インド巡礼

 水の蛇の年(1713年)のサカダワの日(釈迦の誕生日の四月十五日)、われらは聖なる霊鷲山に到着した。ここは釈尊が般若経を述べられたところである。インド、ネパール、そしてチベットからのさまざまな巡礼者でごった返していた。見るに、霊鷲山は普通の岩石でできているのではなく、(チベット文字の手本となった古代文字である)ランツァ文字の経典でできているのだという。山頂には釈尊の玉座があるのだが、聖典を踏んでしまうことになるので、参拝のため登攀するのはあきらめた。しかしほかの人を見ると、そんなことおかまいなく、経典を踏んで玉座に行き、礼拝しているのだった。私はただひとり山の麓にとどまり、仏の身口意などの功徳について瞑想し、また賛歌をうたって自己の気持ちをあらわした。

 このあとロギャはほかの経験豊かな人々と別の聖地へ向けて出発した。私はひとりで旅をつづけ、プラハリ(Pu la ha ri)寺院に着いた。普通の人なら七日かかるところを、修練の成果か、わずか一日で達することができた。到着時、寺院には五百名ものパンディタが集まっていた。私は数量の金を捧げ、斎戒のお茶をいただいた。すべての室が巡礼者で埋まっていたが、住持の僧坊の一室を借りることができ、そこで約六ヶ月、「大楽鈴五尊法」を修行実践したのである。日夜努力を怠らず、さまざまな悟りを得ることができた。これだけは言っておきたいが、インドには釈尊が加持を施した聖地がたくさんある。チベットで一年かかるような修行の成果も、プラハリ寺院にいれば一日で達成されるだろう。

宝の象

 某月八日、見晴るかすかぎりクシャ草が茂る荒野を虫のごとく小さな存在である私はひとりで進んだ。遠くに雪山が見え、それが滑るように動いていた。私は俗に言う「雪山でさえ滑り行く」とはこのことではないかと思った。しかし近づくとそれは動物だった。大きな象である。全身白く、口からは六本の牙がはえ、妙なる美しさを放ち、香りが立ちのぼっていた。背中からは五色の光が輝いていた。象は鼻でクシャ草を巻き上げ、食べては進み、こちらに近づいてきた。これぞ仏典中に釈尊が福徳を成したと述べられた宝の象ではなかろうか。釈尊の功徳について思いをめぐらし、厭離の心が芽生えてきた。涙があふれ、礼拝し、象を長い間つくづくと眺めた。また象のまわりを回って、仔細に眺めた。一周すると、象は巨大な糞を落とし、悠然と去っていった。

 このあと私はチベットの方向へ帰路を取った。何日か歩くと大きな都市に着いた。その頃にはインドの言葉もできるようになっていたので、きれいな服を着ていて、物腰も立派な老婦人に象に会ったことを話した。彼女が言うには、

「八十、九十歳の老人たちによれば大象は百年に一度しかインドに現れないとのこと。そんな象にお会いになったのは何という福縁でしょうか。私たちだって聞いたことはあるものの、じかに見たことなどありません。この象は釈尊が俗にあらせられた頃、国家七宝のひとつ、白象宝だったのです。スカ・ヘヘ・アナンダ・へ!」。 

ロギャとの再会、そしてチベットのタクポへ

 またさらに何ヶ月も旅をつづけ、ある大きな村でロギャや巡礼仲間と再会した。いっしょにネパールへ戻り、そこで篭りの修行をし、安楽の境地を得た。修行をしている間もコンポから来たロギャは甲斐甲斐しく仕え、働いてくれた。いまも健在であるならどんなにかいいだろうか。

 木の馬の年、ニェラム、デングリなどを経て、わが生誕地モンユルをかすめるようにして、コンポ地区を通り、タクポ・タツァン寺(Dwags po grwa tshang)にたどりついた。そのあたりでは私は隠密行動を取っていた。私は当時タクポ・シャプドゥン(Dwgags po zhabs drung)あるいはタクポ・ラマと呼ばれていた。

 タクポ・オル川下流で沐浴し、ヤルルン・ツァンポ川に至った。岸辺のチャムナク(Cham nag)地方の大きな岩の上には尊者の全身の跡がついた。