序説              
ラカインの先住民はインド人。問題は彼らがロヒンギャの先祖かどうか 
                             宮本神酒男 


 ネットでロヒンギャ難民に関する記事やコメントを読むと、多くの人がロヒンギャを「英国植民地時代のベンガル人不法移民」とみなしていることがわかる。おそらく長年にわたりミャンマー政府が「ベンガル人(ロヒンギャのこと)は不法移民である」と繰り返し主張してきたことで、まさに「ウソも百回言えば真実になる」という状態になっているのだ。

 ロヒンギャの何割がベンガル人労働者の子孫かはわからない。3割いてもおかしくないし、1割以下かもしれない。実態は誰にもわからない。もし全員がベンガル人労働者の子孫であったとしても、彼らは不法労働者ではなく、合法労働者だった。それにそれから何代にもわたって住んでいるのなら、立派なベンガル系ミャンマー国民とみなされるべきだろう。

 ロヒンギャ問題をわかりにくくさせている最大要因は、ラカイン(旧名アラカン)の先住民がインド人(ベンガル人)であることを多くの人が知らないことだ。現在、ラカインはミャンマーの一州であり、住民のラカイン人もバマー族(ミャンマー族)から枝分かれした民族なので、ずっと昔からここにはミャンマー人が住んでいると思われがちである。

 先住民はあきらかにインド人(ベンガル人)である。

 数多の考古学的発見から、遅くとも4世紀までには仏教とともにインド人がアラカンにやってきていた。マハムニ寺院が建立されたのは4世紀頃で、多くの仏像もこの時期に作られている。ただもともと仏教は偶像を嫌う宗教で、3世紀以前に仏像がないからといって仏教がなかったとは言い切れない。また仏教と関係なく、インド人の農民と漁民がラカインまでやってきていたかもしれない。今も「バングラデシュ人(東ベンガル人)は米と魚からできている」という諺があるくらい、ベンガルでは稲作と漁業がさかんである。ラカインも昔から稲作と漁業がさかんだった。

 私は小さな舟をチャーターしてラカイン州のレムロ川を旅したことがある。どこに行っても零細ながら漁民が魚を獲っている姿を見ることができた。数人で大きな網を仕掛けて数百匹の魚を捕獲するのを見た。これが規模としてはもっとも大きかった。

 インド人の稲作の歴史は世界でももっとも古く、早くから高度な灌漑技術を持っていた。

 仏教が最初に伝わった古代の都ダニャワディから、仏教のあとヒンドゥー教が栄えた2番目の都ウェーサリー、アラカン王朝(ムラウー王朝)の都ムラウーへと続く広大な平地は、ラカインでもっとも古い田園地帯だった。この地域には細い静脈のような小川がたくさん流れ、田んぼの間に水路が張り巡らされた。

 11世紀頃までに統治者でなくなったインド系アラカン人はどこへ行ったのだろうか。民衆はおそらくそのまま農業や漁業をつづけたのではなかろうか。新しいミャンマー系の統治者(ラカイン人)は彼らの米や魚を買っただろう。租税も徴集しただろう。

 ベンガルでは1200年頃、急速に仏教徒が減り、絶滅危惧宗教となっていた。僧侶らはスリランカに難を逃れた。ベンガル人の多くはヒンドゥー教徒だったが、しだいにムスリム(イスラム教徒)の割合が増えていた。準ベンガルというべきアラカンのインド人も、ヒンドゥー教徒が多かったが、ムスリムに改宗していった。なぜ改宗したかといえば、彼らは低カーストのシュードラが多く、バラモンが少なかった。いわば民族自体が差別されていたのである。低カーストがムスリムに転じるのは今でもよくあることで、私のビハール州の友人も同じ理由でムスリムになった。もう一つの大きな理由は、君主がムスリムの場合、商売を行うにはムスリムになったほうが都合がよかったからである。ムスリム・ネットワークを利用して交易の範囲を広げることもできた。

 13世紀頃からイスラム教の宣教がいっそう盛んになった。その役目を負ったのはスーフィズム(イスラム神秘主義)だった。ヒンドゥー教の神秘主義とイスラム教の神秘主義はよく似ていた。カビール(1440?-1518?)やシルディ・サイババ(1838-1918)を見ればわかるように、イスラム教スーフィーとヒンドゥー教神秘主義者は区別しがたかった。

 デリーあたりからたくさんのスーフィーが宣教をするためにチッタゴン、アラカンを含むベンガルへ送られた。代表的なのがデリー近くのメールト出身のシャイフ・バドゥルッディーン(あるいはピール・バドゥリ・アラム ~1440)である。ピール・バドゥル伝説自体はほとんど神話のようであるが、実在の人物である。「岩に乗ってチッタゴンへ行き、魚に乗ってアラカンにやってきた」という寓話のような伝説がある。

 アラカンに宣教の役目を持ったスーフィーが派遣されるのは、アラカンにヒンドゥー教徒のインド人がたくさんいたことを示している。実際、宣教活動の結果、彼らはムスリムになった。彼らの大半はヒンドゥー教徒で、仏教徒も一部残っていたが、仏教といっても大乗仏教で、ミャンマー系ラカイン人のテーラワーダ仏教とは大いに異なっていた。いずれにせよ、彼らはヒンドゥー教や仏教を捨て、インド全体で潮流となりつつあったイスラム教を信仰するようになった。

 16世紀にはたびたび集団改宗が起こった。ミャンマー系でなく、インド系(ベンガル系)の集団がムスリムにいっせいに改宗したのである。ムスリムになって、はじめて彼らはロヒンギャとなった。彼らが我々の考えるロヒンギャの基本集団である。カマン(パタン人警護兵)や奴隷ベンガル人、ベンガル人労働者も混じり、溶け込んだが、基本的には先住民のインド人(ベンガル人)が改宗してムスリムになった人々がロヒンギャである。

 では先住民のインド人がロヒンギャの先祖であるといえるのか。

 「先住民インド人=ロヒンギャの先祖」と結論づけるには、最後の、そして最大の難関がある。それは1784年、ボードーパヤ王率いるコンバウン朝ビルマ軍がアラカンに侵攻したとき、ラカイン人(仏教徒)やアラカン・ムスリム(ロヒンギャ+奴隷+カマン)をどのくらい殺したか、どのくらいチッタゴンに追いやったか明確にはわからないことだ。虐殺して、生き残った人々は逃げ、誰もいなくなった、とするのは単純化しすぎている。農民を殺すより、たくさん稲を育てさせ、税として米を出させたほうがいいに決まっている。実際、ビルマ軍がシャム(タイ)に侵攻するに際し、アラカン人に米の供出を命じている。

 今現在もチッタゴン内に何万人ものラカイン人(仏教徒)やアラカン・ムスリムが居住しているという。しかし1826年にアラカンが英国に併合されることで、ビルマの抑圧から解放され、多くのラカイン人やアラカン・ムスリムが戻ってきたはずである。19世紀後半、ベンガル人労働者がアラカンに入ってきたが、そのうちのどれほどが難民アラカン人であるかはわからない。

 20世紀前半のベンガル人労働者はほとんどが季節労働者だったという。移民を受け入れる余地がなかったということだろう。シーズンだけアラカンで働き、シーズンオフになれば故郷のチッタゴンに帰った。チッタゴンとアラカンの間には山のような境目はなく、川を渡りさえすれば歩いて行き来ができた。今の難民キャンプがあるコックスバザールからなら一日でアラカン北部に行くことができた。チッタゴンの町からだって一週間もあればマウンドーにたどり着けたろう。

 英国人はアラカン・ムスリムといってもさまざまな人がいるのに、とくに古くからいるムスリムとベンガル人労働者は区別すべきなのに、モハメダン(イスラム教徒)の一言で片づけようとした。植民地の主としては、人頭税を取り立てるために、数をかぞえることが何よりも重要だったのだろうが、実体の把握ができなかったために、現在のロヒンギャ問題が生まれたともいえるだろう。ロヒンギャ=ベンガル人労働者説を唱えたのも英国の専門家だった。






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