アラカン・ムスリムの存在証明と人口統計
By ハビブ・シディキ
3 アラカンのムスリム要素
アラビア半島からアレクサンドリア、トリポリ、チュニスを経て西方のバルバリア海岸(マグリブ海岸)、ジブラルタル海岸、イベリア半島、さらにその向こうへ、またザンジバル、モンバサを経て南方のモザンビーク(ムサ・ビン・バイク)へ、そしてインドのマラバル海岸を経て東方のガンジス川下流域デルタ、さらに向こうのマラッカ海峡へ、また当時の(ヨーロッパによる植民地化前の)インド洋の海上ルートはつねにアラブ人かペルシア人のムスリムの支配下にあった。
各地で交易をしながら彼らは定住の場所を増やし、地元の住民との結婚も増えていった。こうしてゆっくりと地元の習慣や文化を変えていった。
7世紀にイスラムは急速に勢力を拡大した。モシェ・イェガル博士は述べる。
「アラブ人だろうとペルシア人だろうと、ムスリムのコロニーは海上交易ルートに沿って広がっていった。8世紀半ばまでにはムスリムの規模の大きな居住区が中国南岸やインド南部、東南アジアの各商業港に作られた。商人たちは絹や香料、香水、木材、磁器、金銀の製品、高価な宝石、宝飾などをこれらの国から運んだ。そしてヨーロッパへの交易ルートができつつあった」
「船の航行はモンスーンの風や季節に影響されるので、アラブ人やその他のムスリム交易商人にとって、各地のコミュニティの中心にある港に住居を構えるのは基本的なことだった。ムスリム商人が当地のコミュニティの経済に活気を与えるようになると、彼らの居住地はアジア中の港町に急速に広がっていった」
英国のビルマ・ガゼット(1957)が記すように、マハタイン・サンディア(8世紀)の頃、アラカンの土着民は、いわゆるモハメダン、すなわちムーア・アラブ・ムスリム(商人、貿易商)と交流があった。
アラカンのムスリムの定住民に関していえば、エナムル・ハク教授やアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ヴィサラドら20世紀初期の有名な学者が『ロシャンにおけるムスリムの影響』(1935)という論文を書いている。
チッタグラム(チッタゴン)は古代からよく知られていた。アラブ商人は8、9世紀には東インド諸島との交易ルートを確立していた。この時期、東インドの唯一の海港であるチッタゴンは休息の地となり、アラブ人のコロニーとなった。われわれは古代のアラブ人旅行家や地理学者の記録から多くのことを学ぶことができる。それはスライマン(851年には生存)やアブ・ジャイドゥル・ハサン(スライマンと同時代)、イブヌ・フラドゥバ(~912)、アル・マスディ(~956)、イブヌ・ホーカル(976年に紀行を書く)、アル・イドリシ(11世紀後半に生まれる)らである。
アラブ商人はアラカンとメグナ川(現バングラデシュ)の間の地域で活動が活発になっていた。
われわれはまたロシャンの歴史から学ぶことができる。9世紀、ロシャン王マハタイン・チャンドラ(788-810)が治めているとき、いくつかの船が難破し、ムスリム商人たちがロンビー(Ronbee)あるいはラムリー(Ramree)島の岸辺に打ち上げられた。彼らがアラカン王のもとに連れていかれると、王は彼らに村で生きていくよう命じた。ほかの歴史家たちも9、10世紀にアラカンではイスラムとその影響力が増大したと認識している。[原注:チッタゴンとアラカンの言葉の違いは方言の差であり、HaとShaの音は交換可能。ロシャンはロハンと表記できる]
R・B・スマートは英国のビルマ・ガゼットにつぎのように書いた。
「地元の歴史書は、9世紀に何艘かの船がラムリー島で座礁し、ムッサルマン(ムスリム)の船員がアラカンに送られ、そこの村に定住させられたと言及している。彼らはアラカン人と異なるが、宗教以外はそれほど違わなかった。彼らは宗教の社会的習慣に従った。またビルマの文字を用い、話し言葉としては先祖の言葉を話した」
著名な歴史家アブドゥル・カリムはつぎのように述べる。
「この難破した船に関する重要な点は、ムスリムたちが宗教を、すなわちイスラムとイスラムの社会的習慣を捨てることはなかったことである。彼らはビルマ語を用い、ほかの地元の習慣を取り入れることはあったが、それでも先祖の言葉を、おそらく現地の語彙とごったになりながらも、保持してきたのである。
もう一つの特筆すべき点は、アラブ難破船のムスリムたちは彼らの宗教、言葉、社会習慣を千年以上も保持してきた点である。
これら難破したアラブ・ムスリムは、その後アラカン・ムスリムの中核となっていく。そしてアラビア、ペルシア、その他の地域のムスリムがアラカンに入ってくる。
イェガル博士は言う。
「まずベンガル湾に到着したもっとも初期のムスリム商人の船は、アラカンやビルマからも来るよう要請があった。アラカンにおけるムスリムは、文化的にも政治的にも大きく、重要となった。アラカンはビルマに進出するためのいわば海岸堡だった。アラカンほどの成功を収めるのは難しかったとしても、進出することが重要だった。二つの国の間で陸上でも、海上でもやりとりをした結果、ムスリムはアラカン王国の歴史において重要な役割を果たすようになった」
アキャブ(シットウェ)がファールシー(ペルシア語)の名であることは偶然ではない。ほかの町や村の名前もおなじである。そして何世紀にもわたってこれら沿岸の地元民のほとんどは先祖の宗教の堕落した形態に愛想が尽きていたので、イスラム教に改宗するのは自然なことだった。
そしてこうしたことが起きたのは、ムスリムの支配者がこれらの地域を治める何百年も前のことだった。
エナムル・ハクとアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ヴィサラドはつぎのように書く。
「10世紀半ばにチッタゴンにおいてアラブの影響は日増しに強くなっていた。この地域に小さなムスリム王国ができていた。王国の支配者はスルターンと呼ばれた。おそらくメグナ川の東の土手からナーフ川までの地域がスルターンの管轄下にあった。
われわれはロシャンにおけるスルターンの存在を知っている。
953年、ロシャン王スラタイン・チャンドラ(951―957)は境界を越えてバングラ(ベンガル)に入り、スラタン(アラカン語のスルタンの訛り)を破った。そして勝利のシンボルとしてチャイッタゴンという場所に石の柱を立てた。廷臣や友人の求めに応じて故郷に戻った。このチャイッタゴンが勝利の最期の境界だった。ロシャンの国の歴史書によれば、チャイッタゴンは「戦争をすべきでない」という意味だった。多くの人はチッタゴン地区の名の起源はチャイッタゴンだとしている。
もし年代記に言及されるアラカン王の物語、すなわち南バングラデシュのチッタゴンへの移動が信じられるなら、チッタゴンにムスリム・コミュニティがあっただけでなく、10世紀にムスリム・スルターン国があり、その地を支配していたことになる。
なぜマンダレー大学の前学長でラングーン大学の歴史学教授だったタン・トゥン博士がなぜ碑文が言及したナーフ川の東側に住んでいた国王たちがロヒンギャに違いないと思ったか説明できるだろう。タン・トゥン博士は書く。
「チャウッザ、あるいは1442年の石碑の碑文に、アラカンのムスリム王はアヴァの国王の友人であると書かれている」[おそらくアヴァのミニェ・チャウスワ(Minye Kyawswa)]
傑作『アラカン・ラジュシャヴェイ・バングラ・シャヒティヤ(Arakan Rajshavay Bangla Shahitya)』の中でエナムル・ハク教授とアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ヴィサラドは言う。
「このように8世紀から9世紀にかけてイスラム教は拡大し、メグナ川東岸からロシャン王国へと広がった。インドへ旅行したエジプト人旅行家イブン・バトゥータ(14世紀)の紀行文から、また16世紀のポルトガル人の海賊の記録から、ムーア人やアラブ人の影響が増大していたことがわかる。13世紀のベンガルにムスリムが定住するずっと前に、イスラム教がベンガルのはずれに到達していたのはあきらかである。またベンガルに定住したあと、さらにこの地域で広がったと結論づけできるだろう。だからこそベンガル文学は最初この地方(アラカン)のムスリムから発展したのである。15世紀以降この地方のムスリムたちはベンガル語の勉強を始めた。すなわちベンガル語の本を書き始めた。これについての証拠は事欠かない」
ベンガル湾の浜辺にやってきたスーフィー、すなわちムスリムの聖人は何百人もいた。彼らはたいへんな影響力を持ち、現地の人たちをイスラム教徒に改宗させた。アラカン年代記も、バガンのアノーヤター王(1044―1077)の時代にやってきた旅するスーフィーに言及している。
東方に旅行した(1470年)ロシア人商人アファナーシー・ニキーチンもペグーのスーフィーの活動に触れている。ロシア人商人はペグーを「インド人ダルヴィーシュが住む尋常ならざる港」と描く。マニク(ルビー)、アクート(サファイア?)、キュルプク(?)をダルヴィーシュは売っている。モハンメド・アリ・チョウドリーが記すように、このダルヴィーシュらはムスリムであり、おそらくアラブの血統で、当時、一部のムスリムはこういった場所に定住していた。
歴史を通じて起こってきたことだが、ムスリムがいくところ、定住するところでは、地元の人々を改宗させていた。信仰のシンプルさ、救済の見方、公平性、そして倫理。モラルや価値観、行動、マナー、習慣を含めたこれらのことが地元の人々に深遠な影響を与えてきた。彼らは耐えがたくなっていた彼らの腐敗した信仰よりも、新しく来たよそ者の宗教のほうがいいと考えるようになっていた。移住してきたムスリムたちは地元の人と結婚し、子供を持った。
歴史家ウー・チーは著書『ビルマ史の歴史精髄』のなかで述べる。
「これら敬虔なムスリムたちの卓越した道徳によって、たくさんの人々がイスラムのほうへ惹きつけられることになった」
現在のバングラデシュ沿岸地方やミャンマー・ラカイン州のムスリムの歴史は、ラカイン人やミャンマー人の過激主義者に無視されてきた。彼らは一般大衆の信仰が支配者の信仰と同じでなくてもかまわないことに気づかなかった。
イスラム教が根本的にシンプルな実践の宗教であるのに対し、仏教やヒンドゥー教が差別主義的で、カースト制に支配されていることを忘れている。寺院や神像、マンディール(ヒンドゥー寺院)やパゴダ(仏教寺院)には金箔が貼られ、きらびやかに飾られている。僧侶たちは神に近い地位を与えられ、膨大な物質的利益を得ている。その一方で一般人は飢え、貧しく、乞食をし、奴隷にならざるを得ない。
マレーシアやフィリピン南部、インドネシアの大多数の人々が、軍に強制されたわけでもないのにムスリムになり、祖先の宗教を捨てたのはたまたまではない。
退位させられていたナラメイッラ王(モン・ソー・ムワン)のアラカン王への再即位はベンガルのムスリム・スルターン、ジャラルッディーン・ムハンマド・シャーによるものだった。このように導かれてムラウー王朝(1430―1784)が誕生したことは、アラカンの歴史のいわばターニングポイントだった。このとき以来、支配者の多くはムスリム・スルターンに恩義を感じ、ムスリム名(イスラムに改宗する場合もあった)を採用するようになった。この慣習は1638年まで、およそ二百年つづいた。
注目に値するのは、ビルマ人の圧力を受けて1404年に王位から降りたとき、仏教が支配するトリプラやヒンドゥー教が支配するインドのどこかでなく、ムスリムのベンガルを選択したことである。
ナラメイッラ王が都に到達したとき、民衆から喝采を浴びた。彼は5万人のムスリム兵の支援を(最初はワリ・ハーン将軍のもと、のちにはサンディ・ハーンのもと)受けていた。兵士のほとんどはアラカンに残った。彼らは王のアドバイザーや大臣になり、領土が二度とビルマ人に取られないよう職務を務めた。ナラメイッラが王座に戻って最初にしたのは、首都をラウンジェからムロウハンに移転することだった。そしてベンガル人の詩人や人々によってムロウハンはロシャン(ロハン)と呼ばれるようになった。これらムスリムによってムロウハンにサンディ・ハーン・モスクが建てられた。17世紀のベンガル人の詩人たちが述べるように、彼らの子孫はムラウー朝の間ずっと高い地位を保つことができた。つづく何世紀もの間、アラカンのムスリムの人口は、民族間の結婚や移住、改宗などによって激増したと思われる。
[原注:分散したいくつかのコミュニティを回ってみて、ナラメイッラの時代にアラカンにやってきて定住した兵士の多くの子孫に出会った。アンソニー・アーウィンが70年前に示したように、これらのムスリムは平均的なバングラデシュ人とは見かけが大いに異なった。彼らの多くはアラブ人やペルシア人の特徴を持っていた。モンゴロイドの特徴を持った者もたくさんいた]
[訳注:当時のベンガル王朝の軍隊はパタン兵から成っていることが多かった。パタン人とはパシュトゥーン人であり、アフガン人である。現在のアフガニスタンにおけるパシュトゥーン人の割合は50%以下であり、パキスタン内のパシュトゥーン人(パフトゥーン人)は2千万人もいるが。パタン人が王朝を作ることもあった。パタン人の言語はペルシア語族に属する。現在のカマン族(カメイン族)のカマンはペルシア語で弓を射る人という意味であり、15世紀や17世紀にベンガルからやってきた弓の部隊の隊員はベンガル人でなく、パタン人の可能性がある]
ムスリム・スルターン国の属国としてアラカンは優越的なムスリム文化を採択し、アラビア文字の銘刻が入ったカリマ(信仰)硬貨を鋳造した。こうしてアラカンは1531年までベンガルに従属していた。
興味深いことに上述のように、国王はベンガルのスルターンに頼らなくてよかったのに、ムスリム名を使い続けた。この背後にある理由として考えられることをイェガル博士は述べている。
「多くの臣民がムスリムになったことの影響は大きかった。実際、朝廷(王室内閣)は仏教徒であるにもかかわらず、多くのムスリムが要職に就いた。『ラカイン・マハー・ラズウィン(アラカン大史)』の中でタ・トゥン・アウンは15、6世紀のアラカン人のイスラム教への大量改宗について述べている。
地理的に近接していることから、アラカンは北西のバングラデシュ島南部との政治的、文化的つながりを発展させてきた。レムロ川、ミンゲン川、カラダン川、マユ川、ナーフ川といった川に沿って大きなムスリムの定住地が建てられてきた。
宮廷や王族がベンガル文学を後援してきた。もっともよく知られた古典的なベンガル文学のなかには、アラオル、ダウラッ・カズィ、マルダンといったアラカン出身の詩人が含まれる。都は17世紀のベンガル文学発祥の地となった。このムラウー朝の時代はアラカン史のゴールデンエイジと称される。
ムガル帝国とアフガン人支配によるゆるやかなチッタゴンの支配の結果、デリーの中央政府に対するベンガル・スルターン国の断続的な反乱があり、その結果チッタゴンは1580年から1666年までアラカンの支配下に置かれた。チッタゴンとアラカンとの結びつきは、現代のテキサス、カリフォルニアとメキシコの結びつきのようなものである。
優れた研究所である<Arakan Rajsabhay Bangala Shahitya>の中でアブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ヴィサラドとエナムル・ハクは述べる。
「17世紀、アラカン宮廷にベンガル文化が花開いた。そのようなことはベンガルの土壌でさえ起こらなかった。アラカンに流れ着いたベンガル語が、東ベンガルのチッタゴン地区のムスリム詩人が、アラカン国王のムスリムの廷臣たちによって高く評価されたのは驚くべきことだった」
この学者らはさらに言う。
「ムスリムがはじめたベンガル文学の研究は、ロシャン王の廷臣らの庇護のもと十分な成果を得ることができていた。言うまでもなくこのはるか以前からロシャンの宮廷はムスリムの影響に満ちていた。15世紀の初めからロシャンの朝廷は競ってイスラム文化を取り入れようとした。
つづく数世紀の間、イスラムの影響はさらに増していった。そして17世紀に頂点に達した。この世紀のイスラム文化は、ロシャンの朝廷でのムスリムの影響の大きさをよく表していた」
ベンガル文学が花開いたこと、アラカンにムスリムの廷臣がいたことなどを示す歴史の一段落はなぜ無視されてきたのだろうか。
ベンガル知事だったムガル帝国皇子シャー・シュジャは(1639-59在位)、1660年、新皇帝アウラングゼーブに屈するかわりにアラカンに庇護を求める決断を下した。これはつまり相当地位の高いムスリムがすでにアラカン国王に仕えていたことを意味している。シュジャは家族や数百人の警護隊を含む随行員とともにやってきた。
しかしアラカンに到着するとアラカン王サンドラ・スダンマの裏切りにあってしまう。皇子の身に何が起こったのか諸説ある。
わずかな侍従らとともに逃走してマニプールへたどりついたという説もある。
シュジャと家族はみな殺害されたとする説がある。警護の多くはアラカンのマグ人(ラカイン人)に襲われ、付近のジャングルに逃げ込んだ。生き残った警護の一部はのちに王室の弓矢部隊を形成し、国王の身辺を警護した。彼らの子孫はカマン、あるいはカマンチ(弓を射る人)と呼ばれ、ラムリー島に定住した。
シュジャの一部の従者はマグ人の弾圧を逃れ、ビルマ内に逃げ込んだ。アヴァの王は彼らをラメティン、シュウェボ、マイドゥ、メイッティラに定住させた。これらの地方で現在もその子孫が生活している。
アラカン王国と隣人ベンガルとの関係はそれだけではなかった。17世紀にアラカン王は旋風を巻き起こした。ベンガルを荒らしまわり、何万人もの人々を捕らえて奴隷としてアラカンに送り込んだのである。ポルトガル人もベンガル湾に移動すると、さらにアラカンに拠点を持つことが許された。そのお返しに、ポルトガル人は人々を脅かしたり、ムガルの軍隊にいやがらせをしたりして、マグ人のベンガルにおける海賊行為を助けた。
マグ・ポルトガル合同略奪隊は、1666年にベンガルのムガル総督(スベーダル)シャイスタ・ハーンと息子のブジュルグ・ウミド・ハーンによってチッタゴンから追い出されるまで暴れまわった。奴隷の多くはムスリムで、襲撃の目的は奴隷を獲得することだった。
ポルトガル人宣教師マンリケはベンガルとアラカンを訪問し、ディアンガのアウグスト派教会で6年も過ごした。ディアンガはチッタゴンの近くの町である。彼自身マグ人ポルトガル人共同海賊の襲撃の目撃者となった。彼は書く。
「彼らはいつも年に3、4回通常の襲撃を行う。小規模の襲撃は年中行っている。私はアラカン王国に五年滞在したが、その間に1万8千人がディアンガとアンガルケールの港にやってきたことになる」[ディアンガとアンガルケールは代表的な奴隷港]
マンリケの報告からわかることは、捕獲された人の数は小さくなく、年に3千人ほどであり、この海賊活動は一世紀以上続いたことである。チッタゴンがムガル帝国の軍によって陥落したとき、囚われていたムスリム、ヒンドゥー教徒のベンガル人1万人が解放され、家路についたことからも、その多さがわかる。ポルトガル人が捕獲した人々を売る際、強制的に洗礼を施した。マグ人の海賊は捕獲した人々を強制的に奴隷労働に就かせた。この労働というのは、カラダン川流域の稲作の作業のことである。[原注:カラダン川のカラはインド人を表すカラから来ている]
捕獲された人はムスリムの人口増加に寄与することになった。捕獲された人々の子孫の大半はチャウトーとムロハウン(ミャウー)の郡区(タウンシップ)に居住している。歴史家アブドゥル・カリムはつぎのようにいう。
「17世紀、ムスリムは都のムロハウンに殺到した。彼らは小規模の朝廷の大臣や役人になった。彼らがいたからこそアラオルのようなムスリム詩人が詩を書くことができたのである。彼はアラカン王の庇護のもとで、さまざまな国から来た人々、アラカンへやってきたさまざまな集団に属する人々を描いた。
ポルトガル人宣教師セバスティアン・マンリケはアラカンを訪ね、しばらく滞在した。また1635年1月23日のアラカン王の戴冠式に出席している。彼は戴冠式の行列の様子を描き、戴冠の重要な部分をいくつかの分隊が担っていると述べている。そのうちの一つはムスリム兵から成っていて、隊を率いるムスリム司令官はラシュカル・ワズィル(Lashkar Wazir)と呼ばれた。指揮官はイラク馬(アラブ原産の馬)に乗り、分隊は600人の兵士から成っていた。ほかの分隊の司令官はアラカン人だったが、兵士にはムスリム兵が混じっていた。このマンリケの証言などから、17世紀のアラカンに何人かのムスリム大臣のほか一定数のムスリムがいたことがわかる。マンリケが紹介しているエピソードから、ムスリムの役人がアラカン国王に大きな影響を与えていたのは間違いない。
アラカンのムスリムはそれゆえ、新しい移民――シャイフ、サイード、カズィ、モッラー、アリム、ファキル、アラブ、ルーミー(トルコ)、ムガル、パタンの混合である。ムスリム世界のいろいろなところからやってきて、ムラウー朝の間、あるいはその前にやってきて定住したのである。ベンガルやインドから連れて来られた捕獲された人々(いわゆるカラー)や土着のムスリム(何世紀もの間にイスラムに改宗したブーミプトラの子供たち)もそれらに含まれた。
彼らはロヒンギャ・ムスリムと我々が呼ぶ人たちの創成期を作った。簡潔に述べるなら、ロヒンギャ・ムスリムはカラと呼ばれる土着の人々の子孫である。彼らは改宗者か、ムスリムの定住者、旅行者、スーフィー、あるいはアラブ人、ペルシア人商人、貿易商と混じったか。またナラメイッラをアラカンの王位に復帰させ、戻れなくなったか、故郷に戻りたくない奴隷がアラカンを第二の故郷としたか。
つまり、ロヒンギャ・ムスリムは一つの部族や民族からなるのではなく、さまざまな民族や人種から発展した民族複合体なのである。
すでに示したように、土着の人々がイスラム教に改宗するのは、この1400年の間にモザンビークからマラッカまでの沿岸地方の人々が改宗したのと同じようなものだった。それゆえアラカンのロヒンギャが、隣人との外見だけでなく、宗教、言語、文化の類似が見られても驚きではない。彼らはハイブリッドであり、モザイクなのである。彼らはチッタゴン人でもベンガル人でもないのだ。
[訳注:私はこの何でもあり的な結論は好きではない。これなら先住民のインド人がいようといまいと、あまり変わらない。私は14、5世紀にさかんにおこなわれたイスラム宣教活動が重要だと考えている。主にヒンドゥー教徒のインド系アラカン人がたくさんいるからこそ宣教活動が行われたのだろう。宮廷で力を持ったのは、パタン人と考えられるカマンチの可能性が大きい。彼らは見かけ上はペルシア人に近かったと思われる]