正体を見破られる

 翌日の正午、カツェ寺の高僧が訪ねてきた。この僧の首の後ろには瘤があり、面識があった。マニ車をまわしながらやってきて、私に問いただそうとする。私はすでにカム方言をしゃべれるようになっていたので、「私はカムからやって来た巡礼者です」とカム訛りで言ったが、僧は私の顔をしげしげと眺め、私の服の襟をつかんで、おおっと声をあげたと思ったら、嗚咽をあげて泣き始めた。

 私は言った。「やめてください。私はカムから来た一介の巡礼者にすぎません。だれかと勘違いをしているのではないでしょうか」。

 しかしその声が彼に確信をもたらしたのか、「私にはわかっております!」と叫んだまま、足もとにひれ伏すのだった。彼はあとでほかの人には秘密にしておくことを約束した。私はこうしてここに一ヶ月以上も滞在することになった。高僧は私のためにさまざまなことを取り計らい、気遣ってくれた。例の水瓶の老僧もまたやって来て、失礼を詫びた。

母猿は幼なじみの化身だった

 ある日高僧の招きで部屋を訪ねたとき、なかに一匹の母猿がいた。私を見ると歓喜の様子を見せたかと思えば、悲哀の声を発した。それによってこの母猿が故郷の女性チュードン(Chos sgron)であることがわかった。

 幼年時代、まだ父母と暮らしていた頃、私の家は村の北のはずれにあった。ある日、何人かの子供といっしょに遊んでいると、そこへチュードンがやって来た。彼女は私の首にかかっていたパンチェン・ラマに頂いた吉祥の印(糸)をつかみ、大きな平らな岩まで私をひきずっていき、放り投げ、なぐりつけてきた。私は裸だったので、岩の上にわが胸や背中のあとが付いたほどである。彼女に後悔の様子は微塵もなく、結果的に菩薩を殴打したことにもなるので、こうして畜生に生まれ変わることになったのである。

 その後私はチュードンのために功徳を積んでよき転生を願い、またカツェ寺の高僧に母猿が死んだら護摩の儀礼(sbyin sreg)を行なうよう頼んだ。

 

ラサに戻る

 カツェ寺を出て、旅を続け、ようやくラサにたどりつき、セラ寺やデプン寺を巡礼した。セラの山の上にあるリド(Ri grod)で修行しているとき、ゲレク・ギャンツォ師が訪ねてきた。師は傷つき、悲しんでいる様子に見えた。私は師に暗室に閉じこもり、穴からのみ必要なものが渡される状況を作ってくれるよう頼んだ。たとえソプン(寺の飲食に関わる僧)でさえ、私のことはひた隠しに隠さねばならなかった。

 この大師ツォンカパがいた所に滞在し、また宿縁あさからぬ師とともに修行に励むのもなにかの縁であろう。ここには結局一ヶ月以上滞在することになった。当時私は気(血液)が逆流する病気にかかっていたが、ゲレク・ギャンツォ師の教えにしたがい上師ヨーガ法を修めた。瞑想しこの経を唱えるならば、病がよくなるだけでなく、悟りを開くことにもつながるのである。そのほかさまざまな教えを賜ったが、ダライラマ五世の「文殊次第輪」もまた拝聴できた。何日も引き止められたといえ、師が高齢であることを考慮し、また訪れるさまざまな人が私との関係を阻もうとするので、ここを離れることにした。師とは心置きなく存分に話をし、また戻ってくるつもりで、ガンデン寺をめざした。

 ガンデン寺の下の村のザンド・ポパ(gTsang mdog spo pa)という人びとから尊敬されている人の家を借りて、しばらく滞在した。日々近隣を回って托鉢した。

 ある日ガンデン寺の金身像を礼拝しに行ったが、寺の管理僧に邪魔をされた。ツォンカパ像を礼拝することもできないとはなんと自分の力のないことか、と私は嘆かわしく思った。無限の嫌悪感が生じ、正門の前で涙を流していると、突然閻魔護法の境地にいることに気がついた。見ていると、いましがた私の邪魔をした僧が銅の壺をもち、水を撒き、さらに梯子を登ろうとしたとき、滑って落下し、顔の皮がこすれてむけてしまった。その僧をいっそう怒らせたかと思い、私もあわててしまい、転んでしまった。

 その後、多くの参拝者に混じってようやく金身像を拝むことができた。そしてツォンカパが修行をした場所へ行きたいと思うようになり、ダクソク寺を訪ねた。その寺の住職はうすうす私の正体に気づき、私を部屋に招き、梯子を取って暗室に篭る修行を許してくれた。罪を悔い、清め、また座して瞑想するなどの修行を一年以上行なった。この期間中飲食はザンド・ポパが運んでくれた。修行の間ほかの世話をしてくれたのは寺の住職とゲロン・ングー・ドゥプ(dGe slong dngos grub)という僧だった。