(12)過激国粋主義仏教
仏教僧ウィラトゥ師の登場
2012年のロヒンギャ虐殺が起きた頃、ラカインの僧侶たちが配ったパンフレットの言葉には訴える力があった。「ロヒンギャはわれわれの土地を盗み、われわれの水を飲み、われわれ人民を殺している。われわれの米を食べ、われわれの家の近くに住んでいる。われわれは彼らと絶縁するほかない。ムスリムとこれ以上かかわりを持つことはないだろう。ロヒンギャは家(バングラデシュ)に帰れ」。またある僧侶は「世界中に多くのイスラーム教の国があります。彼らはそこへ行くべきなのです」と語っている。
この僧侶はあきらかに当時名前が売れ始めていたウィラトゥ師の影響を受けている。969運動(ミャンマー仏教の過激民族主義運動)を主導し、マバタ(MaBaTha
日曜学校の副読本製作から始まった愛国主義的な仏教グループ)を推し進めてきた僧侶ウィラトゥ師(1968~ )という特殊な人物を仏教の代表者のように扱うべきではないかもしれないが、ミャンマー人の庶民の心理に多大な影響を与えてきたのは疑いようがない。
彼は「仏教のビンラディン」と呼ばれ、反イスラームを振りまくアジテーターである。金を持つアラブが世界を動かしていると陰謀論のような主張をし、ロヒンギャへの攻撃を正当化し、そそのかしてきた。日本でもそうだが、極右論者が特定のターゲットを声高に批判すると、広く支持を集めることができる。ウィラトゥ師もビルマ人仏教徒のイスラーム嫌いにつけこみ、支持者を増やしてきた。2003年から12年まで収監されていたが、出所すると、国内にいわばナショナリズム・ブームを巻き起こした。「仏教テロの顔」というタイトルとともに、アジア、ヨーロッパ、アフリカ版タイム誌(2013年7月1日号)の表紙を飾って以来、世界的に知られるようになり、ウィラトゥ師はいわば反イスラームの、あるいはロヒンギャ弾圧の象徴となった。なお2020年11月より21年9月までふたたび収監されていた。最近は自由の身になっただけでなく、国家に貢献したとして、軍事政権からティリピャンチという国家賞を授与されている。
過激国粋主義
しかしもしかすると、ウィラトゥ師以上の難敵と言えるのが、僧侶として民衆から広く尊敬されている(来日したこともある)ティータグー長老(サヤドー 1937~ )のような人物の発言である。彼は講演で、スリランカで五世紀に仏教僧侶が編んだパーリ語の叙事詩『マハーヴァンサ』を例としてあげた。(以下は『ロヒンギャ危機』からの引用)
「自身が引き起こした戦争で多くのタミール人を殺害したことを王は気に病んでいた。そこに八人の阿羅漢が訪れる。彼らは王に対して、王よ、悲しむ必要はないです、と説く。タミール人のうち、仏教の三宝に帰依する者は一人、仏教に帰依はしないが五戒を守っていた者が一人です。この、一人と半分の人間を、王は殺したに過ぎません」。
この仏教徒以外は殺しても罪にはならない、という考え方には身の毛がよだつ。何万人殺そうが、仏教徒でなければ罪にならないのだろうか。こんな考え方が容認されるなら、仏教徒をやめてしまおう、と思う仏教徒も多いのではなかろうか。スリランカでもタミール人を殺したときの言い訳にこの節は引用されるのだろうか。仏教にはしばしば外道という言葉が登場する。それはヒンドゥー教の教義や考え方の多くの点が共通していながら、根本的な違いがあり、かつ信徒集めで競合しているからこそ、そういう呼び方をしたのである。
現在、仏教にとって、外道的存在はイスラム教ということになる。だから不法移民の外国人であり、外道(ムスリム)であるロヒンギャを排除するのは、仏教徒としては正しい行いであると、ミャンマーの仏教徒の民衆の多くは考えてしまうかもしれない。
さらにティータグー・サヤドーはウィラトゥ師を「同志」とさえ呼んでいる(2019年)。今や国粋主義僧侶の代表的な存在になってしまったようである。
ビルマ仏教といえば、その実践や哲学が高く評価されてきた。個人的なことを言えば、瞑想師、作家として世界的に知られるジャック・コーンフィールドの著書は私の愛読書である。コーンフィールドの師匠は、タイの森の修行者アジャーン・チャーと、ビルマのMTY(Mahasi
Thathana Yeiktha)の創始者であるマハーシ・サヤドー(1904―82)だった。このマハーシのヴィパッサナー瞑想(平たく言えば、ものをありのままに見る瞑想法)は、ブッダの時代から連綿と受け継がれてきた仏教実践法の核心である。[チベット仏教でも、ヴィパッサナーは重要な瞑想法として教えられる]。ウィラトゥ師の右翼過激思想は、こうしたミャンマーのテーラワーダ仏教の伝統を破壊しかねない。
軍事政府側につくアンチ・ロヒンギャの識者の中には、ロヒンギャがジハーディスト(聖戦主義者)であるとか、ワッハーブ派であるなどとテロリストのレッテルを貼ろうと躍起になっている人々もいる。実際、テロを厭わないARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)というグループが生まれているが、それは最近の話である。
現在、国外に目を転じれば、アンチよりも、ロヒンギャ擁護派のほうがはるかに多いのではないかと思う。その先駆者というべき、1937年に国(英国)から依頼されてレポートを提出したジェームズ・バクスターは、「アラカンのムスリムは長くアキャブ地区に定住している。どう見ても先住民である。アラカンにはわずかながらカマンと呼ばれる人(ムスリム)がいる。モウルメンにはインド人ではないムスリムの共同体がある」ときわめて正確に述べている。アラカンに住んでいるムスリムが先住民であるという考えは、けっして奇矯なものではない。
しかし最近のミャンマー政府の考え方では、カマンは先住民で、ロヒンギャが外国人である。その主張に合うように、カマンは13世紀以前からアラカンに定住していたというように歴史を歪曲している。現時点(2022年11月)の英文ウィキペディアには、「カマンという言葉と1234年にアラカンに来たインドの皇子シャー・シュジャとは関係ない」と書かれている。シャー・シュジャの時代が四百年も違っているのはどうしたことだろうか。あまりにも堂々と間違えているので、よく知らない人はうっかり信じてしまいそうだ。「ロヒンギャは外国人だ」と軍事政府が主張するとき、「ではアラカンにいた多くのムスリムはどこへ行ったのか」と尋ねたくなる。そんな問いに対し、「彼らはカマンというイスラム系少数民族で先住民族だ。不法移民のロヒンギャとは違う」と答えるために作り出され捏造の歴史だろう。
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