尊者の予知能力

 そして尊者は言った。「我々はこれからモンゴルへ向かう。将来またここに住むことになるかもしれないが、それについてはまた後日もういちど語ることになるだろう」。

 ここに冬の終わりまで滞在し、大規模な騎馬隊を組んで北へ向かう途中、ダガ地方(Brag ’gag)に着くと、尊者は手綱をひいて止まり、周囲を見回した。しばらくして尊者は口を開いた。

「後日ここに禅林を建てましょう。ラブラン(活仏の居室)や大殿、それに僧坊などを建てるのです」。

 随行の者たちは心の中で思った。「すでにお寺はあるというのにこれ以上なにが必要だというのだろうか。この地は特別すぐれているのだろうか」。

 そう思いつつも、口では「そうだ、そうだ」と賛成の声をあげた。当時はまだ尊者の予知能力が知られていなかったのだ。

 尊者はジャモ・カジュ(’Ja’ mo bka’ bju)にこう言ったことがある。

「来年大きな災難がやってくる。とくにそなたは、不運な目に遭ってしまうだろう。そのときには、私はあなたの目の前に現れるだろう。そのときまで祈祷することを忘れないように」。カジュは恭しくその言葉を頂戴した。

 このあとチュク・ツィツァンなどの長老に助けられてアルシャーに滞在した。

 兔の年(1723年)青海湖でテンジン王が血迷ったのか、(清の)大皇帝にたてつき、その反乱が原因でセルコ寺など大小の寺院が漢軍によって焼き払われてしまった。チュサン活仏ら高僧も災難に遭い、数多くの僧侶が殺された。ジャクルン寺にも害は及び、漢軍の襲撃を受けた。

 ジャモ・カジュは馬に乗って寺の裏山に逃げた。彼は馬の手綱を木にくくりつけ、崖から飛び降りて自害しようとした。するとそのとき尊者の声が耳の中で響き渡った。「ジャモ・カジュよ、逃げるのだ」。彼は驚いて四囲を見回したが、岩の上にカラスがとまっていて、カアカアと叫ぶと、飛び去っていった。彼は以前尊者が言ったことを思い出し、師がカラスに変じて現れたのだと思った。そして山から見下ろすと、大量の漢軍が押し寄せ、その砂塵は天地を覆わんばかりであった。彼は師の言葉にしたがい、猛然と逃げ、逃げおおせることができた。

 尊者とジャモ・カジュには因縁があった。チベットにいた頃、ジャモ・カジュはガンデン寺のネデン(gnas brtan)という霊塔を守護する役に就いていた。尊者がガンデン寺を訪れ祖師ツォンカパの金身霊塔に参拝したとき、幼い尊者を抱きあげ、霊塔に触れさせたのがこのジャモ・カジュだったのである。 

モンゴル・ハルハからの信書

 その年の夏、モンゴル・カルカ地方(Hal ha)に聖なる教えの灯がともった。ターラナータの化身ジェプズン・タムパ(rJe bdzun dam pa)がひとりのインド遊行僧を派遣し、贈り物とともに尊者あての信書を携えていたのだ。信書に書かれた内容とインド遊行僧の語る内容はほぼ一致していた。

「時今、余命短くなり、老いに耐え切れぬこの頃ですが、衆生に利するため愚鈍な身を鞭打っているところです。拙僧が生きながらえている間にも貴下に政治・宗教のことをお任せしたいと思う次第です。カルカ七部の首領とも話し合い、文殊大皇帝に尊者をカルカ全域の守護をなさるよう推挙いたしました。貴下に使者を差し向けますのにモンゴル人とも考えましたが、このあたりの人は信義に欠ける嫌いがあり、インド遊行僧に委託したのです」。

 尊者がジェプズン・タムパ大師と親密にしていた時からずいぶん時間がたつが、信書を受け取り、大師の気持ちが察せられた。大師の身に起こったこと、状況などを詳細に知るにつれ、涙を流さずにいられず、手を合わせて言った。

「大師のおっしゃることは大変意義深いものと感じます。しかし私自身幼い頃に故郷を離れ、政治や宗教をおろそかにしてきた者であり、浮き草のように天涯孤独、何にも縛られることなく、他人の法座を継承しただけのことなのです」。

 尊者はインドのことばができたので、周囲の人にわからないよう、インド語を使って遊行僧と長時間にわたって歓談した。そして書信をしたため、祝いの物とともに遊行僧に渡した。

 このことがあってからしばらくして、大師が円寂したことが伝えられた。尊者は非常に悲しみ、いつまでも涙を流し、哀悼の気持ちを持ち続けた。

 ほどなくアボ王は邸を離れ、我々の地方にやってきた。王は尊者に謁見し、言った。

「昨年私が都に行きましたとき、カルカ長寿王(Hal ha tshe chen wang)もまた宮城に来ていて、ふたりでぐずぐずと長滞在していたのですが、なにかの拍子にあちらの王女とこちらの太子、ゴンポ・キャブ(mGonpo skyabs)との間で婚姻の契りを交わしてはどうかということになったのです。今年はこの縁談をうまく進めるつもりですが、まず貴下に報告せねばと考えたのです。この長寿王は貴下のことを聞き、尊敬の念を強くもっています。王は何度もこちらに足を運びましたが、このたびは貴下がご来駕されたので、我々施主と福田(高僧)両者(yon mchod)の来駕を何が何でも望んでおられるでしょう。

 尊者はお答えになる。「このたびはいい機会だと思いますので、ジェプズン・タムパ大師の恩情に報いるためにも聖骨を祭りたいのです」。そして竜の年(1724年)の夏のはじめ、施主、福田ともカルカへ向けて出発した。大クレ(Khu re)に到着したとき、すべての人が町の外に出て出迎えた。尊者に対するもてなしの儀礼は盛大で、クレ寺に入ると数千人の僧侶が整列して迎えた。尊者はジェプズン・タムパの遺体に沐浴の礼を施し、千供養(stong mchod)や死者供養礼(gdung ’bul)などを行なった。

 尊者は大きな天幕に入ると、そこでは全僧侶が集まっていて、祈願法要が営まれた。もとセルコ寺のラブギャ・ウムツェ(Rab rgya dbu mdzad)がここでもウムツェ(経典を読み上げる係りの僧)を務めていた。この僧は尊者の弟子のなかでもすぐれた者であったが、(その美声によって)ジェプズン・タムパ師の霊がすみやかに送られると思うと、いっそう悲しみが増すのだった。ウムツェは尊者に会い、悲喜こもごもの複雑な心境だったが、雷鳴のような徹る声で『聖者遍主頌』(rgyal ba khyab bdag)をうたった。マンダラを捧げる儀礼のとき、彼の声が響き、マンダラ上に積もっていたものが落ちて画の真ん中にひっかかり、最後は尊者の手に落ちたが、これにも悲喜こもごもの感懐を抱いた。それから僧侶全体で『兜率百天経』(dga’ ldan lha brgya ma’i lung)を誦した。また尊者は僧らに摩頂をし、祝福を与えた。翌日、尊者はツェチェン(長寿)王の村へ行った。

 ツェチェン王の村に着くと、王やさまざまな家臣らの出迎えを受けた。尊者とアボ王は大きな神幕のなかに案内された。美味な食べ物がならべられ、盛大な宴会が行なわれた。尊者に対するもてなし、気の遣いようはすばらしいものだった。およそ一ヶ月の間滞在し、本尊の神像もいくつかはできあがり、請われれば法要も営んだ。施主らはおおいに喜び、信仰心をさらに深めた。

 この頃は衛将軍(Wu’i bjad rgyun)もバトル王(Ba thor wang)らも年少で、尊者の力を知らず、ただツェチェン王のみが彼らの今生や来世を守ってくださるようにと法要を挙げるよう求めたのである。尊者はできるかぎりの気遣いをし、悪いところは正し、仏事を営み善美を尽くした。檀越らは尊者に長寿永世(brtan bzhugs)の儀礼を献じた。