カムで無頭人と会う

 峨眉山をあとにし、私はひとりでチベットへ向かった。ゆっくりと歩き、リタン(Li thang理塘)寺に着いた。ここに長期間滞在したかったが、トルコハル・ゴマン・ラスル(Thor kohar sgo mang bla zur)が寺主を務めていたので、わずか三日の逗留で去ることになった。

 さらに旅をつづけ、一軒の家に立ち寄った。この家には頭のない人がいた。彼の妻に事の顛末を聞くと、こう答えた。

「首にリンパ腺の病気ができ、ひどくなって頭が落ちてしまったのです。でもそれから三年もたつというのに、こうして生きています」。

 憐憫の情を抱き、その様子を見ると、彼は手で胸を、ばしばしと叩き始めた。

「いったいどうしたんですか」。

「おなかがへったということです」。

 彼の喉には穴がふたつあいていて、そこへ瓶を傾け、ツァンパをこねたどろどろしたものを注ぐと、管が閉じたり開いたりして、空気が出てきて、泡を噴出するのだった。しばらくするとザンパは胃に落ちたようだった。

 「有情なる者のカルマはなんと不可思議であろうか」と嘆息せずにはいられなかった。業の真理を私は悟ったような気がした。経典にもあるように捨身をして彼岸に達した者は諸仏のごとく涅槃の境地を得て、千回も自己の頭部を捧げるであろう。また、人の頭部は各器官のうちでもっとも尊いという。首を切ったら、どうやって復活できるだろうか。しかしこうした説法はもともとたとえ話にすぎない。とはいえ有情のありさまは種々さまざまであり、ありえそうもないようなことが起こるのもカルマというものである。

天然痘で壊滅状態の村

 リタンからパタン(’Ba’ thang)へ行く途中、道から離れたところに村が見えた。これも何かの縁だと思い、村に入ったが、だれもいず、しんと静まり返っていた。一軒の家の中に入ると、十二歳くらいの女の子と九歳くらいの男の子がいたが、ふたりとも疱瘡を病んでいた。母親は天然痘にかかって死んだらしく、ミイラ化して、囲炉裏の前に横たわっていた。この凄惨な光景を目にして悲嘆の情をかぎりなく覚え、おかゆを煮て、子供たちに食べさせようとした。昏睡状態にあった子供たちに、次第に意識がもどってきた。また死んだ母親を弔うため、回向祈願の経を唱えた。遺体の腐乱は激しく、悪臭を放っていたが、気持ちを奮い起こして、袋詰めにした。それを背負い、重いのに耐えながら、遠く離れた谷間に持っていった。

 このあと子供たちの様子を見るため、何日かとどまった。ある日、子供たちの叔父という人がやってきたので、子供たちを預けた。そのまま出発しようとすると彼らは「見捨てないで!」と泣き叫んだ。去りがたかったが、食べ物をすべて与え、数日ののち、夜の間に去った。 

呪術師、そして強盗に遭遇する

 土の牛の四月、ようやくカマル(Ka ma ru)に達すると、黒帽の呪術師(ンガッパ)に出会った。手には人の脛で作った笛を持っていた。

「これはこれは、お待ちしてましたぞ。こんな寒いところへようこそ!」。

 私は「この人はだれだろう。どうして私のことを知っているのだろうか」といぶかしく思いながらも、呪術師のあとを歩いて、山の上の洞窟に行った。洞窟は広く、なかには供え物がたくさんあった。彼が笛を吹くと、瞬く間に近辺のきらびやかな衣装をまとった遊牧民たちが集まってきて、法会をひらいた。散会したあと、呪術師は私を送り出し、またもといた場所に戻っていった。

 シャルガン・ラ(Shar gangs la)とヌプガン・ラ(Nub gangs la)のあいだで四人の屈強な強盗に出会った。私は高価なものはなにももっていなかったが、ザンパや茶葉を強奪されてしまった。チベットの入り口にさしかかる前に、もうこんなひどい目にあってしまったのである。