ロヒンギャ:ミャンマーの知られざる虐殺の内幕
4 ロヒンギャ関連(2008―2015)
なぜ危機は明るみになったのか
実際、難民危機は2012年の騒乱以降、年中行事になった。それは五月から七月の時期、アンダマン海が静かで航行が安全なときに起こった。ミャンマーの(小規模ながらバングラデシュでも)人々のひどい絶望に刺激されてそれは起きた。また奴隷労働、あるいは不法就労、違法労働を基本として、それは経済を活性化させた。犯罪組織はかなりの利益を得ることができた。
2015年の危機が唯一違うのは、マレーシア政府とインドネシア政府が国境を閉めたことだった――それは国連憲章に違反していた。しかしそれは地中海の難民危機に対するヨーロッパ諸国の対応を模倣しただけだった。ならわしとして、岸辺に近づいたところで人身取引業者はボートを捨てた。難民たちは自分で上陸方法を探さねばならなかった。地元の漁師に助けられることが多かった。しかしこの年、陸地に近づいたボートはすべて地元の当局者によって海に押し返された。しかしこの時点において人身取引業者の船員はとっくの昔にいなくなっていた。食べ物もないボートに取り残されてしまった彼らは、海の波間を漂うしかなかった。
これに先立つ数年間、こういったことが進行しているのに、世界のメディアはまったく気づいていなかった。しかし2015年、規模の大きな危機がやってきたのに、マレーシアとインドネシアの対応がひどかったため、かえってすべてが明るみになったのである。初期の報道では、ミャンマーの状況とはまったく関係のないできごとのように見えた。シンプルに、あたかも移民が一つの国からほかの国へ、仕事を探して移動しているかのようだった。
幸運にも、ようやく結びつきがあきらかになった。ある程度、これはレポーターたちがロヒンギャの状況について何も知らなかったからである。それはまたある程度、ミャンマー政府が第三者機関を虐げることに成功したことを反映していた。彼らはけっしてロヒンギャという言葉を使わなかった。そしてロヒンギャの苦境とミャンマーの政策のつながりを明確にしなかった。
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