ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
3 民主主義への回帰(2008―2015)
憲法改正と2010年総選挙
2008年憲法(ミャンマー連合共和国憲法)は限定的な民主主義の形態への回帰を認めた。権力は軍部からフランチャイズ方式で選ばれた文民政府へ移行することになった。しかし2008年憲法は欠陥のある文書だった。それは軍部の特権を維持し、軍隊のみがミャンマーの保証人として振る舞うことができるという考え方に挑むものではなかった。軍旗とスローガンはこれまでと同様に国中で使われた。
さらに悪いことに、独立以来ミャンマーの憲法につきまとってきた制限のある市民権の取り扱い方が恒久化されてしまったのである。1824年にミャンマーに住んでいた民族だけが市民として認められ、1974年の緊急移民条例の市民権の制限は345条に保持されていた。
以下の必要条件を満たすすべての人はミャンマー連合共和国の国民である。
(A) ミャンマー連合共和国の国民である両親から生まれた者
(B) この憲法が施行された日の法によってすでに市民である者
実際、この法令は、すでに市民とみなされていた人々、あるいはすでに市民の両親から生まれた子供たちにとって、市民権を制限するものとして、1974年条令よりも限定的だった。この法令ができたことによって、ロヒンギャは彼らが生まれた国の会員制メンバーに加入するのを拒まれてしまった。そして日常生活の中で迫害にさらされてしまうのだ。これは1961年国連の無国籍の削減に関する条約に違反している。その条約の第1条にはこう書いてある。「締約国は、その領土に生まれた人物に国籍を保証する。さもなければ、この人物は国籍を喪失してしまうだろう」。ミャンマー政府はこれらのポリシーの意味を知っていて、つぎのように不平を述べている。
国際メディアによってベンガル人(ロヒンギャ)集団は、政府が彼らを広範囲にわたって管理していると宣伝している。政府は、この国の状況では、またこの集団が市民権を持たない状況にあっては、そのような方策を取らざるをえないとみなしている。しかし国際社会はこの方策を、基本的人権の違反として非難する。これは(……)国の名誉を傷つけるものであり、国際関係に悪影響をもたらすものである。
リーダーたちの収監に抗議して、NLDは2010年総選挙に参加しないと決定した。参加するかわりに「大衆運動」によって民主主義を促進し、国会外での活動を実行しようとした。このやり方の現実的な問題保一つは、核となる活動家が基本的に学生から引き抜かれていたことである。彼らは仏教僧たちと同盟を組むことによって、大きな支持層を得ていた。しかしこのように絞ることによって、直接的に労働者や農民の潜在的な政治力と手を組み、支持者を広げることができなくなってしまった。これによって軍部はNLDの脅威をうまく対処できるようになった。そして二つの主要な支持層の特別な関心に対して脆弱な野党になってしまった。
2010年、NLDはまた、選挙に参加することを決めた親民主主義運動の構成員を攻撃した。結果的に選挙に勝ったのが軍部にバックアップされたUSDPであったとしても不思議ではなかった。投票の80パーセントの票を得ていたのである。
<2010年総選挙結果>
USDP 民族 親民主主義 国民統一党 独立派 取り消し
下院 258 47 9 12 0 4
上院 129 26 7 5 1 0
NLDは2010年総選挙をボイコットし、USDPは自身の支持層をさらに増やした。公務員と同様、国営企業の雇用者もしばしば組織票で、期日前に投票した。実際、USDPは、最大のライバルが不在でも、給付金受給者の票を頼りにしていた。暮らしを国家に頼っている人々は、彼らを保護する政党に投票すると期待された。
ジュンタ(軍事政権)は公式には2011年に解体された。さらに選挙によって2012年、45の支持組織に分かれた。こういったことは2010年の総選挙よりもはるかに公正であると考えられた。NLDは参加し、43議席を獲得した(得票の65%)。多くの西側の観察者によって、2010年選挙と2012年選挙は、ミャンマーがいい方向に向かっている証拠だった。メディアに友好的な政治家が民主主義に向かう動きを導いているように思われた。そして政権は外国の投資に対し門戸を開いていた。
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