アラカン・ムスリムの存在証明と人口統計
By ハビブ・シディキ
2 アラカンの地と土着の人々
ロヒンギャ・ムスリムに対する暴力と憎しみを呼び覚ますためにキン・マウン・ソーは時間を浪費したくなかった。彼は表紙の写真にムスリムの集団の祈りを使った。つぎの写真は兵士らが(おそらくゲリラ)地面に坐っている写真だった。意図は見え見えだ。しかし恐怖を煽る作戦は成功せず、ノルウェーのときと同じく、彼らの本性が暴かれただけだった。[ノルウェーは人道的な立場からロヒンギャを援助してきた]
結局、アラカンで暮らす民族のなかで、マグ人[ラカイン人]だけが暴力をやめることはなかった。彼らは暴力的な、怪物のようなミャンマーの軍事政権から距離を置きたかっただけである。実際、軍事政権は相変わらず差別がひどく、民主主義はなく、独裁主義そのものだった。敵対勢力と融和し、さまざまな文化を受け入れるなんて考えは毛頭なかったのである。
自著の序説でソーは飼い主をテントから追い出した恩知らずのラクダの話をしている。ロヒンギャはこの話の中で、テントの持ち主を追い出そうとしているラクダのようだと言い、それを隠そうとしない。「持ち主」というのはあきらかに彼自身の民族のことを指している。つまりラカイン・マグ人であると。
事実は、熱狂的アラカン主義者によって作り出されたまやかしの物語とは逆である。すなわちロヒンギャはアラカンのよそものではなく、誰かを追い出そうとしているわけでもなかった。エー・チョー、エー・チャン、キン・マウン・ソーら過激なアラカン主義者たちは、ロヒンギャが英領アラカンの時代に定住した外国人であるというプロパガンダを広めてきた。それは間違いで、マグ人がチベットやビルマから流入するよりも早く、ロヒンギャはすでに定住していた。
バイアスがかかっていない歴史家や研究者による信頼できる調査によれば、アラカンのマグ人から蔑称でカラと呼ばれるロヒンギャは、アラカンの土着の人々、すなわち真のブミプトラ(アディバシ)の末裔だった[ブミプトラは土着の人々のこと]。たとえば卓越した歴史家故アブドゥル・カリム教授は述べる。
「実際ロヒンギャの先祖がアラカンに入ったのははるか太古の昔のことだ」
結局、多くの歴史家が記すように、ラカイン人の先祖がアラカンに入ってきたのは10世紀以降のことである。
歴史家D. G. E・ホールは書く。
「10世紀までビルマ人がアラカンに定住することはなかった。それゆえ初期において統治したのはインド人王朝だったと考えられる。そして統治する人々はベンガルの人々とよく似ていた」
アラカンの歴史について詳しく調べたM・S・コリスはその貨幣制度や古い文献についても研究し、同様の結論に達している。「ウェーサリーはベンガルの大乗仏教の東の王国であり、ついでヒンドゥー王国となった。それらの朝廷も人々もインド人だった。モンゴル系の人々の流入はまだ始まっていなかった」。[原注:ウェーサリーは正確にはVaishaliである。8世紀後半に建てられたアラカンの初期の都]
アラカンは、高い丘陵地帯とチン州の深い森によって北部と隔てられ、ほとんど踏破不可能なアラカン・ヨーマ山脈によって東部と隔てられていた。この山脈はアラカン沿岸地域をビルマのほかの地域から分断している。この地域はカラムク(黒い顔の人々の地)として知られるようになった。ナーフ川の北西沿岸に住む人々(バングラデシュ人、とくにチッタゴン人)と共通点を持つ茶褐色のインド人が住んでいたのである。またこの地域はベンガル湾の沿岸地域に隣接していた。似ているのは肌の色や頭、鼻の形といった外形上のことだけでなく、文化や信仰もそうだった。肥沃な平野の稲作や近くの河川、ベンガル湾の豊かな漁獲にも恵まれていた。1マイルの幅のナーフ川が両側の漁民にとって生活を支えるのにも、文化活動においても障害となることはなかった。モシェ・イェガル博士が述べるように、北アラカンであるマユ地区は東ベンガル(バングラデシュ)と直接つながっていた。
アラカン山脈はビルマ人が侵攻してくるのを未然に防いでいた。そしてアラカンは独立した地域として発展することができた。すべての歴史家が示すように、現在のラカイン人に近いモンゴロイドのシナ・チベット語族のアラカン流入は、10世紀のウェーサリー王朝滅亡までには起こらなかった。
この侵略の前後の数世紀の間に何があったのだろうか。おびただしい考古学的発見から、金や銀などの交易のために、1世紀はじめにインド人の植民者がこの地を開拓したのはあきらかである。ラングーン大学のパーリ学のスイス人教授エミル・フォーカマー博士は、自らが監督責任者であった考古学調査(1881年)による新しい発見についてつぎのように述べる・
「アラカン史の最初期において丘陵地帯のふもとがどのようであったかあきらかになってきた。カラダン川やレムロ川下流域にはインドから来た人々が住んでいた。その臣民は古いヒンドゥー社会の4つのカーストから成っていた」
3世紀までにカラムクの沿岸地域(アラカン)は移住者が多数を占めるようになり、土着の人々と共存できるようになった。サンスクリット語が支配階級の主な書記言語となり、その宗教信仰は当時の南アジア(インド亜大陸)で優勢となっていた。チッタゴンの沿岸地域を支配していた王たちはアラカンの三日月地帯も支配していた。推定するに、アラカンの土着の人々はナーフ川の北西に住むチッタゴンの兄弟のように、あまり厳密でないヒンドゥー教を実践していた。
アラカンのインド化の第二局面は4世紀から6世紀頃に起きていた。そのころまでに移住者は王国を建設し、都をヴァイシャリ(ウェーサリー)と名づけた。ヴァイシャリは港町としてサマタ(バングラデシュの低地の平原)やインド、スリランカなどと関係を持っていた。歴史においてこれらの初期の支配者はチャンドラ氏族として知られるようになった。彼らの支配ははるか北方、チッタゴンにまで及んだ。
65の詩節(71と半行)を含むアーナンダ・チャンドラの碑文は今シッタウン・パゴダに置かれている。この日文は初期の支配者についての情報を提供してくれる。興味深いことに、王国の名前も、ダニャヴァティとヴァイシャリという二つの都市の名前も言及されていない。このビルマでは珍しい11フィートの高さのモノリスの四面のうち三面にナガリ文字で碑文が刻まれている。これらはベンガル語や北西インドの言葉に近い。ノエル・シンガーが述べるように、オックスフォード大学ベリオール・カレッジのE・H・ジョンストン教授によってサンスクリットの文字やインド語の碑銘が翻訳されるまで、千年にもわたって内容が理解されることはなかった。
東の面の碑文がもっとも古いとジョンストンは考えていた。パメラ・グトマンによると6世紀はじめにベンガルで用いられた書体と似ているということである。北の面の碑文に関して、ジョンストンはベンガル文字で書かれたいくつかの小さな銘文は10世紀に書き加えられたという。グトマンはしかしながらこの原則的な文章は11世紀のものと感じているようだ。西緬の碑文はもっと早く8世紀に書かれたのではないかというのがグトマンの意見である。この無限の価値がある記録はそれぞれの王朝の特徴をリストアップしている。またそれぞれの治世の大きなできごとを書き記している。
ではこのアーナンダ・チャンドラは誰なのか。
詩編64に明確に述べられている。彼はサイヴァ・アンドラ王朝[おそらくバンガあるいはバングラデシュ]の後裔である。この王朝の王国はベンガルのゴーダヴァリ川とクリシュナ川の間にあった。そしてベンガル湾に近かった。この王朝の創始者はヴァジュラ・サクティで、649年から665年にかけて国を治めた。彼の後継者はスリ・ダルマ・ヴィジャヤで、665年から701年にかけて国を治めた。シンガーが示すように、ダルマ・ヴィジャヤはテーラヴァーダ仏教徒ではなく、マハーヤニスト(大乗仏教徒)だった。
つぎの王は701年から704年まで治めたナレンドラ・ヴィジャヤ。つぎがスリ・ダルマ・チャンドラ。704年から720年まで治めた。彼はマハーやーな仏教の強力なパトロンであり、ヒンドゥー教の施設を作ったアーナンダ・チャンドラの父だった。
はっきりしているのは、アラカンの支配者たちは、シナ・チベット語族が侵略してくる前の数世紀の間、そこに住むカラと呼ばれる人々と同様、インド人の血統だったことである。彼らはバンガ、すなわちバングラデシュの人々と多くの共通点を持っていた。
では957年のシノ・チベット語族によるアラカン侵略のあと何が起こったのか。彼らが絶滅したということを示す歴史的な証拠はまったくない。王国の主が変わっても、地元の人々(カラ)の大多数が、前の支配者にしたのと同じように、穀物などを租税として新しい支配者に払いながら、普段通り生活を送っていたことを理解するのはむつかしくない。人によっては仏教(テーラヴァーダ仏教)を信仰するようになったかもしれない。あるいは多くは先祖の宗教(ヒンドゥー教)を信仰しつづけたかもしれない。おもにスリランカから輸入されたテーラヴァーダ仏教はアラカンに根付くまで何世紀もかかった。それはゆっくりと後期ヴァイシャリ王朝のマハーヤーナ仏教に取って代わった。
もう一つ特筆すべきことは、のちに僧侶としてアラカンにやってきて、定住する多くのシンハラ仏教徒がじつはベンガル人仏教徒の子孫であることだ。宗教紛争の結果彼らは国から逃げ出したのである。この紛争は、イスラム教がこの地にやってくる何世紀も前に、近くのベンガルで発生したヒンドゥー教と仏教のいさかいである。仏教はベンガルではヒンドゥー教の支配者およびバラモンによって一掃されてしまった。仏教はスリランカに安全な地を見つけ、そこで繫栄したのである。
そして何世紀ものち、シンハラ仏教徒(ベンガル人とよく似た面持ちの人々)、すなわちベンガルから抜け出した仏教徒の後裔が、アラカンやビルマのその他の地域の新しい信仰、すなわちテーラヴァーダ仏教の先駆けになると誰が予想しただろうか。
以前のヴァイシャリの支配者が西方を見ているのに対し、新しいシナ・チベット語族は東方を見ていた。こうしてバーマ族とミックスすることで今日のミャンマーができた。そしてついには、1287年までペグーのビルマ人国家の属国になった。
何世紀もの間にこうして二つのコミュニティが現れた。一つはインド人(ベンガル人、アラカン人)の特徴を持った土着の人々のコミュのティ。ロヒンギャの先祖である。もう一つはモンゴロイドの特徴を持った新参者。ラカイン仏教徒の先祖である。
当時、陸や海から穴だらけの国境を通ってさまざまな民族や宗教がこの地域にやってきたと結論づけるのは難しいことではない。たとえばスリランカからやってきた仏教僧は、テーラヴァーダ仏教をもたらし、そこに暮らす人々の文化をゆっくりと変えてきた。
今日の過激主義的なラカイン人やビルマ人の偏狭な知識人が、同じ地域に住むヒンドゥー教徒やムスリムといった「他者」についての理解を深めようとしないのは、率直に言って残念でならない。インド人、ベンガル人、チッタゴン人を見下し、軽蔑する。これは最悪の差別主義である。