(12) 弾圧と虐殺の十余年 

導火線に火を着けた2012年の集団レイプ殺人 

 2012528日、ラカイン州の経済特区として知られるチャウピューで、27歳のラカイン人女性(仏教徒)が3人のロヒンギャ(ムスリム)の男たちに襲われ、レイプされ、殺された。この愚行がラカイン人とロヒンギャの長年にわたる確執に火を着けることになった。

 彼女の写真はフェイスブックを通じて拡散し、しばらくして容疑者の3人の男の写真も公開された。

 63日、チャウピューから150キロ離れた町タウングで群衆がバスを取り囲み、ロヒンギャの乗客10人を焼き殺した。戦いの火蓋は切って落とされた。短期間のうちに双方から50人以上が死亡し、2,500以上の家屋やモスク(マスジット)が放火され、3万人以上が家を追われた。被害者はしだいにムスリム側ばかりとなっていく。

 610日に、テインセイン大統領はラカイン州において非常事態宣言を発し、国軍に強力な権限を与えた。これによってロヒンギャの弾圧、虐殺が起きやすくなったと言えるだろう。

 

2016年の虐殺 

 2015118日に実施されたミャンマー総選挙で、NLD(国民民主連盟)が圧勝し、現行憲法では大統領になれないアウンサンスーチーが実質上トップ(国家顧問)に立ったことは、あとで考えると、ロヒンギャにとって喜ばしいことではなかった。彼女の政権のもとで、大量のロヒンギャ難民が発生し、虐殺が行われたからである。彼女を祭り上げることによって、民主主義を保持しているように見せかけながら、実質上隠然たる力を持っていた国軍(タッマドー)がロヒンギャを弾圧し、駆逐しようとした。

アウンサンスーチーは元国連事務局長のコフィー・アナンを長とする(国連機関ではないが国連との関係性が強い)ラカイン州諮問委員会を作るなど、ロヒンギャ問題に取り組む姿勢は見せていた。しかし彼女自身、ロヒンギャは外国人だと述べているなど、認識不足を露呈している。

すでに述べたように、宗教や民族が違おうとも、ともに生きていかなければならないと語った父親のアウンサン将軍の考えをまったく理解していなかったことになる。

 

 2016109日、ハラカ・アル・ヤキン(信仰運動)と名乗る350人ほどの武装グループがバングラデシュ国境のBGP(国境警備警察隊)の3つのポスト(国境監視所)を襲い、9人の警官を殺した。

このグループはのちにARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)と名乗るようになった。彼らは襲撃そのものをジハード(聖戦)と呼んだ。指導者はアタウッラー・アブ・アンマル・ジュヌニで、カラチの難民収容所に生まれ、のちにメッカに移り、マドラーサ(神学校)に学び、15万人の弟子を持つイマーム(導師)になった。

ロヒンギャが迫害されていることを知ったアタウッラーは、2012年、パキスタンに移り、TTP(パキスタン・タリバン運動)のもとで訓練を受け、独立したテロ組織ARSAを結成した。

 20161112日、ARSAはラカイン州の国軍の拠点の部隊を急襲した。3日間の戦闘で死者数は134人(国軍32人、武装集団102人)にのぼった。

これに対して国軍は大規模な掃討作戦を開始した。数か月間でマウンドーでは1500棟以上の建物が破壊され、1000人以上のロヒンギャが殺害された。また7万人のロヒンギャが難民となってバングラデシュに流出した。

国際社会から「民族浄化ではないか」と非難の声が上がったが、国家顧問となっていたアウンサンスーチーは「武装勢力の襲撃に対して国軍が反撃したにすぎない」「民族浄化は表現が強すぎる」などと抗弁し、国際調査団の受入れを拒否した。民主主義のリーダーであり、ノーベル平和賞受賞者が、弾圧、虐殺、民族浄化を食い止めるどころか、手を貸すことになってしまったのは残念でならない。

 

2017年の虐殺 

 2017824日、ロヒンギャに国籍を付与するなどの勧告を含む最終報告書をラカイン州諮問委員会が提出した。

 しかしその翌日、鉈(なた)と竹槍を持った5000人の住民とともに、武装組織(ARSA)が30か所の警察署を襲撃した。国籍を得ることは何よりも重要で、百万人以上の難民を出さずにすむはずなのに、この愚かな行為によって自らの首を絞めることになった。しかも武装組織側だけで371人の死者が出てしまった。もっともこの死者はほとんど鉈(なた)と竹槍を持った一般民だったと考えられているが。

 ミャンマー政府はARSAをテロ組織に指定した。ティンチョー大統領はラカイン州北部を軍事作戦地域に指定し、軍事作戦の遂行を許可すると、国軍は掃討作戦を展開した。ARSAの兵士が逃げ込んだ村に放火し、住民を拷問したり、処刑したりした。ARSAARSAで、ヒンドゥー教徒をどさくさに紛れて虐殺したとも言われる。ヒンドゥー教徒はきわめて少数だったとはいえ、あらたな敵を作ることになってしまった。この軍事作戦で1000人の死者が出たとされるが、ほとんどがロヒンギャだった。

[ところでこのラカインのヒンドゥー教徒は、先住民のインド人(ベンガル人)の生き残りである。バングラデシュのヒンドゥー教徒の9割がイスラム教徒に転向したように、ラカイン・ヒンドゥー教徒の9割がイスラム教徒(ロヒンギャ)になったのではなかろうか]

 結果的に、このときの軍事作戦によって70万人のロヒンギャ難民が発生したとされる。またこのときの作戦にはラカイン人(仏教徒)の一般人が参加していたという。難民の数は合計すると90万人を超えていた。