疑いの目で見た大ラマ、尊者の力に平伏する

 尊者がタイトゥ寺へ赴いたときのいきさつはつぎのごとくだった。

 尊者はセルツ(Ser tshud)の家族の招聘を受けた。このことがタイトゥ寺の大ラマ・ロウキャ・シャブドゥン(Lo’u kya zhabs drung)の耳に入った。当時、大ラマは尊者の名声を聞き及んでいたが、疑いをもっていた。親戚や土司、僧侶らに向かってこう言った。

「聞くところによると、明日、あのダプ・ラマがチベット人の施主の求めに応じてこちらにやってくるという。あの大師はじつはツァンヤン・ギャツォだという噂が飛び交っているが、だれが信じることができるだろう。私は以前チベットにいた頃、長く法王の御前にお仕え申した。特別な贈り物を賜ったこともある。だからこの方がツァンヤン・ギャツォとは思えないのだ。万一そうであったら、見誤るはずがない。明日は私も施主に呼ばれておる。ぜひお目にかかりたい。もしツァンヤン・ギャツォでなかったら、とどまることもない、すぐ引き返そう。おまえたちも馬から下りる必要はない。もし本物だったら、すぐに儀式を開くとしよう」。

 翌日、尊者はいつものごとく呼ばれた村のほうへ向かう。大ラマは途中で出会うことを期待して、五十人余りの随行を連れて向かっていた。両者が出会う前、まだかなり距離はあったが、大ラマは尊者の顔を見た途端、馬から転げるようにして下りた。まるで大樹が倒れるように地面にうつぶせになり、慟哭しながら、五体投地をしていた。尊者は大ラマに近づき、声をかけた。

「そんなに悲しむ必要はありません。この雪の国チベットのすべての人との縁は尽きていたのです。これもまた私の業のなせる結果でしょう。ですから、悲しむものはなにもないのです。私のこのありさまも、調伏された生霊がしゃべっているのだと思えば、不可思議であり、すばらしいものではありませんか。どうか喜んでください!」。

 大ラマははっとして、我に帰り、落ち着いてカタを捧げ、摩頂を請うた。ほかの僧らもやってきて加持を願った。

 大ラマ・ロウキャ・シャブドゥンは戻ったあと親戚や土司、さまざまな寺院に向かって、「あのお方はダライラマ(rgyal dbang rin po che)にまちがいない」と喧伝して回った。またロウ・シペン(Lo’u shi ban)の人びとに向かって尊者を最上のラマとしてお迎えしようと再三にわたって提案した。このロウキャ・ラマは自らたくさんの随行を連れ、ジャクルン寺へ尊者を迎えに行ったほどである。尊者は慈悲の心で成り行きを見ていた。 

尊者、神通力で溺れる者を救う

 ゴンチェン(dGon chen)、ダクゴン(Brag dgon)、ドルジェ・チャングル・ゴン(rDo rje ’chang gur mgon)などに効験あらたかな神像があったので、尊者はそれらを巡礼してまわり、浴仏礼を行い、祈願法会(モンラム)を挙行した。またさまざまな寺院の僧侶とも謁見した。

 尊者がゴンチェン寺へ行ったとき、チベットの竜老人(Bod kyi klu rgan)と称する土司にションパハ寺(bShon pa ha)のお堂で接待された。土司は宴の席を設けたが、尊者は空中を見つめたまま、食膳に手をつける気配がないことに気がついた。土司は尋ねた。

「ラマ、そなたはなぜ食事に手をつけないで空中を眺めておられるのか。これらのものがお気に召さないのでしょうか」。

「いま私は忙しいのです」。

「なにもなさってないように見えますが」。

「たったいま餅売りの漢族の男がジュラ河(’Ju lag)を渡ろうとしたのですが、途中で流され、溺れそうになったのです。そこで私はその人を救おうと決めたのですが、思ったより時間がかかってしまいました。その漢族の男は助けてもらった感謝のしるしにと、篭の中の餅すべてを私に渡そうとしました。私が断ると、数枚渡そうとします。それも断ると、一枚、それも断ると半分に割ったものを差し出すので、私は根負けして半枚もらうことにしたのです」。

 と言って懐から半枚の餅を出して見せたのだった。半信半疑の土司はだれかを河のほうへ行かせた。はたして河には水に濡れてびしょびしょになった漢族の焼き餅売りがいた。なにが起こったか聞くと、内容は尊者の話と寸分かわらなかった。その男は連れられて室のなかを見回した。そして尊者を指差し、

「ああ、このお方でございます。河で溺れかかっているところを助けてくださったのです」。

 そう言って懐から出した餅は、尊者のもっている餅とぴったり符合したのである。こうして尊者にたいする信仰心は堅固なものとなった。そしてロウ・シペンのすべての人びとが施主となったのである。

 寺の中に立体マンダラ(blos bslangs)が三つあった。尊者は中央のマンダラの東門から入り、南門から出たかと思えば、南門から入って西門や北門から出た。ほかの人には頭を伸ばすこともできない(狭い)場所を、尊者は苦もなく通ることができるのだった。人々はこうして尊者を敬服した。