むと断崖絶壁の上を木で組んだ桟道があり、竹篭を背負った商人が行き来していた。篭の中には茶葉や陶器が入っていた。

 行くこと十日、峨眉山の麓の町に着いた。そこに漢人の寺院があり、夜はその宿坊に泊まった。ペンワルに通訳を頼み、漢人和尚と話をすることができた。和尚が言うには、寺観や殿宇はたくさんあり、泉もまた無数にあるという。山は日月に達するほど巍巍とそびえ、功徳があるという。

 その夜、私の同伴者は突然行方をくらました。翌日探しても見当たらないので、ひとりで山を登ることにした。峨眉山の頂上に着くと新しくてきれいな僧衣をまとった漢人僧に出会い、彼と殿宇や聖泉を巡り歩いた。結局十日ほどそこにいたが、漢人僧のおかげで飲食に事欠くこともなかった。