+α この論考のポイント 

  

    考古学的出土物から、アラカン(ラカイン)の先住民がインド人(ベンガル人)であることがわかる。ミャンマー系の人々の流入は10世紀半ばに始まった。仏教は遅くとも4世紀までにアラカンに入っていた。農民の移入はさらに数百年遡る可能性がある。アラカン山脈が自然の障壁となり、アラカンは準ベンガルの位置にあった。

    アラカンとベンガルの間に自然の障壁はない。チッタゴンとアラカンは歩いて行き来できる。

    先住民のインド人(ベンガル人)はどこへ行ったのか。インド系の住民はロヒンギャだけである。

    はじめ仏教王朝が成立し、その後ヒンドゥー王朝が成立した。東ベンガルでは仏教が衰退したあと、大半の人がヒンドゥー教徒だった。ヒンドゥー教徒の9割がムスリムになった。アラカンのヒンドゥー教徒も大半がムスリムになった。改宗しやすかったのは、多くの人がシュードラという低カーストに属していたからだろう。

    788年にアラブ商船が難破し、ウェーサリー(ヒンドゥー王朝の都)でアラブ人の船員たちが庇護を受けたという伝承がある。沿岸伝いにイスラム教が広がった。

    8世紀のアーナンダ・サンドラ石碑はベンガル人がいたことの証明。

    アラカン王朝(ムラウー王朝)はムスリム要素をたくさん持っていた。はじめはベンガル王朝の、のちにはムガル王朝の属国であった可能性がある。

    15世紀にナラメイッラ王が帰還したとき、17世紀にシャー・シュジャ皇子がアラカンに亡命したとき、あわせて何万人ものムスリム警護兵がアラカンにやってきた。彼らはパタン兵が主体で、カマンと呼ばれた。彼らは朝廷内で力を持ったことがあった。

    14、5世紀頃、イスラム教の宣教活動がアラカンでさかんに行われた。伝説、とくにスーフィズムに関するものが多い。宣教活動が行われたのは、東ベンガルと同様、ヒンドゥー教徒が多数残っていたからかもしれない。

    アラカンとベンガルのチッタゴンは一定期間、同じ国だった。

    アラカンの海賊はベンガルで奴隷狩りを行ない、年間3千人の奴隷をアラカンに送り出していた。アラカン・ムスリムの一部は奴隷の後裔である。

    英国がアラカンを支配し始めた頃、アラカンの人口の3割はムスリムだった。とくにアラカン北部の4分の3はムスリムだった。

    1784年にビルマ・コンバウン朝軍がアラカンに侵攻したとき、大量のアラカン人がチッタゴンに逃げた。一部はまだ(仏教徒もムスリムも)残っている。

    19世紀末に英国支配下で大量のベンガル人労働者がアラカンに入ってきた。20世紀になると、季節労働者が大半を占めるようになった。シーズンが終わると彼らは歩いて家に帰った。