序説             宮本神酒男 


 ネット上でロヒンギャ関係の記事のコメントを読むと、絶望してしまうことがある。「ロヒンギャはバングラデシュから来た不法移民だ」というミャンマー政府の根拠のない主張を真に受けている人がけっこう多いのだ。

ロヒンギャは少なくとも何世紀も前からラカインにいた。もしかりに英国がミャンマーを植民地にしてから労働者として入ってきた人々がロヒンギャであったとしても、それから百年、二百年がたてば、十分にミャンマー国民とみなされるべきだろう。

 1777年のRE・ロバート少佐の報告「アラカンの考察」によれば、アラカン(ラカイン)の人口の4分の3がムスリムだという。おそらく少佐はロヒンギャの多いアキャブ(シットウェ)からマウンドーあたりまでしか見ていないのだろう。1784年にはコンバウン朝ビルマ軍がラカインに侵攻し、たくさんのラカイン人仏教徒やムスリムが殺され、チッタゴンに逃げた。しかし英緬戦争(1824-26)が終わった1826年の人口調査報告によれば、全体の3分の1がムスリムだった。一定数はラカインに人が残っていた、あるいは戻ってきていたことがわかる。そののち50年後も、100年後も、そして今もムスリムの人口比率はそれほど変わっていない。不法移民はどこから湧いて出てくるのだろうか。

 16世紀から18世紀にかけて、マグと呼ばれていたラカイン人は海賊として悪名高かった。一時期はチッタゴンの沖合の島を根城にするフェリンギと呼ばれるポルトガル人の海賊と共同で海賊行為をおこなうことがあった。彼らは自慢の海賊船でたとえばダッカ近くに上陸し、村々を襲い、金品だけでなく、人々も奴隷としてラカインに連れ帰った。最大の顧客は国王だった。時代によって異なるが、奴隷の7割か8割はムスリムだった。

 1630年代、アラカン国王の戴冠式に臨むため、ポルトガル人宣教師マンリケは現バングラデシュのチッタゴンで、ラカインへ奴隷たちを連れて行く護送団に加わった。ラカインに送られた奴隷は年間3千人に及んだという。上述のように奴隷の多くはムスリムだったので、長年奴隷を加えていけば、その数はおそろしいものになったはずである。

 しかし私は、バングラデシュ不法移民説だけでなく、奴隷ムスリム説も部分的にしか賛成できない。歴史上、世界のどこでも奴隷同士の結婚は禁じられることが多い。権力を持たない奴隷とはいえ、数が増えればそれなりに力を持ち始め、ときには為政者を脅かす存在になるからである。

 私は第三の可能性、すなわちロヒンギャ先住民説に傾いている。ロヒンギャの知識人ウー・チョー・ミンが主張するように、ロヒンギャの先祖はラカイン人がやってくる少なくとも数百年前、ひょっとすると千年前にはラカインに到達していたのではなかろうか。

 ラカインにもっとも早く住んでいたのは、クキ・チン語支の人々か、モン人の可能性があるが、最初に文化をもたらしたのはインド人だった。ベンガル人という概念ができるのは西暦1000年頃とされるが、彼らの先祖である。

 おそらく4世紀頃までには仏教が伝播し、栄えていた。ダニャワディ寺院周辺からはたくさんの仏像が出土している。ウェーサリーを都とするヒンドゥー教の王朝もあった。ムラウーのシッタウン寺院に碑文が残っていて、それがベンガル語に近いこともわかっている。

 アラカン山脈(ラカイン山脈)が自然の障壁となり、それがラカインとミャンマーの境界を作っていた。1942年、日本軍がラングーンからアラカン(ラカイン)へ向かう時、アラカン山脈でたいへんな困難を味わったのは有名な話だ。一方、ラカインとチッタゴンとの間にはそんなものはなく、たくさん流れる川を渡りさえすればベンガルからラカインに歩いて来られるのである。ベンガル人の地域がアラカン山脈まで広がるのはごく自然なことだった。

 ラカイン人がミャンマーからやってきて定住を始めたのは11世紀のことだった。バガンの英雄的な王、アノーヤターがラカインに部隊を送った。彼らは屯田兵に近かったかもしれない。そしておそらく租税を納めれば先住のインド人を攻撃することはなかったろう。

 実際多くのインド人が住んでいた。もしかするとバガンの兵士たちが来たあとも王朝が残っていたかもしれない。ウェーサリーにヒンドゥー教の寺院の跡かと思わせるくらいたくさんの彫像が発見されている。11世紀か12世紀に作られたとされ、かろうじてヒンドゥー教徒が生き残ったというより、あきらかにヒンドゥー教が栄えた時代があり、その名残なのである。

 バングラデシュを見ればわかるように、西暦1200年以前はほとんどがヒンドゥー教徒か一部仏教徒だったのに、ゆっくりとムスリム(人口の9割)に替わっている。北西インドと違って東ベンガルにはバラモンが少なかった。人々はほとんどが低カースト(シュードラ)で、差別を受けることも多く、差別のないイスラム教に転向する流れは防ぎようがなかった。「アラブ人の血が入っている」と自慢するロヒンギャもいるが、もちろん血の混じったロヒンギャも多いだろうが、外からイスラム教がやってくるとともに、ヒンドゥー教徒がムスリムに転じたという面も大きいのだ。

 実際、英国の植民地になっている間にどれほどのベンガル人がロヒンギャに融合しただろうか。これはなかなか難しい問題だ。ハビブ・シディキ氏が指摘するように、ヤンゴンに移住したインド人はとくに問題にしないのに、ラカインに移住したインド人だけが不法移民と呼ばれるのは奇妙なことだ。

 もともとラカインに住んでいて、英国占領下で戻ってきた人もいるかもしれない。移住ではなく、とくに20世紀のはじめは季節労働者が多かった。チッタゴンは隣なので、歩いて帰ることもできるのだ。

 ロヒンギャといってもその成り立ちは複雑だ。先住民のインド人の血を濃く受け継いでいる人もいれば、奴隷の血を濃く持つ者もいるかもしれない。カマンの血を持つ者もいれば、ペルシア人やアラブ人の血を継ぐ者もいるかもしれない。もちろん東インド会社の募集に応じて働きに来たベンガル人の子孫もいるかもしれない。

 私は本稿で「ロヒンギャ先住民説」と銘打っているけれど、古代に大量のインド人が移住してきて、いくつもの王朝を建てたのに、その遺民がそう簡単に消滅するとは思わない。ロヒンギャがラカインの先住民の血を持つ可能性はけっして低くない。

 ラカイン州の面積は偶然にも九州と同じ36780㎢で、さまざまな時期の開墾によって、現在は村の数が3800以上ある。国としては小さいが、国の体を成すには十分の容量を持っているのである。何万人ものインド系住民が現れたり消えたりしたのでなく、ずっといたと考えるべきではなかろうか。

 インド系(ベンガル系)住民は統治者でなくなったあとも、長い間ラカインを下支えしてきた。彼らの主な宗教は、仏教→ヒンドゥー教→イスラム教と変わってきた。ずいぶんと見かけは変わってきたけれども、もともとは(二千年近く前は)ベンガルなどのインドからやってきた人々なのである。

 本稿では近世、とくに15、6世紀頃、どうやってチッタゴンやラカインの人々がムスリムになっていったかについて考察を試みている。

*本文中で説明しているけれど、ラカインのカメイン族について一言。カメインことカマンは、Wikipediaによるとラカインの土着民族だという。まっとうな歴史家なら「はあ?」と声を上げるだろう。カマンはペルシア語で弓を意味すると説明があり、シッポが見えてしまっている。カマンは17世紀に亡命してきたシャー・シュジャ皇子(ベンガル知事で弟のアウラングゼーブ皇帝に命を狙われた)の警備部隊である。警備兵というよりパタン人を中心としたエリート部隊だった。彼らは主人が死んだあとラカインに残り、宮廷内で大きな権力を持った。そんな先祖を持つ人々を土着民と呼ぶとは。
インド、というよりアフガン系の血を持つムスリムを土着と称して、ロヒンギャを外国人としたいのだろう。こんな見え透いた「捏造」がウィキペディアに載っているとは。 

 

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