ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

2 独立から民主政権誕生まで(19482010) 


軍事政権の支配 196288 

 1965年まで軍事政権は直接ロヒンギャを攻撃することはほとんどなく、一部のロヒンギャは国会の議員の座にいて「ビルマの社会主義への道」を行くのをサポートした。1964年版学校百科事典はメイユ(マユ)地区の民族構成について「ロヒンギャが75%、その他、ラカイン人、ダイ・ナッ族、ミョー(ムロ)族、クミ―族などが少しずつ。ロヒンギャはムスリム」と記している。

 しかしながらロヒンギャは徐々に生存権を失っていく。1974年緊急移民条例によって、民族を基本とした身分証カードNRC(国民登録身分証)携帯が義務付けられた。このときロヒンギャだけが外国人登録カードFRC(非国民カード)携帯を義務付けられたのである。重要なことは、経済が危機的状況に置かれ、軍事政権が注意をそらす必要のあるとき、この新たなロヒンギャ攻撃が始まったことである。このロヒンギャがターゲットとなるパターンはこのとき以来、何度も繰り返されてきた。カレン族やシャン族と違い、彼らは武装しなかった。実際、1947年の経験から、慎重に武装した反乱を避けてきたのである。しかしそれは軍事政権にとってロヒンギャが危険を伴わない、手軽なターゲットになったことを意味した。

 ビルマ連邦社会主義共和国の1974年憲法は市民権をつぎのように規定している(第145項)。「ビルマ連邦社会主義共和国の国民の両親のもとに生まれた者は、連合国の市民である」。これは険しい道と言わねばならない。というのも、ロヒンギャは1947年に公式には市民として扱われなかったため、彼らは今、国家の市民ではありえないのである。彼らの国民登録証明カードNRC(1947年から法的に有効)は外国人登録カードFRCに替わっていた。つぎの法的ステップは1982年ビルマ人市民権法だった。これは市民権を四つのカテゴリーに分けていた。すなわち市民、準市民、帰化した市民、外国人である。異なるカテゴリーは、1824年以前の居住地をもとに、エスニック・グループごとに割り当てられた。これらのカテゴリーに属さない人々、たとえばロヒンギャは外国人とみなされた。

 市民権は以下のように再定義された。

 カチン族、カヤー族、カレン族、チン族、ビルマ族、モン族、ラカイン族、シャン族、そして1823年以前に国の中に領域のどこかに、永久住所として定住したエスニック・グループはビルマ国民である。国家評議会はエスニック・グループが国民かそうでないか決定すべきである。

 このように市民権は、1823年以前にビルマに居住したと思われるエスニック・グループの会員であるかどうかにかかってくる。この法律は重要である。なぜならはじめて、1824年の植民地前のビルマの国境の中に居住した人であるかどうかを問題にしたからである。前章で論じたように、これは議論の余地ある問題である。しかし証拠は明確に示している。ビルマ人国王がこの地(アラカン)を征服した1780年代、また英国がそれを併合した1826年、ロヒンギャはアラカンの主要な住人だった。

 事実上、1982年の市民権法は、外国人と指定された人々を除くすべての人々が民族集団とみなされた。ふたたび批判的に言うなら、重要な判断が、法的手続きに従わない、行政の意思決定のひとつであったことだ。ただしつぎの条件のもとでは、帰化を選ぶことができた。

 1948年1月4日以前に、国に入り、居住した人々、また国の領土の中で生まれた彼らの子孫は、1948年連合国の市民権法のもとで申請していないなら、中央政府に対し、証拠をそろえて、帰化申請をおこなうことができる。(Refworld 1982 

 43項は、だれが帰化申請できるか詳しく設定する。しかし除外される者というカテゴリーがあり、それはどちらも市民でない両親から生まれた者である。ロヒンギャはそれゆえ、定義によって排除される。相当に長い58項は、なぜこの場合市民権が拒絶されるかさまざまな理由を挙げている。古い英国植民地法のもとでの彼らの地位を反映し、この(1948年の)法のもとでは、外国人は市民権を持つことができない。

 1982年の法律のもと、1948年の民族分類に従い(このときロヒンギャは新しい国家の核となるエスニック・グループのひとつとして認定されなかった)、ロヒンギャは市民権の付与を拒絶された。さらに、行政命令ばかりが山のようにたまって、法体系は曖昧なままだった。そしてわずかばかりの彼らの法的権利は、何度も通過する戒厳令のもとで無きに等しくなってしまった。一方で、以下に論じるように、この曖昧さが利用されて、ロヒンギャが1990年の総選挙に参加する道が開かれたのである。

 市民権の拒絶によって、所有地を失うだけでなく、移動や教育を受けることも禁じられてしまった。1974年憲法と法律の変更から、国によるロヒンギャへの暴力のレベルが相当に上昇した。そしてそれにつれてバングラデシュに逃れるロヒンギャ難民が急増したのである。このすぐあとにはじまった1977年ナガーミン(竜王)作戦は、ビルマのすべての個人に対し、市民であるか、外国人であるかを確認するオペレーションである。ラカインでは、この作戦は仏教徒共同体や軍隊によってロヒンギャ共同体への攻撃のライセンスと解釈された。1978年までに、20万人以上のロヒンギャがバングラデシュに逃げた。しかしバングラデシュはこれらの難民のほとんどをビルマに追い返した。

 

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