ググ(王妃)、一転して尊者の信者に

 前述のググは、しかし尊者にたいし冷淡な態度を取った。ある日、尊者が結伽趺座していると、ググは宦官や奴婢女(はしため)ら多数を引き連れてやってきて、床に座布団を七枚重ね、その上に座り、居丈高に言った。

「大ラマってあんたのことかしら。みんなこの大ラマはすごいっていうんだけど、この目で見ないとわかんないからね。もしわたしの前で神通力とやらを見せてくれたら、あんたを師として崇めることにするわ。つまり、もしたいしたことなかったら、そのへんの大通りにいる行脚僧となんら変わらないってこと」。

 と言いおわると、ググはキセルを取り出し、すぱすぱと吸っては、尊者のほうに流し目を送るのだった。

 しかし尊者はなにも語らず、両目を閉じたまま、読経をつづけた。そのとき逗留していた僧がやってきて長い柄の先からお茶を磁器の茶碗に注ぎ、尊者に渡した。尊者は磁器の茶碗をまるで泥でもこねるようにこね、卵ほどの大きさの円球にしたてた。それを、ぽーん、と抛ると、球は天幕の天井の真ん中にあいた穴から外に飛んでいき、しばらくすると落ちてきて、尊者の掌におさまった。その茶碗は元通りの茶碗で、お茶をなみなみとたたえていたのである。それを見ていた人々は口をあんぐりあけて、ただ驚くしかなかった。

 仏典にも言うように、「凡夫は神通力を目の当たりにすると、即座に折伏される」のである。ググは座布団から転げるようにやってきて尊者の前で平伏し、えんえんと泣いたり、漢族式の叩頭をしたりした。彼女は身につけていたすべての装飾品をとって尊者に差し出した。

 しかし尊者は「私のような一介の行脚僧に装飾品がなんの役に立ちましょう。一国の王妃の装飾品とすれば、なおいただくわけにはいきませぬ」と断った。しかし執拗に迫り、また信仰心の表れだと言うので、尊者は受け取ることにした。そのぶん王や王妃、地元の僧侶たちの要請に応じて約二ヶ月、数々の仏教行事や儀礼を執り行った。

 ググはこのときより敬虔深い女性になった。自分の髪の毛をあつめて頭頂に髻をつくり、それにいろいろな宝石をはめた。それでもすこし髪の毛が足りなかったので、自分の髪をばっさりと切って加え、天神の髻とおなじになり、(仏像の)五仏冠と似た髪形になった。上下の衣服もきれいで、一部には狢(むじな)の毛皮を使った。香木から扇を、緞子から布団を作った。枕もまた何種類か作り、花模様の刺繍が編まれた。銀の器、四季折々の服装、銀数千両の数珠、金銀緞子、狢の毛皮でできた帽子や靴などすべてを尊者に献じた。 

尊者の聖なる徴

 これまで書いてきたようにすべて縁のある人びとはこれらのことを目撃してきた。つぎに尊者の風貌について説明すべきだろう。背は高からず、低からずだが、市中の混雑のなかにあったとしても、貴族のあいだにあったとしても、その風采は群を抜いていて、気高く、衣装もだれよりも美しく、立派で、会う前は傲慢にばかにしていても、会うとそのすばらしさに驚き、圧倒され、恐れおののき、本人の前でただひれ伏して五体投地し、涙を流し、祈ることになるのである。

 尊者の顔はたいへん美しく、歯は白く、唇は紅、そして体全体から光を放っている。齢六十といえども、三十歳にしか見えず、面影からも長寿であることが察せられる。頭髪もつやがよく、(釈尊のように)縮んでいる。毎月一回髪を剃り、ときには数ヶ月剃らないこともあるが、それでも髪は生えない。手は膝より長く、掌は真ん中が赤く潤んでいて、手足の指の間には隙間がない。関節は(ないかのごとく)見えず、歯は貝のようで合計四十の歯が揃い、下の右の門歯は先端が折れ、トルコ石のように緑碧色。尊者は説明する。「幼い頃、モンラム(大願法会)がありました。ある日チャム(宗教仮面劇)を踊っていたところ、屋根から地面に落下し、石板に顔を打ちつけ、歯を折ってしまったのです。そのときはあごが腫れ、痛さといったらたいへんなものでしたが、三宝に祈ったところ翌朝には腫れがひき、治っていたのです。いまも一本歯が欠けているでしょうか」。歯がないと人に笑われるのではないかと思い、いつも口元が人に見られないように気をつけているという。また尊者の目はくりくりとしていて、よく見ると瞳には虹が輝いている。ふたつの耳は垂れ、孔が開いている。鼻は高く、唇の形はほどよく、人が見れば尊敬の念を抱かずにいられないが、恐れ多くて見ることなどできない。顔には疱瘡のあとがあるが、ほとんどわからない。年をとっても、(老人に見られるような)青筋が立つということもない。腰は軽やかで、老人にありがちな海老のような動作もない。左手の掌には目の紋様があり、右手の食指はやや曲がって金剛手菩薩が現れているように見える。目や髭、髪などが見えるのだ。薬指の先の右側にはオーン・アー・フーンの字があり、その指を用いれば効験あらたかである。薬で体を燻したり、沐浴したりし、気を使って男根を腹の中に縮小して入れ、裸で金剛趺座を組み、諸手は導引術を行なう。

 持戒のための香気は濃厚で、尊者の使う寝具や数取り、箸などにも香気がついている。尊者は言う。「もし乞食のなかに混じってもこの香気があればすぐわかってしまうだろう」。毎回食事でニンニクやニラを食べても、口臭はまったくしない。吐く息はむしろ香料のようである。吸う息もまた煙や神に供えるお香のよう。このようにさまざまな功徳があり、あらゆる人に不可思議な情をもたらすのである。

 尊者の本性は慈悲の心である。他人の死、病、苦、目に見たもの、耳に聞こえたものすべてに対し忍びがたく思い、涙を流し、災いを除こうとして祈祷する。これは生半可なものではない。尊者は他人の益になることを考え、おのれは苦難を受け入れ、自分の生命さえなげうってもいいと考える。こういったことは枚挙にいとまがない。また遠近、明暗に関係なく、すべてのことに通じ、人の心をよく理解し、遠くのひそひそ話さえ聞き分けることができる。

 尊者の手足の跡は岩の上にとどめられた、あたかも泥の上に印をつけるように。そういった神通力はかぎりないほどあった。その悟りの智慧は高山より高く、勇士空行(dpa’ bo mkha’ ’gro)であるインドの八十の成就者、チベットのミラレパ尊者と同様、俗世間を離れ修練に集中する。後日私(著者)の地域に戻って来られたとき、数ヶ月の間、あちらこちらの施主の要望にお答えになった。