(2)天竺僧はマイナマティ、アラカン、バガンを通って南詔に到達したのか 
 南詔に来た天竺僧 

ミャンマー人の起源は中国北西 

 ミャンマーの歴史を中国北西部から始めようとするのは、中国人歴史家ぐらいのものだろう。「第17章 中国から見たロヒンギャ」で示すように、彼らはそこから語り始めたがるのである。中国人の論理で言えば、ミャンマー人は言語的にもイ族やハニ族、ラフ族、リス族らとかわらず、その意味では中華民族のひとつである。これはもちろん危険な考えだ。

 チベット・ビルマ語族の分布を見ると、花火のしだれ柳のように広がっている。しだれ柳の左側に分布するのがチベット人であり、裾に分布するのがミャンマー人である。

 しだれ柳の出発点は、青海省と甘粛省の間、すなわち祁連 (きれん)山脈から河湟地区にかけての古代羌族、氐族の地域とみられ、チベット・ビルマ語族の「故郷」として有力である。ただネパールの山岳民族のグルン族(チベット・ビルマ語族)は伝統的に起源地をもう少し北のモンゴル西部ととらえている。ちなみにグルン語で太陽はニ(nyi)だが、日常的にはタイヤンと呼んでいる。タイヤンはあきらかに漢語の太陽で、かつて漢語が使われている地域に居住したことを示している。

 チベット・ビルマ語族の多くの民族は、死の儀礼のとき、死者の魂を民族の起源地へ送る風習を持っている。つまりこのルートをたどっていけば、民族の起源地がどこで、どうやって現在の居住地に来たかがわかるのである。現在のミャンマー人はこの風習を持っていないが、その言語から、他のチベット・ビルマ語族と同様、中国北西部から(あるいはモンゴルから)南下してきたとみられる。そして『白狼歌』を残した二千年前の白狼羌族が彼らの祖先ではないかと考えられている。

 「補遺2 チベット・ビルマ語族語彙比較表」を見ればわかるように、ミャンマー人はイ族、ナシ族、ラフ族、ハニ族、ジンポー族などと同様、チベット・ビルマ語族の一つなのである。また下に述べるように、チンタウ人やアチャン族はミャンマー人のもとの民族と関係が深いように思われる。 

 現在のミャンマーの中心部ともいえるエーヤワディー川流域に最初に国らしきものを築いたのは、ピュー人(驃人)だと言われる。中国の文献からは3世紀にすでに存在が認められるので、1世紀か2世紀にはこの地域に到達していただろう。


人口百人の超少数民族はミャンマー人の先祖? 

 雲南の少数民族の言語を見ると、単独の民族でなくても、複数の民族のなかにピュー人やミャンマー人の先祖が浮かび上がってくる。ミャンマー語に近い言語としてアチャン語やツァイワ語のほか、絶滅危惧種ともいえるチンタウ語がある。チンタウ語はミャンマー語に近いではすまされない類似性がある。人口わずか100人の文字通り絶滅の危機に瀕しているこの民族は何者なのだろうか。

 たとえばチンタウ語で「芽が出る」は「ア・ングン・ト」という(アチャン語もおなじ)。ミャンマー語では「ア・ンゴン・トゥワ」でほぼおなじである。これは「異常接近」だ。ミャンマー人の祖先とチンタウ人が深い関係にあるのはまちがいない。

 神話伝説によれば、アチャン族の先祖は三兄弟だった。長男がチンタウ人で、二男がアチャン族、三男がツァイワ族(ジンポー族の支族)である。
[註:ツァイワ族はジンポー族の支系とされるが、厳密には別民族である。歴史のある段階で、ジンポー族が支配者民族となったのだろう。わたしは以前、雲南省徳宏州である女性を紹介されたことがあるが、彼女は「世が世ならツァイワ族の王女様」という説明を受けた]

 中国西南のほぼすべての民族がこの種の「先祖の兄弟」伝説を持っている。通常、長男がもっとも古く、大きな民族である。しかしアチャン族の先祖の長男はいまにも消滅しそうな少数民族である。チンタウ族はかつて大民族だったのではなかろうか。古代チンタウ人はエーヤワディー川流域に入り、ピュー人やモン人などと混ざってミャンマー人が形成されたのだろう。そして雲南に取り残された彼らは滅亡しかかっているのである。


ピュー人、南詔人、ビルマ人 

 ピューは、いわばいくつかの都市国家の集合体だった。その都というべき中心地は、現代の都市ピイ(英占領下ではプローム)近くのレンガの城壁に囲まれたシュリー・クシェートラ(タイェーキッタヤー)だった。

 5世紀までにはインド文化に染まっていた。王族はサンスクリット語の称号を採用し、黄金板にパーリ語の仏典を刻み込んだ。仏教(大乗仏教、テーラワーダ仏教)だけでなく、ヒンドゥー教の信仰のあともあった。ガンダーラ時代のインドの仏塔に似た仏塔が建てられた。われわれが目にするバガンのおびただしいパゴダ群も、もともとピュー人が建てたものの上に築かれたものである。そのことは、発見された何千ものレンガからわかる。ピュー人のレンガには、独特の紋章と指形の印がついているのだ。

 9世紀はじめ頃からたびたび南詔(649-902)の軍隊がピューを侵略した。とくに832年、彼らはピューの都市群を破壊し、3千人の住民を連行したとされる。ただこのあたりのことは、中国側の資料に書かれていないため、確認が取れない。南詔は829年に成都へ軍を差し向け、そこからも数万人を連れ帰ったとされる。普通に考えれば、同時に南北に侵攻するのは困難ではないだろうか。あるいは、百数十年にわたって唐や吐蕃と張り合っていたのだから、相当の国力を有していたということかもしれない。

 9世紀から10世紀頃、ビルマ人が南下してきて、弱体化したピュー人の地域を奪っていった。しかしビルマ人はどこにいたのだろうか。南詔軍とビルマ軍はじつは同一なのではなかろうか。いや、もちろん、そういうことはなく、ピュー人、ビルマ人、南詔人はいずれもチベット・ビルマ語族で互いに似ているが、異なる民族であったと考えられる。[「補遺3 8世紀の、そしてそれ以降の南詔、吐蕃、唐」参照] 


バガンのアリ仏教はタントラか 

 バガン朝の仏教美術や建築がどのようにインドの影響を受けたのか、はっきりとはわかっていない。ただパーラ朝の強い影響下にあったのは間違いない。インド人の工匠がバガンで仕事をしていたことは碑文から確認できるが、このインド人工匠がどこから来たかは書かれていない。

 伝説によれば、昔(紀元前のマウリヤ朝の頃)、アショーカ王はソナとウッタラが率いる仏教伝教団を下ビルマへ、マヒンダ率いる伝教団をスリランカへ送った。ダンマラッキタ率いる伝教団はバガンへ派遣された。彼らの任務は、住民を仏教徒に改宗することだった。しかしダンマラッキタが当地を訪ね、伝教し、去ったあと、仏教はすぐに衰退してしまった。

 バガンには輝く赤い衣をまとったエセ修行者、あるいは偽僧侶であふれるようになっていた。この僧侶たちはとんでもない輩で、結婚前夜の花嫁の処女を要求したという。しかも彼らは国王から支持されていた。これがアリ仏教だった。そして彼らが使うさまざまなシンボルは、善良な心を持った仏教徒には耐え切れないものだった。このアリ仏教(ミャンマー語の発音でアイ・ガイン。アリ僧はアイ・ジ)は淫靡な邪教として悪名高いが、実際はチベット仏教とかわりはなかった。チベット仏教もラマ教と呼ばれていた頃はいろいろと誤解されていたが。

 こういう状況の中で、ビルマ人の最初の国王、偉大なるアノーヤター王が登場するのである。パーリ語文学に描かれるアショーカ王をモデルとして、王は慈悲あふれる善政をおこない、清らかなな仏法の勝利者となった。アノーヤター王がテーラワーダ仏教を選択したことによって、大乗仏教および密教は衰退し、消滅する。

 しかしもう一度アリ仏教について考えよう。アリ仏教は、インドのパーラ朝が信仰したタントラ仏教(密教)とほぼ同一だったのではなかろうか。「国王から支持されていた」ということは、アリ僧たちは国家鎮護の修法をおこなっていたということである。「結婚前夜の花嫁の処女を要求した」というのも、タントラ仏教を攻撃、排斥するときの常套の捏造話である。修業中、観想のなかで修業僧はイェシェ・ツォギェルのような明妃(みょうひ)を思い浮かべる。実際、チベット仏教のヤブユム像は男女合体像であり、密教信者以外からすれば、汚らわしいものと映るかもしれない。もちろん性力派(シャークタム)が実際に入っていて、本道を大きくはずれていた可能性もあるが。

 アノーヤター王が痕跡が残らないほど徹底的に破壊してしまったが、バガン、あるいはバガン近郊にかなり大きなタントラ仏教、大乗仏教を奉じるインド人共同体があったのではなかろうか。しかし周知のように、インドの中で仏教はヒンドゥー教に敗北し、イスラム教の台頭によって姿を消すことになる。インド、とくにベンガルではムスリム化が進むが、バングラデシュではいまだ9%がヒンドゥー教徒である。ベンガルの仏教徒の多くはスリランカに難を逃れた。しかしアノーヤター王が登場する三百年から四百年前、当時はピュー人が統治していたが、バガンは大乗仏教、タントラ仏教の一大中心地だったのではなかろうか。


南詔にやってきた天竺僧 

 わたし自身雲南で過ごすことが多かったせいか、7世紀以降、南詔国にやってきた天竺僧(アチャリヤ僧)のことがいつも気になっていた。彼らはそもそも本当にインドから来たのだろうか。来たとすれば、どのルートを通って来たのだろうか。天竺僧は伝説にすぎず、実際には来なかったという説もある。あとで詳しく説明したいが、雲南密教があきらかに中国密教の影響を受けていて、インドの仏教僧が直接インドから来たようには見えないと一部の人は考えているようだ。しかしそう見えるのは、7世紀から8世紀にかけて多数の天竺僧がやってきたが、そのあとぷっつり途絶えてしまったからではなかろうか。仏典すら事欠くなかで、それを補ったのが中国密教だったのではなかろうか。

 7世紀から8世紀にかけて、インドの密教は勢いがあり、さかんに周辺での伝教活動がさかんだった。チベット(吐蕃)のソンツェン・ガムポ王の時代にインドから仏教が入り(伝説では中国仏教ももたらされた)、8世紀には第二のブッダと呼ばれるパドマサンバヴァや学僧シャーンタラクシタがインドからチベットにやってきた。国の勢いもあり、チベットは長安を一時支配し、現在の新疆ウイグル自治区やパキスタン北部まで版図に収めた。しかし9世紀に入ると暗転し吐蕃は滅亡し、仏教の信仰の熾火(おきび)も消えてしまいそうだった。もしこのまま終わっていたら、チベット仏教は存在しなかったかもしれない。

 チベット仏教再興に大きく貢献したのは、西チベット出身のロツァワ(翻訳官)リンチェン・サンポ(958-1055)だった。彼が翻訳した150冊の仏典がなければ、チベット人が仏教徒になることはなかったかもしれない。雲南密教にはリンチェン・サンポが現れなかったのだ。結局翻訳された仏典も足りず、儀礼のやりかたもわからないのに、インドからあらたにアチャリヤ僧がやってくることはなかった。そのために中国密教の漢訳が必要となったのだろう。初期の雲南密教が好んだ神格が観音、大黒天、財神(毘沙門天)で、チベットとおなじであったことも傍証になるだろう。

 パーラ朝の僧侶アティーシャ(982-1054)は、チベットに入り、ほとんど枯れかけていた仏教の種を蒔くことができた。ヴィクラマシーラ僧院長のアティーシャは、リンチェン・サンポと並ぶチベット仏教再興の功労者といえるだろう。吐蕃時代にもたらされた仏教は、十分に根づいていなかったのだ。

 パーラ朝の時期の仏教の中心地マイナマティ(ダッカの南東100キロ)から、アラカンを通ってバガンに至る「仏教の道」があったのではなかろうか。この道はエーヤワディー川沿いに遡上し、バーモーかミッチーナから峠を越えて現在の雲南省に入り、騰沖から保山を経て、大理に到達したことだろう。天竺僧はこのルートを使っただろう。南詔はこの道を利用してミャンマー内に入り、侵攻したはずである。ビルマ人もこのルートで南下しただろう。天竺僧はマイナマティから来たのか、アラカンから来たのか、あるいはバガンが出発点だったかもしれない。



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