16) ロヒンギャ兵 



いつものロヒンギャ難民船 


 ロヒンギャ難民のニュースには既視感を覚えてしまう。

 202559日、コックスバザール及びラカイン州を出た267人のロヒンギャを乗せた船が沈没し、201人が行方不明になった。翌10日、247人を乗せた船が沈没し、226人が行方不明になった。合計すると427人の消息が不明だ。生き残った87人はヤンゴンかモーラミャインの収容所に収容されているだろう。

 そして14日、188人を乗せた難民船が拿捕され、全員が同様に収容所に送られた。

 また同じ時期、ニューデリーで拘束された40人以上のロヒンギャを(うち15人はクリスチャン)ニコバル諸島まで輸送機で運び、インド海軍の船でミャンマー海岸に近づくと、救命具を着せ、海に放り込んだという。この手荒なやり方はトランプ米大統領にならったものかもしれない。[ロヒンギャのクリスチャンはほとんどが20年以内に改宗した人たち。彼らはバプティストか福音派]

 女性や子供、老人にとっては、救命具を着けていても危険が大きいだろう。彼らが無事に陸に上がれたかどうか、どこにいるのか、その後の消息がまったくつかめていない。そもそもなぜ、どうやってニューデリーにいたのかわからない。インド洋上で拘束されたか、東インドのミゾラムで捕まったか、どちらかだろう。

 難民船は、うまくいったなら、マレーシアか、その先のインドネシアのアチェに到達していただろう。アチェの人々はつぎつぎとやってくるロヒンギャ難民に耐え切れなくなり、上陸を阻止しようとしたかもしれない。最近はあちこちで上陸を断られ、洋上をさまようことも少なくなかった。結局、十年間何も変わってないのだ。違いは、インドの難民対策がアメリカにならって厳しくなったことくらいだ。

 

ロヒンギャに徴兵 


 しかし2024年にはロヒンギャに関して新しい現象が起きていた。

 この時期、国軍に千人のロヒンギャが徴集されたという。兵士になれば市民権が与えられ、報酬も支払われることになる。ミャンマー国民として認められず、そのため学校へ行くこともできず、ミャンマー語すら十分できず、職を得ることができなかったことを考えれば、今さらとはいえ、有難いと感じる者もいただろう。ただ今までの外国人扱いは何だったのだろうという疑問は残る。

 この年(2024年)の210日、国軍は徴兵制を開始した。徴兵制自体は2010年に制定されていたが、実際は志願制をとっていた。人民兵役法によれば、対象となるのは男性18歳から35歳、一部専門職の男性は45歳まで、女性18歳から27歳、一部専門職の女性は35歳まで。兵役期間は2から3年間で、非常時には5年まで延長可能という。

 なぜ徴兵制が必要になったか、言い換えるなら兵力が不足したかといえば、20231027日に始まった三兄弟同盟[コーカン族のMNDAA(ミャンマー民族民主同盟)、タアン族のTNLA(タアン民族解放軍)、ラカイン人のAA(アラカン軍)]による1027作戦の戦いにおいて国軍は苦戦し、シャン州北東部の多くの地域を失ったことが大きい。国軍は兵力において反政府武装勢力に負けるわけにはいかなかった。

 AA202311月から1027作戦の一環としてラカイン州内で国軍に対する戦いをはじめ、2024年末までに17の郡区(タウンシップ)のうち14を抑えた。とくに20241220日、AAがラカイン州中央のアン(Ann)にある国軍の西部司令本部を制圧したのは衝撃的だった。[アンの戦い 2024年9-12月]

 

マウンドーの戦い 

 もう一つの重要な戦いがマウンドーの戦い(2024年5月21日-12月9日)である。

マウンドーはいわばラカイン・ムスリム(ロヒンギャ)にとっての都のような町だ。マウンドー郡区は神奈川県の面積の3分の2もあり、人口は2002年の時点で76万人ほどだった。

この戦いはAA(アラカン軍)がマウンドーの市街地を囲う直径1012キロの包囲網を作る作戦から始まっている。包囲網の西側はナーフ川の河口であり、川の向こう側はバングラデシュである。[アラカン軍(AA)は2009年に発足した隊員45000人を誇る武装勢力である。予備兵は10万人もいるといわれる。カチン独立軍(KIA)の拠点であるライザの国内避難民収容所に最初のHQ(本部)が設立された。カイン州のミャワディの近くやワ州にもHQが置かれた。将来的にはアラカン国の旧都ムラウーに最高司令部が置かれることになるだろう] 

まずBGP(国境警備隊警察)警察大隊2か所(4番と5番)に攻撃を仕掛ける。そしてあらゆる方向から市街地へ向かって攻める。戦いに引き出された国軍は戦闘機を飛ばして周辺の村を攻撃するが、多くの無関係な市民の犠牲者を出してしまった。[5月、まずAAは隣町のプティダウンのロヒンギャの家屋を焼き払ったといわれる。AAは否定している。同じ5月のマウンドーへの攻撃で、AAはロヒンギャの家々を焼き払い、女子供を含む百人を殺した疑いが持たれている。AAはこれも否定している。ロヒンギャ側の主張によると、3ー8月の間にロヒンギャ2500人が殺され、4万人が国外に脱出したという] 

616日、AAは町に残っていた2万人にすぐ町を出て避難するよう警告を発し、市街地に入っていった。このときついに国軍との激戦が始まった。この国軍の中にロヒンギャ兵がたくさん混じっていたと言われる。今まで自分たちを弾圧してきた国軍の軍服を着て「わが街」を守るために戦うのはどんな気分だったろうか。

[注:ロヒンギャとアラカン人(仏教徒)のいさかいの歴史は長く、1942年に始まっている。「日本軍による虐殺」とする歴史家もいるが、実際はアラカン人の民兵のような武装勢力によるイスラム教徒虐殺だった。国軍によるロヒンギャ弾圧のきっかけとなったのも、仏教徒(アラカン人)の女性がロヒンギャの若い男たちにレイプされ殺され、その復讐にラカイン人たちがロヒンギャの乗るバスを襲い、多くの人を焼き殺した一連の事件だった]

戦いはAAが圧倒した。国軍は防御一辺倒になり、しだいに追い込まれていった。6月下旬には周辺の郡区の国軍キャンプがすべて落ち、マウンドーの国軍は孤立無援の状態に陥った。

824日から26日にかけて激しい戦闘が起こる。このときAAは国軍兵士100人を殺害し、数十人を捕虜にしたと発表している。この数十人には多数のロヒンギャ民兵が含まれていた。この民兵というのは、ARA(アラカン・ロヒンギャ軍)、ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)、RSO(アラカン団結連盟)である。このなかにテロ組織認定されることのあるARSAが含まれているのは興味深い。

1014日、AAはマウンドー市街地の外の要塞化したBGP5(国境警備隊警察)本部を攻撃し始めた。周囲に溝を掘り、1000個の地雷を埋め、建物をバリケードで固めた急造の要塞である。中にいるのは700人ほどのロヒンギャ兵を含む国軍兵士、警官、上述のロヒンギャ民兵だった。国軍の戦闘機は、昼間はAAを空爆し、夜は救援物資を要塞に投下したが、しだいに要塞の中にいた人たちは疲弊していった。

そして127日、AAはついに防御を突破して内部に入り、翌8日には完全に制圧した。また9日には、AAは、271キロに及ぶバングラデシュとの国境を完全に支配したと発表した。


AA(アラカン軍)強大化

ミャンマー国軍はいわゆる兵糧攻めによってラカインの人々を苦しめてきた。実際、食料品はどうにかなっているものの、医薬品、燃料、衣類、建築資材が不足しているという。ただインド(ミゾラム州)とミャンマー(チン州)の国境貿易がふたたびさかんになっていて、チン州南部の町パレッワがAAによって完全に抑えられたことで、ラカイン州にも必要なものが入ってくるようになった。ミャンマー・バングラデシュ国境もAAが完全に支配下に置いたことで、国境貿易が再開されつつある。

インドはラカイン州を流れるカラダン川の流域発展プロジェクト(KMTTP)を手掛けている。コルカタとシットウェ(ラカインのカラダン川河口)、ミゾラム州(東インドのカラダン川源流)を結ぶ海と川の物流ルートである。コルカタとミゾラムを結ぶ陸路のルートが不安定なため、それに代わるルートとして考え出されたインドとミャンマー政府肝いりの巨大プロジェクトである。

しかしこの一年半の間にシットウェ以外のカラダン川流域すべてをAAが支配下に置いた。インド政府はミャンマー政府との関係を損なうことなく、AAとの関係を促進していかなければならない。AAの政治部門であるULA(アラカン連合リーグ)と交渉することになるだろう。

もちろん戦いは終わっただけでなく、停戦が実現したわけでもない。最近以前にもましてミャンマー政府に肩入れしている中国が、さらに軍事援助して国軍がパワーアップし、AAを駆逐する可能性も残されている。[AAの武器は、基本的に国軍の拠点を制圧し、奪ったものである。しかし2020年6月にメーソートの隠し武器庫が摘発され、このメーソート・ミャワディの武器密輸ルートを使って中国の武器を仕入れていることが判明した。ミャワディは詐欺パークですっかり有名になったが、古くから武器密輸ルートであり、麻薬密輸ルートでもあった] 

バングラデシュの有力な政党はラカイン北部にロヒンギャの独立した地域を作ることを提案している。またロヒンギャ地区に人道回廊を作るという提案がバングラデシュ側から出されたが、残念ながらバングラデシュの軍の反対で実現しなかった。

 ロヒンギャ兵はどうなるのだろうか。コックスバザールの難民キャンプではロヒンギャの若者がさらわれる事件が頻繁に発生している。一部の報道によればロヒンギャ強制徴兵を実施しているのはロヒンギャの武装勢力、すなわちARAARSARSOである。彼らは捕えた若者をミャンマー国軍に引き渡している。また彼らによって難民キャンプに麻薬がはびこっているという。

 20253月、ARSAのリーダー、アタウッラー・アブ・アンマル・ジュヌニ(第12章参照)とその他幹部らがバングラデシュで逮捕され、裁判にかけられている。これによって麻薬の流通が収まり、難民の若者の拉致がなくなり、新たなロヒンギャ兵は減ることになるのだろうか。

 AA(アラカン軍)はほかの少数民族武装勢力と違って、いわば独立したアラカン国(アラカン王朝は14301784)の軍隊の後裔だ。コンバウン朝ビルマ軍の侵攻(1784)によって多くの国民が殺され、何万人もが隣のチッタゴンに逃げ、国の象徴だったマハムニブッダ(2025年のミャンマー地震で被災)が強奪された。軍事政権から独立する意思が強いのは、こういった歴史上のいきさつがあったからである。

 しかし同時にラカイン人(仏教徒)とラカイン・ムスリムの間には大きなしこりがあり、協力関係を結ぶのは容易ではない。AAの幹部や一般兵士もロヒンギャを外国人よばわりしている。もしラカインを完全に管理下に置き、ラカイン国に近いラカイン自治州を作るなら、ロヒンギャを排除するのでなく、土着民であることを認め、同等の権利を与えることになるだろう。そうなればロヒンギャ難民という言葉も死語になっているはずだが。