ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕  

3 民主主義への回帰(20082015) 


2007年以来の仏教の役割 

 独立以降、仏教は要するに、新しい国に属する人の生きる支えになるものというより、新しい国家の道徳体系となるものだった。しかしながら、国軍の支配のもとでは、忠実な市民とは、民族的にビルマ族であり、かつ宗教的に仏教徒でなければならなかった。経済ドクトリンとしての「ビルマの社会主義への道」が失敗すると、この考え方が際立つようになった。軍事政権はそれを大衆にアピールするために、新しいアプローチを探さなければならなかった。

 それにもかかわらず、1988―90年のときも、2007―08年のときも、仏教僧たちは政権に対する民衆の抗議活動において重要な役割を果たした。この意味において、仏教は1988―2010年の時期、軍事支配を民主主義へと変革するのにポジティブな役割を果たしたと評価されるべきだろう。学生たちの反乱に参加することによって、僧侶たちは彼らからいっそう信頼されるようになった。そしてNLDに彼らが求めていた大衆運動を提供することになったのである。それはまた軍事政権が国を統御することができなくなったことを示していた。たしかに彼らは反逆者たちに大いなる道徳の権威をもたらした。反乱に加担することによって、多くの僧侶が投獄され、殺された。抗議活動のあと、国軍とUSDPの評判が落ちたのには理由があったのである。

 しかしミャンマーの非ビルマ族、非仏教徒少数民族にとって、僧侶とNLDの連合はかならずしもポジティブに考えられるのではなかった。もちろん重要な例外もあった。一部の僧侶たちはカチン地区を訪ね、そこのクリスチャン共同体とともに活動をする道を模索した。ある僧侶は平和と調停を支持してラカインを徒歩で縦断した。そして2014年、僧侶たちは、採掘と強制立ち退きに反対する地元の人々を応援した。

 しかしながら、NLDと仏教僧のつながりはミャンマーの発展を妨げることになった。ロヒンギャ弾圧のイデオロギー的リーダーは、僧侶の中から出てきたのである。彼らはビルマ人の市民権を仏教と結びつけるよう、NLDに圧力をかけたようである。

 国軍が反ロヒンギャの暴力においてなおも共犯者であるのには 過激主義者の僧侶の影響があった。ロヒンギャを攻撃しているのは、宗教的過激主義者であり、国軍であり、賛同したNLDのメンバーだったのだ。国の守護者として、そのような攻撃に参加することは、国軍が、宗教的感情に同調し、統治において仏教のサポートを得ることができると主張しているのである。こうしてロヒンギャを攻撃することは、仏教的活動をしていると公に強調することになるのである。またすでに指摘したように、ある程度、市民生活が不安定になるのは、国軍にとっては歓迎すべきことだった。それは権力の保有の言い訳になった、そして必要があらば、つまりもし民主主義的な潮流に押し流され、権力を失いそうになったなら、軍事クーデターの土壌にもなるのである。

 

⇒ つぎ