阿拉善やセルコ寺での修行

 犬の年(1718年)の春、格格とともにアルシャーへ帰り、我が家にとどまること二年。

 鼠の年(1720年)の五月、随行の者数人を連れてセルコ寺へ。チュサン活仏を頭として各寺院でこのうえなく盛大に法会を催した。本堂で行なわれたもっとも大きな法会に呼ばれた尊者は、チュサン活仏(Chu bzang Rin po che)に「冠を忘れてしまいました」とおっしゃった。そこで活仏が先の尖った法冠を差し上げると、たまたま出席していた檀越がお茶を施し、回向の法会を営むようお願いした。デシのための六波羅密(パラミーター)の回向を営んだとき、尊者の発声する声は妙にして美しく、聞いて涙を流さない者はなく、厭離、篤信の心を生じさせた。また法縁(chos ’brel)を結ぶことを請われ、尊者は「道次第精義」を教授した。僧らはみな、尊者の容貌、体、ことば、声、どれをとっても尊く、功徳があり、こんな辺鄙な場所にお越しになったのは、このうえない福であると、誉めそやした。これよりのち全寺院の活仏、僧侶らが尊者に仕えることになった。チュサン活仏やメー・ドゥプ・チェン・ツァン大師ら高僧は尊者に教えを請うとともに、互いに学びあった。こうした篤信、敬虔の上に培われた関係は、金剛の血縁ともいうべきものである。尊者が金剛座にあって回した法輪は、永遠に止むことがないだろう。

 北へお戻りになる頃、チュサン活仏は尊者に来年もまた来られるよう嘆願した。当時、尊者から金剛密教を学び、筆頭弟子と目されていたのはシャル・ロサン・パンデン(Zhva lu blo bzang dpal ldan)だった。ミラレパ尊者と弟子レチュンパの関係にも匹敵するような師弟関係があった。

 その頃セルコ寺に観音菩薩の像があり、その効験あらたかなことはよく知られていた。ある日尊者が仏像を沐浴させていると、突然汗をかきはじめ、震え始めた。チュサン活仏がいったい何が起こったのかと尋ねると、尊者は「疲れすぎているように見えます」と答えた。僧らはいぶかしく思い、とまどったが、尊者は兔の年(1723年)に起こる(ロサン・テンジンの)反乱について思いをめぐらしていたのだった。

 冬のはじめ、アルシャーに戻り、以前とおなじような活動を再開した。当時カルカとオルドスにおいて尊者の名は轟き、礼拝に訪れる人は日増しに増えていった。

 翌年、すなわち牛の年、シャプドゥンはふたたびセルコ寺にもどってきた。護法(オラクル)や随行を前列に並べ、寺院の僧侶全員が整列して出迎えた。この熱烈な歓迎は以前とはずいぶん様変わりしていたが、尊者ご自身は気に留めていないふうだった。 

ジャクルン寺の座主となる

 その頃ジャクルン(Jag rung)寺はセルコ寺の子寺だったので、住持はセルコ寺によって選ばれていた。しかしジャクルン・ドゥンリ寺の長老は話し合い、セルコ寺の大ラマらのもとを訪ね、尊者を彼らのラマとして迎えたいと申し出た。チュサン活仏らは言った。

「この大師は並々ならぬおかた。あなたがたも尊者に直接打診していただきたい」。

 このあとチュサン活仏は直接尊者を訪ね、座主に就くよう頼んだ。ただし尊者は了承しなかった。ジャクルン寺の高僧らは再三お願いしたが、尊者は受諾しない。そんなとき尊者はジャクルン寺の大殿の幻影を見た。もともとここには絵師トゥルク・チューイン・ギャンツォ(sPrul sku chos dbyings rgya mtsho)が描いた護法マクソルマ(dMag zor ma)のタンカがあった。このタンカはタシルンポ寺から盗まれた聖物のひとつである。尊者は突然その画のなかの天女のもつ剣の柄にサソリが描かれ、そのサソリがさわさわと蠢くさまが見えた。それが気になって尊者はうわのそらといったふうで、「座主になるなんて造作もないことだ」と言ったあとで、「いま私は何と言った?」と問うた。人びとは「座主に就任されるとおこたえになりました」と声をそろえて言った。すると尊者は、「さて、殿上に天女の画があるが、何をもっているかご存知かな?」。

 自分たちが奉じる神像にさして注意を払わなかった僧たちはだれもこたえることができなかった。ほどなく口々に、「杖でしょう」と言うと、尊者は笑って「信仰している神像をよく見ていないから、そんないい加減なことを言ってしまうのだ。杖ではなく、サソリである。私はそのサソリの動きに魂を奪われ、口から思いもしない言葉が出てしまったのだ。しかしまあ、言ってしまったことはしかたない。みなさん、もうお戻りください。私は秋のはじめに寺のほうへ参りましょう」。それを聞いた僧らは小躍りして戻っていった。

 セルコ寺にしばらく滞在し、秋のはじめの七月三日、馬に乗ってジャクルン寺へ向かった。寺を離れて数日後、路上で出迎えを受けた。セルコ寺のラマを筆頭にダティ・ナンソ(Bra rti nang so)、ディゴン・ナンソ(’Bri gong nang so)、タンリンギ・ゴンガ活仏(Thang ring gi go nga sprul pa)ら六部および十三禅院の代表を含む千五百人もの騎馬兵僧が並んで迎えるという壮大なセレモニーだった。

 以前ナンソ・サンポ・ギャルツェン(Nang so bzang po rgyal mtshan)がダライラマ五世を出迎えしたことがあったが、そのときの特大天幕はアムドの至宝とよばれていた。このときもまた尊者を天幕のなかに招きいれ、みごとな食事をふるまった。

 ほとんどの人びとがアムド方言をしゃべったが、尊者に祝いのことばを贈った。

「ジャクルン寺六部十三禅院がすでにあった頃、ダライラマ五世は中原に向かった。そのときナンソ・サンポ・ギェルツェンは五世のために特大天幕を縫製したのである。仏宝(五世)は沼地が多いにもかかわらずこの地にお越しになり、仏法の教えを広められたことは人びとにとってまことに益になることだった。捧げられた礼物はいろいろとあったが、ナンソ・サンポ・ギャルツェンの三百匹の駿馬はことさら際立っていた。それらの馬はラクダほどに大きく、全身白色で耳だけが異なる色を擁していた。当時は漢族、モンゴル族、チベット族の間で不思議なことがたくさんあった。天幕のなかで法会を行なっていると、黄金の石が突然門前に現れた。なんという福であろうか。俗説にも言うように、櫂(オール)が疲れれば勺が得する、のである。チベット十三万戸が災難に遭っているとき、アムド地方では太陽が昇ろうとしていたのだ」。

 と、こんなふうに彼らの話はきりがない。

 尊者は言う、「たくさんしゃべれば、道は短いという。ただ私の言うことを聞いてください。聖であろうと俗であろうと、いろいろなことに力を貸してください。かならずみなさまをすばらしい場所にお連れするでしょう」。

 それから老いも若きも競馬や相撲に参加した。尊者は寺院のなかに案内された。

 十三日、座主として法座に登ると、空には虹が架かり、太鼓の音がこだまするなど、数々の瑞兆が見られた。アムド各地で議論が起こり、不思議なことがあとをたたなかった。当地の漢族の商人たちでさえ「天の太鼓が鳴り止まない、これぞ真の仏にちがいない」と賛嘆したほどである。

 尊者はすぐさま天女の画の前に駆け寄り、みなに向かって言った。「あなたがたは天女の手にあるのは棒だと言ったが、どこにありますか。宝剣の柄に描かれているのはサソリではありませんか」と言いながら、柄の長い茶碗で清茶を天女の口に注ぎ込むと、すべて入り、一滴も地面にこぼれなかった。この不思議な光景を見て人びとは恐れ入り、尊者の前で五体投地をして崇めた。

 チュク・ツィツァン(Pyug rtsi tshang)というラマがいた。かなりの高齢だが、功徳を兼ね備え、ジャンキャ活仏ンガワン・チューデン(lJang skya sku rgan pa ngag dbang chos ldan)の直弟子だった。尊者は彼を副規範師に任命した。