アラカン・ムスリムの存在証明と人口統計 

By ハビブ・シディキ 

 

4 人口統計論争 

 キン・マウン・ソーは1784年のアラカン侵攻に関して著しく歪んだ解釈をする。それが仏教僧の制度改革だと主張し、人種差別主義に凝り固まったビルマの王ボードーパヤの残虐な占拠を正当化しようとする。彼に言わせればこの地(アラカン)から逃れた人は5万人にすぎないという。5万人というのはあきらかにラカイン人の数であって、ロヒンギャは含まれていない。

 同様にロヒンギャという「要素」が、アラカンが英国統治下に入ってから始まったかのように言う。しかもその年(アラカンが英国の植民地になった年)を1886年にしている。まるで英国による植民地化の前には存在しなかったかのようだ。彼は書く。

「アラカンは当時人口が非常に少なかった。それゆえ英国人は何万人ものチッタゴンのベンガル人ムスリムをアラカンに引き入れたのである。アラカン人(ラカイン人)は今日までこれら外国人の重荷を耐えなければならなかった。これら外国人は、なんとしても(すべてのビルマ人とはいわないまでも)アラカン人をイスラム化しようとしてきたし、今もしている」

 あきらかにウソの歴史である。ボードーパヤの侵略の前のムラウー朝時代の複合的文化の実際について本当のことを言っていない。

 すでに述べたように、ビルマ人による40年間の暴政の統治下で(17841824)すべての宗教の何万人ものアラカン人が殺された。

[原注:1784年のビルマ人によるアラカン侵略に関し、フランシス・ブキャナンがビルマ人の侵略者によるなまなましい虐殺の証言を記録している。「プランは言う。アラカンが平定されてまもなくのある日、ビルマ人は4万人を殺したと。きれいな女性を見つけると、夫を殺したあと、彼女を奪った。親のことなど考えずに少女を奪った。このように貧しい人々から所有物を奪っていった。東インドでは年長者がかよわい者たちを守らなければならなかったのに。プランはベンガル政府がアラカンからの難民全員をビルマ人に引き渡すのではないかとひどく恐れているように見えた」(フランシス・ブキャナン「ベンガル南東にて」(1798)]

 ビルマ軍はモスク、寺院、廟を破壊し、アラカンの宝(マハムニブッダを含む)を盗んだ。彼らは無理やり兵士にしたり、奴隷にしたりした。なかには疲労や飢餓で死ぬ者もあった。一方でビルマの他の地域に定住させられた者もあった。

 およそ2万人がアヴァで囚人となった。1798年までにボードーパヤは繰り返し彼ら(アラカン難民)にパゴダ建設などの奴隷労働を強いた。そして一部は強制的に兵士とした。彼の軍隊があまりに残虐で、役人も同様であったため、居住者(ヒンドゥー教徒、ムスリム、仏教徒)の3分の2がチッタゴンに逃げた。

 JNU(ジャワハルラール・ネルー大学)の研究者のファルーク・アフメドが記すように、ベンガルに逃げたムスリムの難民だけで20万人に達した。

 さらに悪いことには、ビルマがアラカンを支配したつぎの40年間、目に見えるもの、文化的なものすべてのイスラム的なものが徹底的に破壊されてしまった。

 GE・ハーヴィーによると、「アラカンは人口の多い地域であったことはなく、今はすっかりさびれてしまった。町は廃墟と化し、ジャングルに覆われている。破壊されたあと以外には何も残っていない。沼地と、悪疫と、死があるのみだ」。

 キン・マウン・ソーの彼の偶像であるボードーパヤの血塗られた歴史を洗浄しようという目論見は、犯罪や邪悪でないとしてもばかげている。彼は仏教徒モンスター[ボードーパヤのこと]の歴史記録を読み直し、なぜアラカン人が東インド会社の助けを借りてビルマ人を駆逐しようとしたかを学ぶべきだろう。

 すでに述べたように、ムラウー朝の間、都のムロウハンに住むムスリムの数は多く、人口の半分を占めていた。ムスリムの人口は、ナラメイッラが再び王位に就いた1430年のムスリム兵士に始まり、ビルマ人がアラカンを侵略する直前の1784年には20万人を超えていただろう。

 人口統計学の研究から、これらの難民――ムスリム(一部はヒンドゥー教徒)のロヒンギャとラカイン仏教徒--は、英緬戦争(182426)のあと、英国がアラカンを併合し、難民に帰還を許可しても、戻らなかった。彼らはベンガル内、とくにチッタゴン、チッタゴンヒル地区で同化した。

 たとえば南チッタゴンの人口の半分を占める「ロハイ」と呼ばれる人々はその起源はアラカンと言われる。そして(移住して2百年たつことから)バングラデシュ国民として、アラカンに戻ろうとは思わない。もしボードーパヤのアラカン侵略の時期にチッタゴンに逃げたアラカン人の子孫なら、バングラデシュの国民であるとしているのに、キン・マウン・ソーは、アラカンのロヒンギャは外国人だ、ビルマ人には値しないと主張している。こうしたひどい差別主義はたくさんの人権に関する国際法に反している。

 抑圧された人々は、生きていく状況がどんなにひどかろうと、先祖の土地を離れようとしないものだ。多くの人は難民生活よりも、苦痛を耐えるほうを選ぶものである。このようにビルマ人の野蛮さにもかかわらず、多くのアラカン・ムスリム、ヒンドゥー教徒、仏教徒はアラカン国内に住み続けた。そして多くの人はどちらが安全か考え、出入りの簡単な国境を行ったり来たりしたのである。

 それゆえわれわれは1795年当時、ビルマの首都アヴァの英国大使館の軍医だったフランシス・ブキャナンの目撃報告を読んでも、それほど驚きはしない。彼は3つの方言について書いている。

「最初はモハメダン(ムスリム)によって話される方言である。彼らは長い間アラカンに定住していて自分たちをRoangiya(ロヒンギャ)あるいはアラカンの先住民と呼んでいる」

 現代ビルマの差別主義者仏教徒のプロパガンダとは対照的に、ブキャナンはロヒンギャをアラカンの先住民とみなしている。

 英国がアラカンに行ったことがないのに(182426以前)、どうやったらロヒンギャが英国植民地化の産物といえるだろうか。

 アラカンのムスリム要素を説明しようとしてソーはアキャブ警察本部長補佐RB・スマートの一節を引用し、かえって自分の足を撃っている。スマートは言う。

1879年以降、移住は大きなスケールで行われるようになった。チャウトーとミョハウン(ムロハウン)郡区(タウンシップ)の住人のほとんどは奴隷の子孫である。マウンドー郡区(タウンシップ)にはチッタゴンを上回る移民がいた。ブティダウンにも多く、新しくやってきた人も地区のどこにも姿を見ることができた」

 ロヒンギャの先祖でないとしたら、スマートが言う「奴隷」とはいったい誰のことだろうか。1886年以前、この地域にカラーと呼ばれる人々がいたのは間違いない。彼らの起源はどこなのか。1824年に始まる英国支配下の時代に生まれたのか[英国が連れてきた労働者なのか]。もちろん答えはノーだ。彼らが17世紀、18世紀に活発だったマグ人・ポルトガル人共同海賊の遺産であることを誰が否定できるだろうか。年に3000人も捕獲されていた彼らはアラカンで強制労働に従事させられたという。アーサー・ペイヤーの見立てでは、マンリケの紀行文をもとに推定すると、アラカンの人口の15%ほどが奴隷の人口と考えられるという。

 

 東インド会社がアラカンで力を持つという新しい状況のもと、アラカン難民の子孫が東インド会社が統治するベンガルの近くに定住したがっていること、先祖の地に定住したがっていること、そしてベンガルのチッタゴンの南端、テクナフに近いマウンドーやブティダウンに定住したがっていることを理解するのはそんなにむつかしくない。もしうまくいかなければ、彼らにとってチッタゴンに戻るのが最善となるだろう。

 

 新しい入植者は租税や土地税に頼らざるを得なかった。そして米の輸出が当時、おっとも重要だった。といっても1871年の時点では耕作可能な肥沃な土地は740平方マイルしかなかった。米の輸出は105894ポンドほどだった(アラカンの海上貿易全体135万ポンドの10%以下にすぎなかった)。アラカンで耕作面積が増えれば、英国政府にとっても税収入が増すことを意味した。

 

 エンサイクロペディア・ブリタニアによれば、アラカンの人口は1831年の173000人、1839年の248000人、1871年の461136人、1901年の762102人と増えている。この数字になるためには、1826年から5、134575年以内に、毎年の増加率がそれぞれ11.59%7.24%3.46%2.74%でなければならない。4つの時期のうちの最初の2つは(1839年まで)自然増加で説明することができない。アラカンの外からの大量の流入か、移住があったと理解すべきだろう。

 

民族

1871

1901

1911

1871-%

1901-

1911-

マホメダン

58255

154887

178647

21.05

32.16

33.71

ビルマ人

4632

35751

92185

1.67

7.42

17.4

アラカン人

171612

230649

209432

62.02

47.89

39.52

シャン

334

80

59

0.12

0.02

0.01

山岳民族

38577

35489

34020

13.94

7.37

6.42

その他

606

1355

1146

0.22

0.28

0.22

合計

276691

481666

529943

100

100

100

表1「アキャブ地区の人口推移」(ビルマ・ガゼッティア)

 

 表1「アキャブ地区の人口推移」は、1871年の時点で58000人以上のロヒンギャがこの地区にいたことを示している。これらは、19世紀後半、田植えや鉄道敷設に必要とされた労働力を確保するための英国の移民政策の賜物というソーの不誠実な主張に疑義を抱かせる。アキャブ地区のムスリムの人口は、英国の役人ペイトン氏の1826年の東インド会社の調査を知っていれば、驚くべきものではなかった。アラカンの行政官であるペイトン氏の調査報告によると、アラカンの人口は10万人以下で、そのうちマグ人(アラカン人仏教徒)は6万人、(ロヒンギャ)ムスリムは3万人ほどだった。ソーの主張とは対照的に、1826年の時点でアラカンには3万人のロヒンギャが住んでいたのである。彼らはもちろん東インド会社によって呼び入れられたのではない。

 また1871年の時点でムスリムは21%だが、40年後の1911年には33.7%と上がっている。同じ時期にビルマ族の人口も1.67%から17.4%に跳ね上がっている。この二つの増加に対して合理的な説明ができるだろうか。一方、アラカン人と山岳民族の人口が1901年から1911年にかけて減少しているのだが、これに関してもどういった説明ができるのだろうか。

 

 アキャブ地区とアラカン地域の1871年の比較から、地域の60%の人口がアキャブ地区内に住んでいることがわかる。それはアキャブが1826年時点の漁村から発展めざましい町に変貌したということである。インド帝国ガゼッティアによると、州のムスリム人口の半分がアキャブ地区に住んでいるということである。全体の人口は1871年に10万人を超え(少なくとも97092人)、全体の461136人のうちの4分の1を占める。

 

 1871年においてラカイン人は全人口の62%を占める。少なくとも286010人がアラカン内にいる。ムスリムの人口と仏教徒(ラカイン人)の人口は、2.64%、3.53%ずつ成長してきた。これらの増加率はもっともらしいだろうか。 

 

 しかしながら独身主義や晩婚などに文化的模範があり、仏教徒はムスリムやヒンドゥー教徒と比べてつねに出生率は低かった。それゆえラカイン人仏教徒の3.53%増加というのはありえないように思う。外的要因、たとえば外部からの移民などがあったのではなかろうか。一方であとで述べるように、ロヒンギャの2.64%増加は十分ありえる話である、21世紀という「家族計画」の時代においても、ムスリムの人口増加は2%程度で、3%はまったくありえないということはない。