光の国  

ニコライ・レーリヒ(リョーリフ) 宮本神酒男編訳 

 

 天使、それは祝福された沈黙。いったいだれが燃え立つ天使の姿のなかに輝く謎を見て、心動かされないでいられるだろうか。いったいだれがこの待ちわびられた、しかし本当に来迎するとは思われないゲストの、すべてを射抜くメッセージに心染まらないでいられるだろうか。彼の沈黙は獲得された心の沈黙である。彼は永遠なる精神の美の守護者である。おお、永遠の沈黙の美と慈悲深い精神よ。彼は守護し、祝福する。

 いにしえのクリスチャンの書『鏡』は言う。「天使は形がない霊妙なものである。それは燃え立ち、炎に囲まれた者である」「彼を表現するのに言葉はいらない。彼の言葉を聞くのに耳はいらない。言葉もなく、聞くことがなくとも、天使たちは賢明にも、互いに意思を通じ合わせることができる」「夢のような衣を身にまとい、天使は人々の前にみずからの姿をあきらかにする」

 沈黙のなかで幻影はあきらかになった。半透明なものはすべて物体となった。大いなるゲストの像はまばゆく光り出した。唇を閉じたまま、両手を組み、彼は髪の毛一本一本から光線を発した。そして彼の目は底知れず、射抜くように輝いていた。

 熱狂的に輝く者は刷新された、祝福された世界のメッセージをもたらした。彼は神秘的なやりかたで祝福の印を定めた。あえて彼はけっして表現されないものを思い出した。夜も昼も、疲れることなく、彼は人間的な心を目覚めさせた。彼は精神の勝利を定めた。そしてすべての天使は彼らの心の言語でもってそれを認識し、受け入れた。

 ではだれが天使の姿を、この祝福された沈黙を具現化するのだろうか。この姿は北方の海から来ているという。しかしこのミステリーは、深夜の海でだけ知られているのではない。それはあきらかに、ヴェールをかぶった東方の使者の姿である。そこにはまた十字架のミステリーもあるだろう。ソフィア、すなわち全能の智慧の姿を創造したまさにその手と思考が沈黙の天使の姿をあきらかにする。炎はいまだ闘うソフィア、すなわち智慧の翼である。天使、すなわち祝福された沈黙の翼は、おなじ炎の翼である。エリアスのチャリオット(馬車)の馬も燃え立っている。それゆえ使徒たちによってあらかじめ定められた、燃え立つ洗礼も同様である。すべてのなかにおなじ炎があるだろう。全知全能の、すべてを立ち昇らせ、すべてを貫く火の神アグニよ。汝の前にあっては、われら人間世界は余計なものにすぎない。

 神の発動機から火花が出て空を赤く染める。火の花々は螺旋状に上昇し、空いっぱいに炎の枝葉を出した樹木のような形をとってまばゆく輝く。思考のロゴスはプラーナ(気息)を強める。威圧的な雷の輝きの前に、人は縮こまってぶるぶる震えるだけだ。クンダリーニの炎が火をつける。エゼキエルの車輪が回転する。インドのチャクラが回りだす。禁欲で厳かなのはカピラの眼である。エジプトの高位の祭司が宣言する、「Sekhem Ur am Sekhemmu」と。輝きの限界はどこにある? 力はどこで計る? 光そのものは神の領域に達し、音は沈み込んでいく……。

 かすかな光も動かない。プラーナ(気息)のはしきれさえない。これがもっとも高い緊迫というもの。眼にも届かない、耳にも聞こえない。心だけが知っている、沈黙が呼んでいることを。聖杯があふれんばかりであることを。最初の稲妻と雷鳴、つむじ風と大地の揺れ。それから沈黙。言いようのない神聖なる声。アグニ・ヨーガは言う。「最初に雷鳴が呼ぶ。最後は沈黙で成し遂げられる」。最初に燃える使者。そしてもっとも純粋なる智慧、ソフィア……。

 「至福は臆病な小鳥」とよく言われる。激しく燃えるのはソフィアの翼。気づかない彼に対する哀しみ。理解できない彼にたいする哀しみ。拒む彼にたいする哀しみ。なぜ至福を通じてあきらかになる燃える翼は、またしても臆病な、あるいは残酷な眼の前にあらわれるのだろうか? 

 不慣れな眼にいくつの火が見えるだろうか。人間性は光の住みかにあこがれるものだ。沈黙を夢見るものだ。暗闇のなかでさえ告白をするものだ。夜になるまで人間性はそれを信じているだろう。しかし昼までにそれを告白することはない。法則性に気づいたとしても「私には信仰心がある。告白することができる」と言うだろう。おお、実行のない信仰心など幻影にすぎないことを彼らは知っている。それは抽象的すぎるのだ。しかし人を惹きつけ、断言するのは至上の喜びである。でなければぼんやりとしたため息は何のためなのか? でなければ精神が何も言おうとしないとき、科学があるのは何のためなのか? 夜のニコデモは実行のない信仰心にすぎない。炎のない、あるいはぬくもりのない火花にすぎない。

 ぞっとさせるのは腐食だ。耐えられないのは無知の冷淡さだ。その害悪ゆえ、その蓄積の汚染ゆえ、そのまさに原理の破壊ゆえ受け入れがたい。おびえた至高の小鳥は閉じられた窓の前で白い翼をばたつかせる。われわれはわれらの無知さを攻撃するすべてのものを畏れる。そして扉の掛け金に頼り切る。眼が感受するときでさえわれわれはそれを「事故」と呼ぶ。耳が聞くときでさえわれわれは「偶然」と呼ぶ。X線やラジウムの質でさえ通常であり、電気もたかだかわれわれを慰めるランタンにすぎない。もし思考が体重を変えることができると聞かされても、機械(マシーン)だらけの文明を驚かすことはない。血液循環の不整と有害な血圧は驚くほど増している。最新型のインフルエンザはペストのように肺臓を焼き尽くす。喉には火が着いたかのようだ。喘息は暴れまくる。髄膜炎は増加し、理解しがたい心臓発作が倍増する。しかしこれらの兆候は流行病を示しているだけで、とくに注目すべきことではない。

 しかしながら、知識を会得するための第一の条件は、学習の方法から解放されることである。人は標準化された方法に固着すべきではない。真の知識というのは、あえて言うなら、内なる蓄積によって会得されるものである。ひとつの知識へのアプローチは幾通りもあるのだ。そのような人生の呼び出しと道標を描けば、必要とされた、高揚させる書物ができあがるだろう。人は慣習によって主張したり、奪ったり、鎮圧したりするべきではない。しかし何度でも光を、宇宙の火を、高圧エネルギーを、運命づけられた勝利を取り戻すべきである。小学校の教科書に書かれていること以外のすべての事実を集めるべきである。そのような事実には欺瞞や軽蔑、偽善ではなく、完全なる正直さを織り交ぜるべきである。その背後には恐怖心が隠れているものだ。実際のところは、恐怖心ではなく、無知なのだが。人は有益な種がどこからやってくるのかわからないものだ。物理学者、生化学者、植物学者、医者、祭司、歴史家、哲学者、チベットのラマ、バラモンのパンディット、ラビのカバリスト、儒学者、年老いたメディスン・ウーマン、そして旅をともにした旅行者。彼は――どうしたわけか名を聞きそびれた――もっとも重要な貢献をしてくれたはずだが。それぞれの生涯で、驚嘆するほど魅惑的で、尋常でないことがたくさん起こるだろう。それは記憶すべきことだ! 印象深いできごとはキラ星のように閃く。しかしじきにまた曖昧なものになってしまうのだ。このようにもう一度日々の仕事をやめることなく、禁止された物事に近づくのではなく、人生を彩る可能性に近づくのだ。無理強いし、主張をするのがわれわれの役目ではない。力づくでは何事も達成できないのだ。繰り返し言おう。楽しめそうなことを思い起こす必要があるのだ。こういった霊的な楽しみの名は、物質世界の言語で表わせない。

 聖イサアクは語る。「いつの時代でも、安楽な希望のために、人々は高みへの希求を忘れる」。彼はまたこう言う。「鳥さえもが休息したいがために罠に近づくということは、だれだって知っている」。無限ということに気づき、日々の仕事を愛する人々は幸せだ。さて、聖書のつぎに読むべきは、アーサー・エディントン教授の最新の書『星と原子』(1926)である。地上のことはさておき、夜空の星座について語りながら、より正確に言うなら、夜空に現れたもののなかに道理があること、しかしそれらは星々のことではなく、地上のことを示していると指摘した。最近になっても、人々は地上で起きていることの原因をはるか遠い宇宙に帰している。先入観から放たれることが必要である。火を作ることが必要とされる。砂漠ではたき火が旅人を呼ぶ。このように呼び出しの音が響き、身を包む衣服を通って準備のできた心に届く。道標はいくらでもあるのだ。呼び出しなんてだれも予期していない。精力的に見張り、思慮深く注意することこそ、隠された門をあけるための鍵となる。ネガティブであるヒマなどない。普遍的であること、誠実に学ぶこと、神聖なる神々のヒエラルキーを崇拝することが求められているのだ。

 どんなことがあろうと偏見のない者が科学の世界に入らなければならない。たいへんな困難があり、蔑視されることもあろうが、さまざまな国で、恐れを知らない勇敢な魂たちはすでに、運命づけられた者として戦いに身を投じているのだ。おそらくもうじきしたら、これら創造的な労働者の議会が開かれるだろう。すでに中核となる人々は選抜され、無知や嫉妬の非難の恐れもなく、確信をもってこうして観点を交換しているかもしれない。それから「敵にミステリーを明かさないようにしよう、ユダにキスしないようにしよう」と語ったことを思い出しながら、注意深く、文化の偉大なる庭で、色とりどりの花を集めよう。非難の冷徹さもなく、無知を駆逐することもなく、真実の種を歓迎しよう。


 われわれは高遠な精神の燃え立つエクスタシーを「高熱に浮かされたヒステリア・マグナ(ヒステリーの女神)」と解釈する。喉の中央の(チャクラの)ヴィシュッダは多くの人にとって「ヒステリックな球体」である。(アビラの)聖テレサ、聖クララ(アッシジのキアラ)、聖ラドゴンドの炎。慈愛の神父たちの燃えるようなぬくもり。チベットの高僧のトゥンモのぬくもり。火の上を歩くというインドの今も残存する習慣。火、アグニ・ディク。インドの喉の火も同様だ。インドにはマハーメルー山(須弥山)の千の山頂あり。多くの人にとってこれらは気温の異常な上昇や感覚の喪失を意味する。溶解する前のジャガイモの重さと粒子が圧縮されるときの重量の消失の間に違いがあるからと言って、エネルギーがどうなったかについて熟考させられるわけではない。

 正直な化学者は、反応をひとつひとつ観察して、計測できないものが存在することを認めざるをえないだろう。おそらく実験をする者、つまり化学者自身の特殊性に関わっている。たとえばジャガディッシュ・ボース卿の実験室において、あるひとりの人物が存在することによって、植物は死なないですんだ。ジャガディッシュ卿は偉大なる学者なので、彼はすぐにこのことに気がついた。人間が植物に与える影響について気づく人はほとんどいない。偏見や迷信、利己主義、自己欺瞞に邪魔されないで事実を受け入れることのできる人なんてほとんどいないのだ。啓蒙の松明をかかげ、よりよい生活をもたらすミリカンやミケルソン、アインシュタイン、ラマン、マルコーニのような偉大な、自己犠牲的な科学者は本当にまれなのだ。

 マナスの光をもつ特質(テージャス)は、上質の思考から創られた輝かしい光の放射ほどにリアルである。仏教の絵師と同様、キリスト教の偶像(イコン)の芸術家たちも、巧みな技によって輝かしい光の放射を表現した。これらの偶像を研究することで、あなたははっきりとあらわれた結晶化した光を見出すだろう。思考の価値、すなわち光の価値のリアリティを研究し、心を注ぐには時機もいいだろう。至福の大いなる懐胎を宣言するとき、放心状態に陥るのではなく、高度なリアリティを確認していることを理解するのにもいい時機である。今発見される光線とエネルギーの価値づけの確立のための時が来たのである。われわれの前に何十年もの間、注意深く計画された事件があり、その影響や結果からラジウムやエックス線、そして地球を貫き、拡大するすべての力が生まれた。サイキックの力もまた精神や思考のように、また光をもつ者や生命を与える者、命を守る者のように、研究されるべきである。それは厖大な創造的分野であり、こうして調べている間にも、無限を前にして怖さ知らずであることがあきらかになるだろう。

 炎と光。人間性の全体的進化は、すべてを貫く、遍在する元素に集中している。適切に呼び起こされたら、それは理解され、正しく適用されるだろう。でなければ、無知の成せるわざを焼き尽くすことだろう。知識の統合を求めるうちに、ふたたび、東、西、北、南の「瘤(こぶ)」、すなわち無用の長物が隆起する。どこにでもわれわれはまさに同一の「認識できる心のかすかな痛み」「心の奥の力によってまさに得たもの」「おなじ精神の発揚」を見出すだろう。そして使徒とともにわれわれは言う。「舌が繰り出す言葉のほとばしりより、心の底から出てくる五つの言葉のほうがいいだろう」。リアリティの価値あるものを抽象のなかに放っておかないようにしよう。躊躇することなく、そして偏見なく、リアリティあるものを用いよう。リアリティを抽象に移すのは、文化に対するもっとも嘆かわしい罪のひとつである。

 文明と文化の違いがわからない人がたくさんいる。彼らは文化の価値を霧に包まれた達成できないもののなかに押し込む。運命づけられたもののどれほどが、恐れと偽善によって拒まれてきただろうか。しかし早かれ遅かれ、人は恐れから癒されなければならない。膨大なエネルギーを解放して、恐怖、苛立ち、嘘、反逆を解消する必要がある。輝かしいあらわれを急いでフィルムに焼き加えよう。こうしてわれわれは本当の精神のおあすポートを手に入れるのだ。アグニ・ヨーガに言う。「暗闇は叫ぶ、定期的に耳が聞こえなくなりながら。しかし暗闇は光の大胆さに耐えることができない」

 聖テレサ(アビラの聖テレサ)、アッシジの聖フランチェスコ、十字架の聖ヨハネ。彼らはエクスタシーのなかで部屋の天井まで浮揚した。こんなこと、絶対にありえないと言う人もいるだろう。今日でさえ空中浮揚や体重の変化を証言する者たちがいる。言い伝えによれば聖セルギイの礼拝には「燃えるもの」が参加していたという。燃える聖杯から聖セルギイは聖体を拝領した。大いなる火の中で彼は目に見えない真実を理解した。高められた意識は炎の舌によって照らされた。アッシジの聖フランチェスコが神に祈っているとき、僧院は光に包まれたので、旅人たちは「夜が明けたのだろうか?」と考えたという。聖クララ(アッシジのキアラ)が祈りを上げているときも僧院の上は光輝いた。光の輝きがいっそう増したとき、農民たちは「火事があったのではないか」と思い、あわてて走って逃げたという。

 たくさんの言い伝えが残っているが、プスコフのペチェルスキー修道院にまつわる伝説はとてもシンプルだ。
「われらの修道院はありふれたもんじゃない。修道院から歩いて出て、遠くからそれを眺めると、漆黒の闇に取り囲まれている。けれども修道院の上には光が輝いているのだ。わたし自身何度もそれを見てきたからね。
 だれかがおったまげて、声を上げた、これって修道院から出火してるんじゃないか、とね。
 そうするとよく知らない者たちが声を上げた。
 修道院に火なんてあるかい、と。
 あるさ、ケロシンのランタンが2つとオイルのランタン2つ。それらがイコンの前で燃えているよ。光るものがあるとするならこれだけだ、とだれかがこたえたんだ。
 われらの町には電気が通っているが、それでもまだまだ暗い。これじゃどっちが町だか修道院だかわからんな。
 いや、修道院の上空の光は特別なんだ」


 ヒマラヤでも同様に、人々は彼らが火だと信じているものに向かって走った。そして同様に、火を消すかわりに精霊の輝きをそこに見た。同様に、山は青い花弁の炎の蓮の王冠を冠っていた。このように聖書では、尽きることのない火がともされる。電気の特別な前触れとしてたくさんの火のしるしが現れた。電気って何? これもまた説明されることはなかった。

 最近イタリアで地震が発生したとき、空全体に炎の舌が現れたのを多数の人が目撃したという。英国からも炎の十字架が見えた。それは一種の迷信なのか? 他者に見えないものをある人々は見ることができるのか。
 人々の気づきの力を試してみよ。注意力を持った人間が、身体の動きに霊的な力を持った人間がいかに少ないかに驚くことになるだろう。思考の力、つまり引き寄せる霊的な力を持つ者が無視されているのは恥ずかしいことだ。笑え、笑え、しかしそのことを的確に考えようとしないのなら、あなたもまったく同じこと。
 ボクシング、ゴルフ、クリケット、バスケットボールは思考の霊力を必要としない。ボート競争もまた正確に言えば考えているわけではない。人はほかにも思考のなおざりをただすスポーツを編み出すかもしれない。しかし人はときには思考の創造性に立ち戻るものである。それゆえ気づきに関する小さな実験も無益というわけではない。たしかに学校では、神経の集中と思考を磨くコースがつくられるべきである。2つの手紙を同時に書ける人はめったにいないし、両手で書ける人も、同時に複数の人と話せる人もほとんどいないのである。



(つづく)