(8)英植民地時代のロヒンギャ 



ビルマに併呑されたアラカン 

 1784年にアラカン(ラカイン)に何が起きたかは、ロヒンギャがネイティブかどうかに関わる重要なポイントである。この年、アラカンのある部隊が危険を冒してビルマのアマラプラにやってきた。コンバウン朝のボードーパヤー国王に介在を依頼するためである。実際にこの覇権主義の国王に介入を求めるものだろうか。わが国を征服してくださいと頼むようなものではないか。

 アラカンに侵攻したビルマ軍は残虐行為をおこなったのだろうか。ムスリムだけでなく、仏教徒やヒンドゥー教徒を含めた全人口の3分の2が隣のチッタゴンに逃げ込んだといわれる。ある推定によると、難民ムスリムは20万人ほどである。そうすると、一説にはかなりの住民が殺されたとされているが、実際、多くの人は殺される前に逃げ出したということである。東インド会社のレポートによれば、1799年の一年だけで3万5千人の難民がアラカンからチッタゴンに逃げたという。つまり侵略されてすぐに逃げ出したとはかぎらず、弾圧されつづけて十数年後に逃げ出すケースも多かったのだろう。

 G・E・ハーヴィーによれば、アラカンは人口が多いことはなかったという。そこにビルマ軍が入ってきて多くの人を殺したり、駆逐したりしたので、いっそうすさんだ土地になってしまった。しかしもし15年間、毎年3万5千人が難民となっていたとするなら、15年間に50万人以上が流出したことになる。後述するように、1826年の時点のアラカンの人口が10万人とすると、元の人口は60万人以上ということになる。実際はそれよりずっと多くても不思議ではない。

 ハビブ・シディキはつぎのような仮説を紹介している。1404年頃から1430年までベンガルのガウルに亡命していたアラカン国王ナラメイッラがワリ・ハーン、そしてサンディ・ハーンが率いる5千人のムスリム兵とともにアラカンに帰還した。このときのムスリム人口が年1%増加すると、1784年に16万9331人、1・1%増加すると24万369人、1・2%増加すると34万1092人になるという。これはロヒンギャの起源をナラメイッラ王とともにベンガルからやってきた兵士とする説である。実際はどうであれ、仮説としては十分に成り立つだろう。

 逆にハーヴィー説(アラカン人口過疎説)は成り立ちがたい。たとえばチッタゴンと北方のノアハリの間は人口過疎地域だが、それはこの地域が小さな川だらけで人が住めないからである。一方現在のラカイン州(アラカン)には1164の村がある。昔から農業と漁業がさかんな地域であり、サイクロンの自然災害が多いことなどを除けば、人口が過疎である理由はない。


第一次英緬戦争 

 
第一次英緬戦争が起こる40年前に、ビルマはアラカンに侵攻し、民族の魂であるマハムニブッダを略奪し、マンダレーまで運んだ。21世紀の20年代になっても、仏教徒同士ながら、AA(アラカン軍)とミャンマー国軍は頻繁に戦っている。そのときの感情を引きずっているのである

 ロヒンギャ・ムスリムはラカイン人と違って、ビルマ人に対して、そこまでの敵対心は持っていなかった。彼らは第一次英緬戦争(1824―26)のとき、中立で、大半は戦争には参加しなかった

 しかし五つの師団を率いるビルマのタド・ミンジ・マハ・バンドゥラ将軍が行進してアラカンに入り、新規で兵を募集すると、思いのほか多くのロヒンギャ・ムスリムが参加を望んだ。これがミンビャのカズィ・アブドゥル・カリム率いるムスリム軍である。[カズィはイスラーム法の裁判官] 

 しかしアブドゥル・カリムは戦闘中に生きたまま捕虜となり、カルカッタ軍刑務所に収監されてしまった。バンドゥラ将軍はのちに司令室を現在のブーティダウンに移し、新兵を募集した。[『神話なし、事実のみのロヒンギャの歴史』の著者ウー・チョー・ミンの六代前の曽祖父は新兵としてアブドゥル・カリム軍に参加したという] 

 第一次英緬戦争が終わるとともに、1826年、アラカンはビルマより先に英国の植民地になった。一時的にせよ、アラカン国はビルマから分離することになった

 
英国の植民地になったあと、どれだけのムスリムがアラカンに戻ってきたのだろうか。チッタゴンの南部やチッタゴン・ヒル地区に住む「ロハイ」と呼ばれる人々は、ビルマがアラカンを併合したときの難民の子孫だという。彼らはアラカンに戻ろうとはしなかった。難民となってチッタゴンに移り住んだラカイン人仏教徒もかなりいた。彼らの一部は、最近、ロヒンギャをミャンマーから駆逐するときに、ミャンマー内のラカイン人に手を貸している

 しかしおそらく20万人のロヒンギャがチッタゴンに逃げたときも、実際はかなり早い時期に戻ってきたのかもしれない。ラカインと現バングラデシュの国境は「ざる」で、いわば出入り自由であり、ビルマ人が残虐な行為に及んだときにはチッタゴン側に逃げ、それが収まれば戻ったのだろう

 
第二次英緬戦争(1852-53)の際は、下ビルマが英領になった。そして第三次英緬戦争(1885-86)が終わったとき、ビルマ全体が英領インドに併合され、それとともにふたたびアラカンはビルマと結合することになった

 
第三次英緬戦争終了の時点で、英国はビルマ(ミャンマー)を「行政上のビルマ」(ヤンゴンとエーヤワディー地域)と「フロンティア・エリア」にはっきりと分けた。これはビルマ族の地域とエスニック集団の外縁地域を分けたのであり、独立後、長期にわたってつづいた(今も一部つづいている)国軍と少なくとも17のエスニック・グループや敵対勢力との戦いの原因ともなった。またこの行政区分によって国内の移動に制限が設けられることになった


ベンガル人不法移民労働者? 

 
ハビブ・シディキはキン・マウン・ソーがアキャブの副長官R・B・スマートの言葉を引用していることに対し、「自らの足を撃っている」と皮肉っている。その言葉とは「1879年以来、移民が大規模に行われるようになった。そして奴隷の子孫たちがチャウトーやムロハウン(ムラウー)の大半の居住者となった。マウンドーはチッタゴニアンの移民であふれかえっていた。ブーティタウンもそれほど変わらなかった。この地区のどこにも新参者の姿があった

 
シディキは問う、スマートの言う奴隷たちとは、現在のロヒンギャの祖先でないとしたら誰なのか、と。1886年以前に、すでにカラ(インド人を指す)がいたのではないのか。彼らはどこからやってきたのか。英植民地時代に生まれたのか。(第一次英緬戦争の)1824年に生まれたのか

 
シディキはさらに問いかける。「(奴隷たちが)17世紀から18世紀にかけてのマグ人・ポルトガル人連合海賊の遺産であることを誰が否定できるだろうか。毎年少なくとも3千人のベンガル人が捕らわれの身となって、その多くがアラカンで奴隷として働かされていたのではないのか。宣教師マンリケの旅行記をもとに、アーサー・フェアは、奴隷の人口が全人口の15%を占めていたと計算した

 
わたしは基本的にアーサー・フェアやハビブ・シディキの考え方を支持しているが、1886年頃の時点では、元奴隷の人口は15%をかなり下回っていたのではないかと思う。奴隷が家庭を持つことは推奨されず、子孫が増大することはありえないからだ。奴隷が毎年3千人も送り込まれていたからこそ15%が維持されていた。奴隷売買がなくなるとともに、奴隷の占める人口も縮小しただろう。[註;わたしはネパール北西部のニンバ族(チベット人)の地域に滞在したことがある。ここでは90年代にようやく奴隷制度が廃止されたばかりで、こぢんまりとした家屋を与えられて住んでいた元奴隷の家族に会った。彼らのように、奴隷は通常、家屋を持つことも許されない] 

 
ハビブ・シディキはさらに当時の政治情勢について述べている
「東インド会社が権力を持つというアラカンの政治情勢のもと、近隣の東インド会社が統治するベンガルに定住したアラカン人難民の子孫の一部は、先祖の土地に戻って再定住することを勧められた。そこで彼らはチッタゴン(ベンガル)の南端テクナフにもっとも近いマウンドーやブーティタウンのような場所に好んで定住した。もしうまくいかなかったら、すぐにチッタゴンに戻れたのである

 植民地経営がうまくいくかどうかは、税収入と土地収益にかかっている。コメの輸出は主要貿易だった。しかし1871年の時点では、耕作可能な肥沃な土地は740平方マイルにすぎず、米の輸出10万6千ポンドは、アラカン全体の海上貿易135万ポンドの10%以下だった。アラカンの耕作地が増えれば増えるほど、土地税の収入が増加することを意味した。


人口の変動からわかる驚くべきこと 

 センサス(人口調査)については第15章でまた解析したいが、ここではどういう解釈が可能か考えていきたい。別表Aを見ていただきたい。マホメダン(ロヒンギャと解釈)の人口が1871年の30年後の1901年におよそ2・6倍に増加している。キン・マウン・ソーはこの数字は、農耕や鉄道建設などに必要な労働力を確保するための英国の移民政策を反映していると主張している。

 しかしその前に、なぜマホメダンの1871年の人口がわずか58255人(21・05%)なのか説明されなければならない。マホメダンの人口が減っていた1826年ですら、全人口の30%を占めていたのに、なぜ21%程度なのか。むしろ1901年の32・16%が元の割合に近いのである。これでもアラカンがビルマに征服されたときよりもかなり数値が小さいのである。1901年から十年後の1911年は自然増加程度の伸びしかない。つまりもう移民労働者はいなかったということなのだろうか。

 そしてもっとも目立つ人口変動はビルマ人である。割合で見ていくと、1・67%(1871)、7・42%(1901)、17・40%(1911)と飛躍的に伸びている。1871年の人口が、40年後の1911年には20倍に伸びている。ビルマ人が職を求めてアラカンに入植したということなのだろうか。また彼らはそのままラカイン人のなかに溶け込んだのだろうか。

 別表Bを見ると、興味深いことがわかる。たしかにマホメダンの人口は、1871年の2・6倍に激増しているが、人数でいえば10万人足らずの増加である。一方仏教徒(ラカイン人+ビルマ人)の増加は10万人余りである。もし増加分が外部から来た労働者だとすると、東インド会社がとくにベンガル人から募ったのではないことになる[註:東インド会社自体は1858年に解散している] 。チッタゴン港からまとめて送りこまれたベンガル人よりも、チッタゴン地区から歩いてアラカンにやってきた人のほうが多かったのだろうか。彼らが季節労働者ならなおさらである。

 また1901年以降は自然増加以上の増加がみられない。少なくとも今世紀に入ってから、移民はいなかったということがわかる。季節労働者しかいなかったのだろう。

 1871年から1901年にかけて5倍以上に増えているのがヒンドゥー教徒である。ベンガル人ヒンドゥー教徒が労働のためにアラカンにやってきたのだろうか。マホメダンと同様、難民となってチッタゴンで暮らしていたアラカン・ヒンドゥー教徒がアラカンに戻ってきたのだろうか。彼らの人口も1901年以降は自然増加程度なので、入植のためにでアラカンにやってきてはいない。

 なおビルマ全体でいえば、19世紀後半のインド人移民の60%はマドラス(チェンナイ)から来た人々、すなわちタミルナドゥ出身者である。そして1881年の調査では30%が、1901年の調査では25%がベンガルから来たベンガル人ということになっている。これはアラカンへの移民ではないので、この数字からはアラカンのベンガル人移民との関連の決め手にはならない。しかもタミルナドゥやベンガル出身のインド人労働者のうち、ベンガル出身者だけが、アラカンにのみ多く残り、定住したのだろうか。もちろんそういうことはありえないし、アラカン北部のムスリムがベンガル人労働者の子孫ということもありえないだろう。

 1920年代以降、ビルマではインド人や中国人に対する反感が強まっていった。1931年の統計では、ラングーン(ヤンゴン)におけるインド人の人口は21万2千人で(ビルマ全体でインド人の人口は百万人を超えていた)、ビルマ人の12万8千人を大きく上回っていた。英国人はヤンゴンをインド人の町にしようとしていたかのようだ。そしてついに1930年と1938年に反インド人暴動が発生してしまった。1930年代は世界大恐慌の影響で、ビルマ人農民の多くも困窮し、土地を手放さなくてはならなくなった。このとき土地を得たのがタミルナドゥ出身の金貸しカースト、チェッティアールだった。彼らはヒンドゥー教徒だったが、反インド感情から反ムスリム感情が生まれていた。アラカンにおける反ムスリム感情は、すなわち反ロヒンギャ感情だった。こうした背景のなかで1942年のロヒンギャ虐殺が起こったものと思われる。



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