(6) チッタゴンの歴史から眺めると
古代チッタゴンの仏教王朝やヒンドゥー王朝
アラブ商人によって開かれた港、チッタゴン(ベンガル語では最初チャッタガムと呼ばれた)から歴史を眺めてみよう。アラカンとビルマは、間にあるアラカン山脈が自然の障壁となり、ほとんど交流がなかった。一方チッタゴン平原とアラカンは地続きのため、つねに交流や戦いがあった。バングラデシュ南東部には、早ければマウリヤ王朝の時代(紀元前322年?-前185年?)にサマタタ王国が成立していた。この王国の領土にはチッタゴンも含まれ、アラカンにまで支配が及んだとも言われる。アショーカ王が現在のミャンマーのバガンに仏教布教の伝教団を送ったという伝承がある。この伝承の信憑性はともかく、アラカンまで仏教がすでに伝来していた可能性がある。
アラハバードの石柱の碑文から、グプタ朝(322年?-550年?)のサムドラグプタ王の頃(在位335年?-375年?)、サマタタ王国が貢納を義務づけられた封建国であったことがわかっている。遅くともこの時代までに、アラカンのダニャワディには仏教文化が栄えていた。アラカン国がサマタタ国の一部であったか、独立した国が建てられていたかはわからないが、住民はインド人だったと推測できる。
硬貨の発行年から、507年頃、グプタ朝支配下の東ベンガルを治めていたのが、マハラジャのヴィジャヤグプタであることがわかっている。サマタタ王国はその統治下にあった。白フン族(エフタル)の絶え間ない攻撃にさらされたグプタ朝は、ついに550年頃、崩壊してしまった。
6世紀末、チッタゴン地区の王マハーヴィラはパラプラに都を築いた。このパラプラは現在のマウンドーのプルマ村と推定されている。彼は地元の首長を征服し、都をウェータリーに移したという。このエピソードから、チッタゴンとアラカン(ラカイン)がいかに関係が深かったかがわかる。
7世紀から11世紀にかけてサマタタを治めていた3つの王朝、カドガ朝、デーヴァ朝、チャンドラ朝は、すべて仏教王朝だった。玄奘が630年頃インドにやってきたとき、サマタタ王国はカドガ朝の時代だった。デーヴァ朝、チャンドラ朝の時代、マイナマティに多くの仏教寺院が建てられた。チャンドラ朝のとき、美貌とヨーガの力で知られたマニクチャンドラ国王の王妃(愛妾)マダヴァティ(通称マナマティ)についての厖大な民間歌が歌われるようになった。
8世紀頃までには、アラカンにヒンドゥー教王朝が成立していた。たくさんのヒンドゥー教の神像が残っていること、ムラウーのシッタウン寺院の石柱の古代ベンガル語の碑文からも、それはあきらかである。当時のアラカン人はインド人(ベンガル人)であり、ヒンドゥー教徒も仏教徒もいた。南インドを治めていたチャンドラと、チッタゴン、アラカンを治めていたサンドラ(チャンドラ)は同一の氏族だったと考えられている。
957年にバガンからビルマ軍がアラカンにやってきて、ヒンドゥー王朝を滅ぼした。ラカイン年代記によると、同じ年(957年)にウェータリー王スラタイン・サンドラはチッタゴンを征服しようとしたが、戦争をはじめることなくアラカンに戻ってきたことになっている。チッタゴンを侵略しようとして、留守にしておいた間にビルマ軍に侵略されたのだろうか。しかしビルマ人が大量にアラカンにやってきたのは11世紀のバガンのアノーヤター王の時代だった。
ビルマの王たちはアラカンに攻め入ったあと、退却するとき、いつも戦争捕虜として三千人のインド人を連れ帰ったという。チャンシッタ王はラムリー島から三千人を連れ帰り、ミンチャンとミッティラに分けて定住させた。ラムリー島だけでインド人(ロヒンギャの祖先と考えられる)がこんなにたくさんいたのである。
チッタゴンのイスラーム化
チッタゴン地区で、サマタタ国のあと、注目に値するのは、ショナルガオンのテュルク系のスルターン、ファフルッディーン・ムバラク・シャー(在位1338-1349)である。彼はチッタゴンを支配したはじめてのムスリムの支配者(スルターン)となり、モスクをたくさん建てた。そのことを証言してくれるのは、1346年にショナルガオンを訪ねた著名なモロッコ人歴史家イブン・バトゥータである。バトゥータは彼を「さすらい人、とくにファキールとスーフィーを愛した際立った君主だった」と評した。
チッタゴンのヒンドゥー教徒のムスリム改宗を進めたのはジャラールッディーン・ムハンマド・シャー(在位1415ー1416 1418-1433)だった。熱心なヒンドゥー教徒だった彼の父ラジャ・ガネーシュは簒奪者で、イリヤス・シャヒ王朝を滅ぼし(三十年後に復活する)、自ら王位に就いた。そしてムスリムを弾圧し、領内から駆逐しようとした。
そこで偉大なるイスラーム聖者(チシュティ派スーフィー)ヌール・クトゥブ・アラムは北インド・ジャウンプール・スルターン国シャルキ朝のスルターン・イブラヒムに、イスラーム教を救済するよう要請した。スルターンは要請に応じて軍隊をベンガルに送った。ラジャ・ガネーシュは聖者に会って、許しと保護を求めた。聖者はとりなすことを約束するが、その条件はイスラム教を受け入れることだった。
しかし妻が反対したので、12歳の息子ジャドゥがかわりにムスリムに改宗することになった。ジャドゥは名前をジャラールッディーンに変えた。一方スルターン・イブラヒムは自分の王国にもどったが、すぐに死んでしまった。
ガネーシュはスルターンの訃報を聞くと、息子を差し置いて自身がもう一度王位の座に就いた。そしてムスリムを弾圧し、聖者の息子を暗殺させた。しかしそのときガネーシュも死んでしまった。父親によって「黄金の牛の儀式」でヒンドゥー教徒に戻らされていたジャラールッディーンは、ヒンドゥー教をあらためて捨て去った。一説には、彼は監獄に閉じ込められていたが、下僕たちの助けを借りて、父親を殺害したという。
上述のように、ベンガル人をもっともたくさんムスリムに改宗させた功績は、ジャラールッディーンに帰せられる。しかし我々にとって重要なことは、ジャラールッディーンによってアラカンがベンガルの宗主権のもとに置かれたことだろう。アラカンに住んでいたロヒンギャの先祖のヒンドゥー教徒の多くが、この時期にムスリムに転向したのかもしれない。
ジャラールッディーンは外交感覚にすぐれ、ティムール朝、マムルーク朝エジプト、明朝の中国との関係を築き、交易を進めた。一方、彼はヒンドゥー教の人々を積極的に登用した。ブルドワン地区のブリハスパティ・ミスラという名のバラモンを最高裁判所パンディットに指名した。シュリー・ラジャ・ダラというヒンドゥー教徒は、軍の司令官のひとりに登用された。また、ブリハスパティの息子ビスワス・ライを直属の大臣に起用した。ジャラールッディーン自身は熱心なムスリムであったにもかかわらず、ガウレーシュワラというサンスクリット名を持つなど、ヒンドゥー教の家臣、ムスリムの家臣双方に気をつかっていた。
アラカンの王ナラメイッラがイリャス・シャヒ朝の都ガウルに亡命したのは1404年頃だった。ナラメイッラは新しい戦略を示して侵入してくる敵を撃退するなど、軍師としての才覚を見せた。王朝が替わり、ジャラールッディーンは自軍とともに国王がアラカンに帰還し、ベンガルが実権を握るというストーリーを描いた。実際ワリ・ハーン将軍率いる軍隊がアラカンを制圧したが、将軍自身が王位に就いてしまった。許しがたき背任である。そこでジャラールッディーンはサンディ・ハーン将軍率いる第二の軍隊を送り、ワリ・ハーンを失脚させ、ナラメイッラ(ミン・ソー・モン)を復位させたのである。これが1430年頃のことだった。[註:ムラウー朝の始まりとされる]
「名君」ジャラールッディーンの治世のあと、チッタゴンには予想されない未来が待っていた。1459年、アラカンの王、アリ・ハーンが、チッタゴンの主要部分を占領し、チッタゴン港を獲得したのである。チッタゴンは、1666年にムガル帝国の軍隊が征服するまで、二百年もの間、アラカン人の支配のもとに置かれることになった。[註:アフガン人(パシュトゥーン人)がベンガルを治めていた1538年から1580年の間、チッタゴンを治めていたのはガウル、トリプラ、アラカンだったという。シンプルにずっとアラカン人がチッタゴンを治めていたわけではないようだ]
ベンガル湾最強の要塞都市
アラカン(ラカイン)の都ムラウーを「ベンガル湾最強の要塞都市」(パメラ・グトマン)と成した功績は、アラカン国王ミン・ビン(1493-1543 在位1531-1543)に帰せられるだろう。ミン・ビンのすぐれたところは、1535年にポルトガルの侵攻を受けたあと、戦いつづけるのでなく、彼らを味方につけて、自ら強大な存在になったことだった。ミン・ビンはポルトガル人をいわば軍師として雇い、その船舶操縦技術、砲兵術、要塞建築術を手に入れることができたのである。ポルトガルの軍人たちはさまざまな民族から成る傭兵部隊を訓練し、彼らに銃器を与えた。ポルトガル人とアラカン人(マグ人)の水軍は350隻もの船を持っていた。
ポルトガル・アラカン連合軍はトリプラに侵攻し、チッタゴンを支配下に収めた。コインを発行し、ベンガル湾の覇者となったことを誇示したが、実際はベンガル全体の支配者となったわけではなかったという。ミン・ビン統治の晩年、トリプラが攻勢に出て、チッタゴンを奪い、さらにラムーへと軍を進めた。
ミン・ビンの時期、ビルマではタウングー王朝が版図を広げつつあった。ミン・ビンのアラカン軍はタウングー軍に包囲されたプロームを救助するためにアラカン山脈を越えたが、かえって返り討ちにあってしまった。その後アラカンはタウングー軍の侵攻に悩まされ続け、一時はムラウーを包囲されてしまったこともあった。しかしなんとか耐え忍び、長期戦を望まないタウングー軍との間に和平協定が成立した。
ポルトガル人+マグ人の海賊暴れまわる
16世紀から17世紀頃、マグ人ことアラカン人はいわば泣く子も黙る恐ろしい海賊だったという一面がある。マグ人はのちにラカイン人と名乗るようになる。一方チッタゴンにたくさんやってきていたフェリンギ(ポルトガル人)の一部もならず者になり、海賊となっていた。現地妻との間にできた子供も多かったという。いつしかマグ人とポルトガル人が手を結び、強力な海賊となっていた。彼らの主な仕事は村の襲撃と奴隷売買だった。
アラカン人は強大な帝国になりつつあったムガル帝国に戦いを挑みつづけ、頭を悩ませる存在だった。1603年、アラカンの船団はダッカ水域に入り、村々を襲い、ムガル帝国のトリモハニ要塞を何度も攻めた。
このあとマグ人たちは時代の英雄ともいうべきケダル・ライと手を結ぶ。ケダル・ライはバーラ・ブーヤーン(十二人の首長)と呼ばれるアッサム・ベンガルの反対勢力の一人で、ヒンドゥー教徒だった。彼は大船団を擁していて、何人かのポルトガル人を軍艦の船長として雇っていた。もちろんアラカン大船団の軍艦もポルトガル人を雇っていただろう。彼らと、さらに加わっていたバーラー・ブーヤーンのひとりイサ・ハーン(1522-1529)の息子ダウド率いるアフガン人(パシュトゥーン人)軍団も、結局はムガル帝国(武将ラジャ・マン・シン)にねじ伏せられてしまった。マグ人(アラカン人)たちもチッタゴンでおとなしくするしかなかった。このようにアラカンのマグ人(ビルマ系ラカイン人)が、ムガル帝国の敵対勢力の重要なコマであったのは興味深い。
当時の注目すべき人物の一人は、ムガル朝のスーバダール(将軍)のイスラーム・ハーンが軍を差し向けたブルア(チッタゴンの北方を流れるフェニ川の向こう側にある地域)のザミーンダール(徴税請負地主)、アーナンタマニキヤだろう。アーナンタマニキヤを支えたのはアラカンの国王だった。彼は勇敢に戦ったので、ムガル朝も攻めあぐねた。そこで高級官吏を買収し、彼の協力によって要塞を攻撃し、取り押さえることができた。アーナンタマニキヤは自分の国と所有物すべてをムガル朝に預けたまま、アラカンへ逃亡した。このようにアラカンは逃亡先にはもってこいだった。
宣教師マンリケ、奴隷たちとともにチッタゴンからアラカンへ
マンリケは、当時のポルトガル人海賊王について叙述を残している。ゴンサベウス・ティバオ、セバスティアン・ティバオ父子である。チッタゴン沖合の30キロほどの長さのサンドウィップ島を根城にして海賊として暴れまわった。彼らの「戦艦」は大洋を渡れるほどの大きさだったという。1616年にはアラカンの首都、すなわちムラウーを襲撃するという大胆不敵な行動に出ている。アラカンの海賊も、チッタゴンのポルトガル人海賊も、海賊ではすまされない大きな軍事力を持っていたことになる。
マンリケはチッタゴンからアラカンへ行くとき、海賊によって捕らえられた人々と同行している。マンリケはもともと二人のカテキスタ(教理を教える人)、一人の使用人、(海賊王の従兄弟の傭兵司令官)ティバオ、(ティバオの)たくさんの使用人と奴隷とともに行く予定だった。しかしアラカンは雨季の5-10月に7600ミリも雨が降る多雨地域であったうえに、小さい川も多く、困難な旅が予想された。それでアラカン人の総督から、護送される人々と同行することを勧められた。
この一団は、襲撃で捕獲したインド人53人と護衛の兵士30人から成っていた。護送されるインド人には、老いも若きも、ヒンドゥー教徒もモハメダン(ムスリム)もいた。彼らは手かせをはめられ、ドン・キホーテのガレー船奴隷のように数珠つなぎにされていた。[註:チッタゴンからアラカンに送られたインド人たちは奴隷として売買される。この奴隷たちは基本的に男だった。女性の売買は別に行われていた。なお、大西洋の奴隷貿易を最初に始めたヨーロッパの国はポルトガルだった。しかしインド洋では、その何百年も前からアラブ人が奴隷貿易を行っていた。またガレー船奴隷もかなり古くから存在した]
峠の仏像の前でヒンドゥー教徒の奴隷や仏教徒(アラカン人)の兵士たちが平伏して祈るのを見て、宣教師マンリケは嫌悪感をあらわにした。ムスリム奴隷も偶像崇拝に批判的だったが、感情はあらわにしなかった。
旅の途中、森におおわれた丘陵の下を一行が歩いているとき、大きな虎に襲われ、アラカン人兵士がひとり犠牲になっている。兵士が事切れる前、マンリケは彼に洗礼を施している。この旅はまず野営地(カントンメント)のあるラムーをめざした。そこからマユ川沿岸のペロエムに出て(ラムーからペロエムまで11日もかかっている)船に乗り、あとは小さな川やカラダン川を進んで、ようやくムラウーに至った。そこでマンリケは国王に謁見し、キリシタン侍に会うことになる。
17世紀にチッタゴンがムガル朝に征服され、アラカンが属領のようになってしまった直接的原因は、庇護を求めてきたムガル帝国皇子シャー・シュジャと家族を、アラカン王が殺し、持ち込んでいた彼らの金銀財宝を奪ってしまったことへの報復だった。[詳しくは(6)を参照] ムガル朝の傘下に入ったとはいえ、18世紀半ばまで長く平穏の日々がつづいた。
その均衡が破れたのは、1757年にベンガルのスルターンの領土が東インド会社に奪われたときだった。1760年にはチッタゴンが陥落した。アラカンとチッタゴンの間に小競り合いが起き、アラカン内で動乱が発生した機を狙って、1784年、ビルマのボードーパヤー王の軍がアラカンに侵攻し、併呑したのである。
ムスリム奴隷との会話
上述のように、1630年、宣教師マンリケは奴隷として売られる捕獲されたインド人(ベンガル人)53人や兵士30人らとともに、モンスーン期にチッタゴンからアラカンへ向かった。ティバオ個人もたくさんの使用人や奴隷を従えていた。使用人はクリスチャンだった。使用人は主人の宗教に改宗せねばならなかったのである。奴隷も使用人として働くなら、主人にあわせて仏教徒になるか、ムスリムのままであったはずだ。53人のうち、ヒンドゥー教徒とムスリムの割合は半々だったかもしれない。現在でもバングラデシュ人の9%がヒンドゥー教徒で、チッタゴン地区での割合はそれ以上と思われるのだ。
旅の途中、聖務日課書を読んでいたとき、マンリケはムスリムの男(奴隷として売られる囚人)に話しかけられた。話しかけるということは、キリスト教に興味を持っているということであり、キリスト教徒に転ずる見込みがあるということである。このチャンスを宣教師が逃すわけにはいかない。
男「あんたがたクリスチャンは誰に祈ってるんだい?」
マンリケ「唯一の真実の神に祈っている」
男「へえ、すごいね。でもどうしてあんたがたの教会はあんなにも偶像だらけなんだい? あんたがたがそれの前で必死にお願いしているのを見たことがあるよ」
マンリケは思わず失笑する。
男「どうして笑う? 論じている聖なるものを笑う習慣がクリスチャンにはあるのかい?」
マンリケ「わたしが笑ったのは聖なるものに対してじゃない。あなたの質問に対してだ。ヒンドゥー教徒みたいに偶像を崇拝していると思ったのかい」
男「偶像を崇拝しないのなら、なぜ教会に偶像を置くんだい」
マンリケは十字架や聖母マリア像、使徒像と偶像の違いを説明した。じつはこのとき鎖でつながれているほかの囚人たちも耳をそばだてていた。つながれているということは、おそらくこのグループは全員ムスリムだろう。
こうして宗教比較論から救済の話へと発展し、マンリケはムハンマドでは人を救済することはできない、地獄へ導くだけだ、と断言する。ムスリムたちはこれには納得できなかったようだ。なぜなら彼らを拉致したのはキリスト教徒(カトリック)のポルトガル人海賊であり、彼らを売ろうとしている奴隷商人もまたポルトガル人カトリック教徒だった。ポルトガル人神父の言うことをどこまで信じることができるだろうか。
翌朝、その男がやってきて、マンリケに「都(ムラウー)に着いたらまた話を聞きたい」と言った。マンリケが「今夜また話をしようではないか」と提案すると、「いっしょにいるところを見られたら、仲間はあやしむし、怒りだすよ。都ならだいじょうぶだ」
マンリケはその後二度と彼と会うことはなかった。探し回ったが、痕跡がなかったという。もしかすると、宣教師と接触していることがばれて、牢につながれたのかもしれないし、「処分された」のかもしれない。通常彼らはアラカン国王に買われているので、都のムラウーに連れていかれる。そこで主に田畑の労働に従事させられる。おそらくムラウー近辺の村々に配置されたのではなかろうか。年間三千人もの奴隷が売られたので、16世紀から17世紀頃、アラカンにおけるベンガル人奴隷の数は相当多かっただろう。ただし、移民ではなかったので、人口が爆発的に増えることはなかった。奴隷売買が終わるとともに、ベンガル人奴隷の人口は激減しただろう。
なぜベンガル人の多くがムスリムになったのか
1200年頃に最初のイスラム化の大きな波がやってきた。この時期は、インド国内の仏教がほとんど消滅した頃でもあった。そして14世紀以降、大きな、長いスパンのイスラム化の波が繰り返し押し寄せてきた。なにしろ、21世紀の20年代である現在もムスリムは増え続け、インド、パキスタン、バングラデシュのムスリム人口は合計して5億人を超えるほどに増えたのである。
なぜこれほどムスリムは増えたのだろうか。大きな理由は二つある。一つは、ムスリムの支配者のもとで、仕事と機会を得るために、多くのヒンドゥー教徒がムスリムに改宗した。インドのムスリム王朝は、じつは千年も続いていた。ガンジーの尽力もあり、インドは独立を果たすことができた。しかし新生のインドは過去千年と違い、ヒンドゥー教国家のようだった。実際東西パキスタンとして独立する地域は圧倒的にムスリムが多かった(東パキスタンはのちのバングラデシュ)のである。
そしてもう一つの理由は、低カーストのヒンドゥー教徒が彼らの境遇から逃れるために、ムスリムに改宗するケースが多かったことである。アウトカーストはもちろんだが、低カーストにも職業選択の自由はなく、望まない職業に就かざるをえなかった。ムスリムになれば、原則的に差別されることはなくなり、新しい職業を探すことができる。これだけでも相当な人口があてはまるのである。
じつはこの問題と、ベンガル人にムスリムが多い理由とは、密接な関係がある。ベンガル人はヴェーダ聖典を戴くアーリア人の宗教と文化を受け入れてきたが、実際バラモンはほとんどいないし、シュードラ(低カースト)の人口の割合がかなり大きかった。もちろんバラモンがいなければ、ヒンドゥー教が成り立たないわけではない。そういう地域には何人かのプジャリ(儀礼をおこなう祭司)がいて、バラモンのかわりを十分に務めることができる。
しかしバラモン教的な価値観に対し、ベンガル人はあまり敬意を払ってこなかった。こういった風潮のある社会にひとたびイスラム教が入ってくると、その勢いを止めるのはむつかしかった。アラカンの人口の半分近くを占めていた、多くはヒンドゥー教を信仰するベンガル系アラカン人も、ベンガルのイスラム化の波に巻き込まれたのであろうと推測できる。ロヒンギャ・ムスリムはこうして誕生したのである。
ただし上述のようにバングラデシュの人口1億6千万のうち9%がヒンドゥー教徒であり、その多くがチッタゴン周辺に住んでいることは特記すべきだろう。近年は、ヒンドゥー教徒がイスラム原理主義者に襲われるケースが増えている。こうした「いやがらせ」で、ヒンドゥー教徒の人口が減少するものなのかどうかはわからない。幾たびものイスラム化の波を耐えてきたのだから、これくらいの同調圧力に負けてしまうことはないはずだ。
[註:集団でムスリムに改宗した例として、中国青海省(チベットの区分ではアムド)のチベット仏教ゲルク派を信奉するチベット族の場合を挙げた。「補遺5 中国チベット族のイスラーム集団改宗、サラ族の集団移住の例」参照]
[ベンガル人の分布に関しては「補遺6 ベンガル人の分布」参照]
ポルトガルの隆盛と衰退
ポルトガル人がインドのゴアを占有したのは1510年のことだった。彼らはすぐにインド東部のチッタゴンを含む数か所を拠点として押えた。ヌスラット・シャーの時代にチッタゴンからフーグリー川やメグナ川を通ってギヤスッディーン・マフムド・シャー(在位1533-1538)統治下の都ガウルまで航行した。このときはじめてポルトガルがベンガルに進出したのだった。
1534年、ゴア総督ヌーノ・ダ・クーニャはマルティム・アフォンソ・デ・メロ・ジュサルテ率いる二百人の兵から成る5隻の船をチッタゴンに送った。代表団が乗った船はさらにスルターンと交易に関する話し合いをするために都ガウルへと向かった。しかし意外なことに、代表団はガウルで拘束されてしまった。ジュサルテと三十人のポルトガル人も拘束され、ガウルへと移送された。結局ポルトガル人はスルターンのギヤスッディーン・マフムド・シャーに協力してパタン軍(アフガン軍)を軍事攻略した。そして彼らはスルターンの許可を得てチッタゴンに要塞を建設した。
しかしこのあとジュサルテらはふたたび拘束された。ゴア総督はアントニオ・デ・シルバ・メネセス率いる350人の兵が乗る9隻の艦隊をチッタゴンへ送った。彼らはチッタゴンを攻撃し、近隣の村々を襲った。このときガウルはシェル・ハーンの軍に侵略されていたので、スルターンはポルトガルの協力を得るため、捕らわれていたポルトガル人たちを解放した。
1537年、ガウルは陥落寸前になり、ギヤスッディーン・マフムドはゴア総督に正式に救援の要請をした。そこでぺレス・デ・サンパイヨ率いる9隻の艦隊を派遣した。しかし彼らがベンガルに着いた頃にはガウルは陥落し、ギヤスッディーン・マフムドはすでに死んでいた。
ポルトガル人はコルカタの向かいにあるべトレを拠点として交易を開始した。そして1517年、サトガオンに、1579年、フーグリーに工場を建設した。
交易活動とともに彼らは川沿いの村々を襲い、人々を奴隷として売るようになった。ベンガル人は彼らをハルマド(語源はアルマダ)すなわち海賊と呼ぶようになった。ハルマドの拠点はチッタゴンの沖合にあるサンドウィプ島だった。この島は早くから(とくにムガル朝が1574年に征服して以来)ムスリム化が進み、首領は王を自称していた。宣教師マンリケによれば、ポルトガル人の海賊ティバオが王を名乗るようになっている。ベネチア人旅行家チェザーレ・フェデリチによれば、この島は「世界でもっとも肥沃な島」だそうである。
16世紀も末になると、ポルトガルの勢いは衰えていった。それは1580年にポルトガルがスペインに併合された影響であり、結果だった。アジアでポルトガルに残されたのは、ゴア、ダマン、ディウ、マカオ、ティモールだけとなった。シャー・ジャハン皇帝はポルトガルを敵視するようになり、1632年にはスーバダールに命じてフーグリーの工場を接収した。
またアラカン王はサンドウィプ島とディアンガ(チッタゴン郊外。拠点となる教会がある)を占拠した。1632年以降(マンリケがアラカンに来たのは1629年)ベンガルのポルトガル人は海賊業に専念することになった。アラカン王ティリと組んで、彼らはベンガルの沿岸地方で暴れまわった。
1666年、ムガル朝のシャイスタ・ハーンがアラカンからチッタゴンを奪い取ったことで、ポルトガルはベンガルの足場を失うことになる。とはいえ、1794年に発行されたレネルの地図から、18世紀いっぱいはマグ・フェリンギ(ラカイン人・ポルトガル人)連合海賊はなおも暴れまわっていたことがわかる。その結果バッカーグンジ地区(バガルガニ区)より南は「マグ人の略奪行為のために荒れすさんでいる」という状態になってしまったのである。実際には、本国のバックボーンを失ったフェリンギ海賊の活動規模は相当に小さくなっていただろう。
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