ダガ寺の建設

 尊者は無上の慈悲と忍耐の鎧を着て、衆生のための利益と神聖なる任務をもってダガ(Brag ’gag)地方に新しい寺院を建設しようとした。しかし竜の年(1724年)に起工したものの戦火の影響を避けられず、実際に竣工したのは羊の年(1727年)だった。

 ダガ河のこちら岸は清に属していたので、数百両もの銀貨を払って土地を購入せねばならなかった。本堂、ラプラン、僧坊などの土地の割り当てだけでなく、命名も尊者自らが行なった。まず各地に散っていた僧五百人のために適当な大きさの石房を建てたが、当時はサゴ(Sa sgo)の地方官が許可しなかった。今日建てたのに、あす破壊令が出され、あす石を積み上げれば、あさってには壊される、そんな具合だった。まさに「昼、お堂(lha khang)を建てたのに、夜壊す」「山の石を川に下ろす(ように当を得ない)」ということわざ通りだった。

 しばらくしてトゥルチェン砦(Thur chen mkhar)の仏教徒でない漢族の長官が任を一時的に離れ、信仰心の篤い漢族の官吏が代行として赴任してきた。尊者は良馬数頭と数ピン(dngul rdo tshad)の銀を官吏に贈り、その意義を説明した。しかしこの官吏は言った。

「私はおよそ三ヶ月ここにとどまります。その期間中に寺院建設が可能かどうかわかりません。期間が終われば長官がもどってくるでしょう。長官にはべつの任地へ移ってほしいものですが、いまはなんともいえません」。

 そこで大工を集めて建造に着手し、漢族、チベット族を問わず働いた。本殿にはとくに清朝皇帝の長寿を願って一階の高さの弥勒像を造り、その周囲には八部神将(Sras brgyad)や馬頭明王(rTa mgrin)、金剛手(Pyag rdor)など人の高さの神像を配置した。周囲の岩山を彫って絵を描き、美しくし、あらゆるものを置き、準備万端整った。そして開眼供養儀式を行なった。

 

清朝との軋轢、そして融和

 本殿が完成し、寺院と呼べるだけのものが完成したとき、漢族の長官が多くの兵士を連れてもどってきた。そして弥勒殿の瓦を全部落として壊してしまった。尊者はその様子を見てがっくりと膝をつき、長官の前で悲痛な声をあげながら、仏殿を壊さないよう嘆願した。

 すべての僧侶が嘆き悲しみ、口々に言った。「このような聖人がわざわざ北のはずれにお越しいただき、嘆願したというのに、(もし聞き入れられないとするなら)聖なる仏法や衆生を救おうとする責務はいったいどうなってしまうのだろうか」。

 漢族の長官はその日砦にもどったあと、突然体中の穴という穴から出血し、死んでしまった。人々はみな尊者の嘆願を聞かなかったからだろうと噂した。

 その頃清朝皇帝は詔勅を下し、年羹堯(Nian Gen Yao)総督によって壊されたすべての寺院を復旧する旨を伝えた。その勅にしたがって岳鐘h(Yue Zhong Qi)将軍はすべての伽藍を修築しはじめた。皇帝の慈悲によって、後期仏教の隆盛期のように仏法がふたたびさかんになったのである。チベット全域にその勢いは広がり、ジャクルン寺も禅院を修築することができた。

 犬の年、清軍がジュンガルへ攻め入るとき、岳将軍は尊者を招聘し、漢満の兵士のために読経するよう依頼した。数百名の騎兵が左右二列に並び、敵を殲滅することを誓い、雄叫びをあげた。儀式をはじめて七日、戦神(dgra lha)を呼び出し、敵に向かってトルマを投げた。将軍や兵士らは謝礼として尊者に銀など相当のものを贈った。

 このあと寺院の修築がはじまり、乾隆皇帝の八年には僧坊、霊塔、仏塔殿(’Bum khang)などすべてを修築することができた。また五千両の銀を費やしてカンジュル、テンジュルの大蔵経を得て、さらに七千両を費やして長い褥や宝蓋、のぼりなど必要なものをそろえた。これらの費用はすべて尊者が捻出した。

 また尊者をはじめとする二百五名の僧侶に度牒(出家証明書)が発行された。もともと古い寺があったとき、康煕帝が六十八名の僧に頂戴(冠位を示す帽子)を、二百五人の僧に俸給や糧食を賜っていたのだが、それが再開されることになった。尊者には銀三両、その他の僧には銀二両半が与えられた。また尊者にチンコー麦3ジャク(’jags アムド地方の重量単位)、ほかの僧には2ジャクが支給された。ちなみに当初寺院の建設者の名前がダクポ・ラマ(Dvags po bla ma)であったため、度牒に記された寺の名もダクポ寺だった。

 この尊者は衆生のために仏法を広め、文殊菩薩の化身(ツォンカパ)の教法を知らしめた。妙音大皇帝(’Jam dbyangs gong ma chen po)においては政教の国家統一、そして幸福の永続を、また漢・蒙・蔵すべての民の安楽を願ってここに大禅林を建てたのである。

 四季折々に法会が開かれたが、戒律などはタシゴマン(Bkra shis sgo mang ラプラン寺のこと)の戒律に基づいた。密教に関しては密教院(rGyud smad)、歌舞・蔵戯などはチューコル・ギェル寺(Chos ’khor rgyal)に倣った。以上の規定のほか、仏法の根本的なもの、戒律に関するものなど詳細にわたって決められた。のち私がチベットに派遣され、尊者からの封書と贈り物をパンチェン・ラマ・ロサン・イェシェに手渡した。パンチェン・ラマから法の制定をして頂き、封書と礼品を賜り、帰途に就いた。

 まとめて言えば、ジャクルン・トゥサム・タルギェ・リン(Jag rung thos bsam dar rgyas gling)の建設は雍正五年、羊の年にはじまり、乾隆八年、猪の年に完成した。

 ある年、スミトゥ(Su mi thu)という地方から、古代中原で鋳造された普陀観音像をもらいうけたが、人よりも大きいだけでなく、かなり重く、たくさんの人手で運ぼうとしたが、動かなかった。それを聞いた尊者が何人かを派遣すると、突然神像は軽くなった。ラクダにひょいと載せ、そのまま寺にもどってきたのだった。尊者はその像の錆びなどを除いて、詰め物をして、ジャクルン寺の主尊として本殿に据えた。今に至るまでその像は光彩を放ち、絢爛としていて、さまざまな予兆を示し、なみなみならぬ加持の力を有するのだ。

 二年、すなわち竜の年、皇帝は詔勅を発し、王を頭としてアルシャーの人びとが青海へ移住するよう命じた。そのとき尊者はしばらくポロチュガ(Po ro chu ’gag)に滞在した。アジェネル(A je ner)に移動したあと、九年、また皇帝の詔勅が発せられ、アルシャーにもどることになった。当時尊者はシャル(Shar)に長くいたが、タイトゥ(Ta’i thod)、トゥク(’Bru gu)、ギャンリン(Gyang ring)、キャブツェ(rKyab tshe)、セムニ(Sem nyi)、ギャヤ(rGyag yag)、オルツォ(Or tsho)、シャマル(Zhva dmar)、ギャトニ(rGya ldog gnyis)、ホル(Hor dgon pa)、ケンチェン(bKan chen)、ディグン(’Bri gung)の十三の寺院のケンポ(座主)を兼任していた。マヤン寺(Mah yang dgon pa)に関して言えば、パサ・チュージェ・ンガクワン・ルンドゥプ(Ba za chos rje ngag dbang lhun grub)逝去後、私が寺院の修築を担当した。