(4) いつのまに彼らはムスリムになったのか 

 Photo: Mikio Miyamoto
ラカイン沿岸部はのたうち回る蛇のような川だらけ。機内より撮影


イスラム教伝来の伝説 

 いつのまに彼らはイスラム教を信仰するようになったのだろうか。ベンガル全体がイスラム化するずっと前、8、9世紀には、アラカン(ラカイン)沿岸部に種が蒔かれるように、イスラム教信仰が点在するようになった

 
伝説によれば、7世紀後半、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤ(預言者ムハンマドの従兄弟であり、娘婿アリーの息子)率いるアラブ人たちがアラカンに定住した最初のムスリムとなった。彼は女王カイヤプリと結婚し、彼女はムスリムに改宗した。アラカンの民も集団でムスリムに改宗したという。彼らが住んだ山は、今もハニファ・トンキ、カイヤプリ・トンキと呼ばれている。[ハニファは部族名] 

 
クルアーンの時代の主要人物がアラカンに来たとはとうてい信じられないが、海の覇者であったアラブ人が早い時期にアラカンに来たとしても、それほど不思議なことではない。この年代が正しければ、女王カイヤプリはもともと仏教徒だったであろう。もう少しあとの8、9世紀であればヒンドゥー教徒であったに違いない。いずれにしてもアラカンの民はインド人(ベンガル人)だった

 
こうした伝説が示すように、ムスリムのアラブ人商人がイスラム教の運搬役になっていた。そのことを端的に表すのが、788年、アラブ船がラムリー島沖で難破したエピソードである

[註:第二次大戦中、日本軍が英国軍と戦って敗れ、一説には千人の兵士がワニの餌食となったことでラムリー島は知られる。現在は中国の支援でチャウピュー港が建設され、雲南省昆明までの中緬原油ガス・パイプラインが通された。ヒストリーチャンネルの番組「激闘!恐怖の人喰い獣スペシャル」(2019)では男二人がこの島の伝説の鼻の白い巨大ワニを捕獲している(丹念に調べたあと放たれた)

 アラブ船の船員たちはウェータリーの王宮に送られ、そのあと近郊の村に定住させられた。当時の王朝は、ヒンドゥー教を信仰していた。一方国民は、ヒンドゥー教徒、仏教徒が入り混じっていただろう。そこに一滴のイスラム教のしずくが落とされたにすぎなかった。しかしそれから四百年後、インド系の先住民の多くがムスリムになっていた。

[註:世界には多くの漂着しやすい場所がある。ラムリー島もその一つかもしれない。私になじみがあるのは海南島南部の三亜だ。鑑真和尚は五度目の渡航に失敗し、振州(三亜)に漂着した。現在の崖州区である。ここは漂着する船が多く、ペルシア人の村ができていたとも言われる。三亜市郊外の回族の村もそうやってできた地区で、彼らはマレー系の言語を話すという] 


歴史上のイスラム教伝来 

 エナムル・ハク教授と歴史家アブドゥル・カリム・シャヒティヤ・ヴィサラドによると、10世紀半ばにはすでにチッタゴンの小さな王国にまでアラブの影響が及び、王国の支配者はスルターンと呼ばれた。このスルターンの領域はメグナ川(ダッカのすぐ東)とナーフ川(バングラデシュとミャンマーの国境)の間だった。現在のチッタゴンのノアハリとコミッラを足した領域だ。ロシャン(ラカイン)の年代記でも、このスルターンの存在を確認できるという。[チッタゴンの最初のスルターンに関しては、後述する説と矛盾している] 

 953年、ロシャン王スラタイン・チャンドラ(在位951-957)は国境(ナーフ川)を越えてバングラ(ベンガル)に入り、トゥラタン(スルターン)を破った。そして勝利の象徴としてチャイッタゴン(Chaiktagong)に石柱を立て、廷臣や友人たちの求めに応じて国に戻った。このチャイッタゴンとは、「もう戦いは起こさない」という意味だった。この言葉からチッタゴンという地名が生まれた。

 10世紀、チッタゴンにはムスリムの共同体があるだけでなく、スルターンがムスリム・スルターン国を統治していたことがうかがえる。

 ハク教授らによると、イスラームの教えは8世紀から9世紀頃すでにゆっくりとメグナ川からロシャン王国へと広がっていた。14世紀の旅行家イブン・バトゥータや16世紀のポルトガル人海賊の記録から、ムーア人やアラブ人の影響が高まっていった様子を知ることができる。13世紀にベンガルにムスリム王朝が樹立するずっと以前からイスラームの波はベンガルのはずれの地方にまで届いていたのである。後述するように、ベンガル文学がはじめにアラカンで花開いたのには、こういった時代の流れがあった。

 さて一方、古代ビルマの偉大なる王として知られるバガン国アノーヤター王(1014―1077年)は、アリ仏教と呼ばれるタントラ仏教を含む大乗仏教を排除し、モン族が信仰するテーラワーダ仏教(上座部仏教)を国教として採択した。

 11世紀後半、アノーヤター王を継いだチャンシッタ王は、ラムリー島から3000人のインド人捕虜を連れ帰った。そして彼らをミンチャン(Myint Kyan)とミッティラ(Miktilla)に分けて定住させた。ウー・チョー・ミンが言うように、ラムリー島にさえこれだけのインド人がいるのなら、ラカイン全体にはどれだけインド人がいたのだろうか。

  ベンガルが本格的にイスラム化したのは1201年頃と言われる。この年に何があったのだろうか。具体的には、中央アジアのテュルク系民族出身のムハンマド・バフティヤール・ヒルジー率いるヒルジー部族(Khilji ハルジーとも)によって、ベンガルが征服された年であった。これによって、ベンガル全体のイスラーム化が一挙に進んだのである。別の言い方をするなら、ナーランダー僧院なども破壊され、インド内の仏教が絶滅した年であるともいえる。アラカンにおいても、ベンガル人(ロヒンギャ)の多くはムスリムに転向し、インド系の仏教徒はいなくなっていた。


スーフィズム(イスラーム神秘主義) 

 21世紀に入り、アルカーイダやISなど原理主義テロリスト・グループによるテロが横行するようになると、古い時代のイスラーム教はより原理主義的だったのではないかと誤解されがちだが、実際はその逆である。イスラーム教の普及に、原理主義者の目の敵にされることもあるスーフィズム(神秘主義)が役に立っていた。南アジアにおいてはチシュティ派、スフラワルディ派、カディリーヤ派、ナクシュバンディ派などが広まっていた。 

 神との合一をめざす神秘主義者は、エクスタシー体験を重視した。旋舞するダルウィーシュやカッワーリー音楽もエクスタシーを得る方法である。もっとも一般的なスーフィーのトランス会得法に、「神を思い出す」ズィクル(Dhikr)という(通常は集団の)瞑想法がある。こういう神秘体験に魅力を感じてイスラーム教に入った人もかなりいたのではないかと思われる。[註:現在スーフィーの伝統は途絶えてしまっているように思える。ロヒンギャの主流はデーオバンド派である] 

 歴史学者モシェ・イェガルは、いわばムスリム宣教師の役を務めたスーフィーの貢献はきわめて大きかったのではないかと論じている。彼らによって現地の人々はイスラームに改宗したのである。

 
アラカン年代記は、バガンのアノーヤター王の時代に、王の従者が森に入ったとき、神秘的な知恵を持ったファキール(ダルウィーシュ)と出会ったと述べている。ファキールはスーフィーと言い換えてもいいだろう。

 
東方を旅した15世紀のロシアの商人アタナシウス・二ティキンはペグーのスーフィーの活動に言及している。「(ペグーは)ただならぬ港町である。インドのダルウィーシュが住んでいるのだから。ダルウィーシュらはそこから産出されたマニク、アフート、キュルプクなどを売っていた」。ダルウィーシュはムスリムであり、おそらくアラブ人であり、当時すでにこのあたりに定住していた。


ベンガルおよびアラカンのイスラーム化 

 
ベンガルを中心に見た場合(第6章でも取り上げたい)、ベンガル・スルターン朝(1352―1576年)の時代に、アラカンのインド系のムスリムになっていない人々もイスラーム教に改宗し、支配者層(ビルマ系)も一部はイスラーム教を信仰した、あるいはビルマ名のほかにイスラーム名を持つなど、ムスリムのふりをした。アラカンの王族もまたスルターン国と呼ばれたかったのかもしれない。また一部の歴史家は、当時チッタゴン地区はアラカンの一部だったと主張している。つまり百年間以上にわたって、チッタゴン地区とアラカンは一つの国であり、民族もかなり混じり合ったということである。一方、アラカンはベンガルの準属国だったと主張する歴史家もいる。つまり、アラカンはチッタゴン地区を併せて大きな国になっていたが、同時にベンガルの準属国になっていたということだろうか

 
このようになる経緯は以下のごとくである。アラカンのイスラム化を促進したのは、アラカン王ナラメイッラ(ミン・ソー・モン)のベンガル亡命だった。1404年、ビルマ(アヴァ朝)からの圧力に屈し、アラカン王はベンガルの都ガウルに庇護を求めた。しかし亡命中、新しい戦術を示してジャウンプールからの侵略を撃退することに成功し、イリャス・シャヒ朝のスルターン・ギヤスッディーンから高い評価を得た[1404-1430年は、アラカンはアヴァ朝のビルマに支配されたとみなされる]    

 
イリャス・シャヒ朝第一期と第二期の間のスルターン・ジャラールッディーンは、ワリ・ハーン将軍率いる5万人の軍隊をアラカンに送った。しかしワリ・ハーン将軍はビルマ軍を駆逐すると、自ら王となった。スルターン・ジャラールッディーンはサンディ・ハーン率いる第二の軍隊を送り、ワリ・ハーンを失脚させ、亡命していた君主ナラメイッラを復位させた。これは1430年頃のことである。サンディカン(サンディ・ハーン)・モスクがムラウーに建立されたのもこのときだった。しかし問題は、アラカン王が傀儡になってしまい、ベンガルに操られるようになってしまったことだった。ナラメイッラ国王がアラカンに戻ってきたとき、1万人のパタン人(パシュトゥーン人)の傭兵部隊もいっしょだった。彼らが新たにスタートしたムラウー王朝に大きな影響力を持ったであろうことは、想像に難くない。 


アラカン人のムスリム集団改宗 

 16世紀はじめ、ムラウー朝第9代国王ザラタ・ミン・ソー・モンは、ウー・カディル、ハヌ・メアー、ムサ率いるインドから来たムスリム布教団にイスラム教の宣教を許可した。彼らはさまざまな場所にモスクを建て、さらにインドから新たに宣教師を招いた。この布教団は何十年も活動し、その成果は大きかった。驚くほどたくさんの人々がムスリムに改宗した。ここで注意しなければならないのは、ムスリムに改宗した人のほとんどはインド系ではないかということだ。

 ムラウー王朝の第11代国王ミン・バジ・ザバウ・シャー(在位1531-1552)のとき、年長の仏教徒が警告を発した。国王は朝廷でこの問題を論じ、布教活動を停止させた。しかしすでに数十万人ものムスリムが生まれていたという。

 『ラカイン・マハ・ラズウィン』(偉大なアラカンの歴史)のなかでタ・トゥン・アウンは、15、16世紀にアラカン人が集団でイスラームに転向したと書いている。これは具体的には上に述べたことを指しているのだろう。[集団改宗の例は補遺4(チベット族のイスラーム集団改宗)を参照] 

 ムスリムに転向したアラカン人とはもともと住んでいたインド系のアラカン人だったと思われる。仏教徒ラカイン人(ビルマ系)がムスリムになった例をほどんど聞かないので、ヒンドゥー教や仏教を信仰していたインド系の人々が転向したと考えるべきなのだ。インド系の人々は、すなわちロヒンギャの先祖は、殺されたのでもなく、駆逐されたのでもなく、ある程度はラカイン人のなかに溶け込んでいたのである。そしてイスラーム志向の強いムラウー王朝(1430-1784)のなかで、ベンガルにあこがれを持つベンガル系の人々(ロヒンギャの祖先)の多くはムスリムになったのではなかろうか。

 アラカンはムスリム君主国(スルターン国)の属国として、1531年まで従属していた。彼らはムスリム文化を宮廷に取り入れ、カリマー(ムスリム信条)をアラビア語で刻んだコインを鋳造した。ベンガル文学はアラカン宮廷に花開いた。ムラウー朝の国王はみなムスリム名(称号)を持った。

 アラカン宮廷は仏教徒であったにもかかわらず、イスラーム文化へのあこがれを隠そうとしなかった。それについてモシェ・イェガル博士はつぎのように説明する。
「彼らは臣民の多くがムスリムに転向していたことに影響を受けていた。実際、宮廷が仏教徒であったにかかわらず、多くのムスリムが朝廷の高位に就いていた」

 さて、ベンガル・スルターン朝の最後の王朝、アフガン人(パタン人)のカララーニー(Karrani)朝は、1576年にムガル帝国のアクバルに滅ぼされ、ベンガルはムガル帝国に併呑された。この時期、ムガル帝国の版図はベンガルからアフガニスタンに及ぶ世界的な大帝国であり、ベンガルの準属国的な地位にあったアラカンは、そのままこの大帝国の準属国に横滑りしたことになる。


ベンガル文化の花開くアラカン宮廷 

 アラカン宮廷(詩人たちはアラカンをロシャンと呼んだ)の文学サロンを主宰するのはミン(国王)だが、第三者は彼をスルターン(ムスリム君主)と呼びたくなるだろう。主賓の詩人たちだけでなく、パトロンの大臣たちもみなムスリムだからだ。彼らはベンガル語とラカイン語のバイリンガルだった。外見はベンガル人そのもの。臣民もまた半数以上がベンガル系だったかもしれない。彼らを無視した統治は考えられなかった。

 17世紀、ふたりのベンガル詩人がアラカンの宮廷で寵愛された。チッタゴン生まれだが、アラカン宮廷に愛されたダウラト・カズィ(1600-1638)はティリ・トゥダンマ王(在位1622-1638)のとき、ラスカル・ワズィル(ベンガル語で軍事大臣)であるアシュラフ・ハーンの庇護を受け、『サティマイナ・ロル・チャンドラニ』という詩文集を編纂した。ただ、カズィが急逝したため、完成には至らなかった。

 それを完成させたのはアラオル(1607~1680)だった。アラオルは1600年頃、ベンガルに生まれた。父親はファテハバードのザミーンダール(大地主)マジリス・クトゥブのもとで(一説には大臣として)働いていた。あるときアラオルは父とともに舟で旅をしていたところ、ポルトガル人の海賊に襲われ、父が殺された。アラオルはなんとか逃げて、泳いでアラカンの岸に渡った。しかし彼は奴隷としてアラカン王朝に売られてしまう。

 彼はのち騎兵隊に入り、護衛になるが、育ちのよさ、知識、楽器の巧みさが知れ渡った。王のもとの首相であるマガン・タクル王子はアラオルに弟子入りするとともに、パトロンとなった。彼は代表的な作品『パドマワティ』を編纂した。この作品のもとになったのは、北インドのスーフィー詩人ジャヤシがメワル国の女王パドマワティの生涯について書いたものだった。これはアラカン王タド・ミンタル(在位1645-1652)のときに編纂された。

 アラオルはアラカン王のもとの首相スリマト・スライマン、サイード・ムーサ王室大臣、ムハンマド・ハーン軍司令官、マジュリス・ナバラジ税務大臣らの庇護も受けた。元首相スライマンの要望にこたえて、カズィの未完の『サティ・ナイマナティ』を完成させた。アラオルはさらに、ベンガル語、アラブ語、ペルシア語の作品を翻訳した。そして音楽に関する論考を書き、ラーダとクリシュナを主題とした韻文を著した。

 ここに挙げたダウラト・カズィやアラオルは、アラカンというより初期ベンガル文学の代表的な詩人である。アラカン宮廷がベンガル文学のサロンとなっていたのだ。なお高官がみなムスリム名を持っているが、実際にムスリムなのだろう。ベンガル文学サロンに参加していたのは、ベンガル語を解せるムスリムの人々であったはずだ。サロンの実質的な主宰者がムスリム高官であった可能性がある。

 このふたり以外にも、マルダン、シャムシェル・アリ、アイヌッディーン、アブドゥル・ガニといった名が挙がるが、彼らはチッタゴニアンかもしれない。1580年から1666年までチッタゴンはアラカンの統治下にあったので、チッタゴンにいたのか、アラカンにいたのか、はっきりとはわからない。



⇒ つぎ