ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 


ロジンギャへの影響 19482010 

 ロヒンギャにとって、独立直後は「制限だらけ」の時期だった。なぜなら地域には戦争の日々の緊張が残存し、1947年に起きた短期間の反乱の熱がくすぶるフロンティアと考えられたからである。しかしながら共産主義者やシャン族、カレン族による深刻な武装反乱と比べれば、アラカンはなおも平和なままだった。

 ビルマ人の市民権の法的定義が変更されたことによって、ロヒンギャへの差別と暴力のレベルが確実に上昇した。ロヒンギャがミャンマーという国において外国人であるというストーリーができあがり、憲法の中にも、条令にもその表現が見いだされた。虐殺の前提条件のひとつが、識別された集団への標準的な法的権利が、組織的に否定されたことである。序説の中で、ロヒンギャ弾圧および差別の重要な部分は、彼らが生まれ、生活している国の合法的な市民であることが否定されていることである。

 たてつづけに出された国連の報告はつぎのように強調している。「人種と民族性は、市民権を与える決定的な要因とはならない。その代わりに法律は、非差別の原則に応じた、たとえば生まれた地域や家系といった(市民である親から受け継がれた市民権など)、客観的な基準を与える必要がある」。ビルマの1947年憲法は、市民権の問題にかなりの重点を置いている。そして英国植民地法の特徴のひとつである、行政上の簡易な意思決定が保持されていた。市民権に関する重要な点はつぎの条項である。

 連合国の大統領は、いかなる人、あるいは人々の階級を、全体的に、部分的に、一時的に、あるいはその他の場合、すべて、あるいはいずれか、あるいは第5節につづく数節の中に含まれる条項から取り除くことがあるかもしれない。そしていかなるときでも、そのような除外を無効にできるかもしれない。 

 

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