神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>
ウー・チョー・ミン
シャー・シュジャーの殺害とそのインパクト
(1)
シュジャ殺害は外交的規範に反していた。アラカンの歴史にひどいダメージを与えてしまった。ムラウー王国の偉大さは徐々に消えていった。帝国とさえ呼べた王国はもはや安定を保つのがむつかしくなった。ライバル争い、襲撃、騒乱、混沌が国全体を覆った。国王の盟友ポルトガル人はもう王に忠実ではなかった。国王とポルトガル人の関係は終わってしまった。ベンガル湾とチッタゴンのポルトガル人はムガール王朝の側につくようになった。ついに国王は自身の宮廷で殺された。
ここで学ぶべき点がある。アラカン王(ナラメイッラ)はかつてイスラム教のベンガル国に避難したとき、待遇はよく、王位に復するために必要なものすべてが与えられた。国王は帰国後ムラウー王朝を確立した。それは成長し、強くて輝かしい帝国となった。しかしのちに王国の王のひとりが亡命皇子の扱いをあやまり、外交儀礼の常識を破り、ついに亡命皇子の家族全員を殺してしまった。これ以降アラカンは徐々に過去の威光を失い、ついには統治権を失ってしまう。これはすべてのアラカン人に教訓となった。言い換えるなら、ムスリムとラカインの関係が調和的であったとき、アラカンは栄えるが、それがまずくなると、アラカンは独立を含めたすべてを失ってしまうのである。
もちろんデリーの皇帝アウレングゼーブが朝廷の敵であるシュジャの首を切る準備を進めていたのは事実である。しかし他者によってムガール朝の家族が殺されてしまうのは我慢ならなかった。彼に対して、帝国に対しての侮辱と思われた。シュジャ皇子の返還要求を持ってアラカン王のもとに送られた使者は拒絶されてしまった。こうして皇帝は軍の将軍にアラカンと戦い、できるだけ早く制圧するよう命じた。ミール・ジュムラ将軍は海軍と陸軍の両軍を送ってアラカンを攻めた。何世紀にもわたってアラカンの盟友だったベンガル湾とチッタゴンのポルトガル人はアラカン王を見捨て、ムガール王朝についた。ミール・ジュムラの軍は1665年、チッタゴンとラムを征服した。
歴史家によればミール・ジュムラは突然死し、天候条件の悪化がムガール軍の前進をはばんだ。何千人ものラカイン人が殺され、何千人かの兵が武器や戦艦とともに捕らわれてしまった。かつてラカイン人に捕らえられ、奴隷にされた地元のベンガル人たちはラカインに対して立ち上がった。まず彼らはラカイン人の役人たちを攻撃した。結果としてラカイン人は築いたものを残して、もっと南のほうの土地からも逃げ出した。
その数年前、シュジャの事件があった頃、アラカンの数千人のムスリムが集まり、シャー・シュジャに加担したとしてアラカン王の命でムスリムの大量無差別殺人がおこなわれそうになったので、チッタゴンに逃げていた。チッタゴンのラカイン人は逆にアラカンへ逃亡していた。アラカンの人口構造はこのように異なるものになった。北アラカンはムスリムが支配的になり、南アラカンはラカイン人の中心地になったのである。
チッタゴンの喪失はそこを何世紀にもわたって支配してきたアラカン王国にとって大きな痛手となった。アラカンはチッタゴンで永遠に力を失うことになってしまった。国内の前線の状況も変わってしまった。政治的なライバル争いも激しくなり、反乱も起きるようになった。サンダ・トゥダンマも宮廷で殺された。無政府状態と混沌が国全体を支配した。国王によるムスリムの無差別大量殺人が恐ろしい雰囲気を作り出していた。ムラウーはその絶頂期から転げ落ちていった。
シュジャの随行隊の中から選ばれた王室の警護兵たちは、自分たち自身で法を作った。彼らは剣と銃を持ち、国中をうろつきまわった。人々は彼らを前にすると震えあがった。彼らは好きなように国王を仕立て上げ、やめさせた。何日も、何か月もそんな感じだった。実際アラカンは苦境に陥っていた。
ヤンゴン大学教授のW・S・デサイーは王室警護兵(シュジャの随行隊員)をアラカンのキング・メイカーと呼んだ。ここで注目すべきは、ラカイン年代記の作者はアーチェリーに秀でたこれら王室警護兵をカマンティー、あるいはカマンと呼んでいることである。彼らが有する弓矢は数百本にすぎなかった。しかしこの数百人の兵がどうやって国を動かす力を得たのだろうか。おそらく年代記が言う人数より実際ははるかに多かったのだろう。
このカマン部隊は約四十年アラカンの政治を動かした。サンダ・ウィザヤが権力を得たとき(1710―1730)、何年間かは安定した政治をおこなうことができたが、やはりのちには殺されてしまった。彼はカマン部隊を統制し、彼らをアキャブやラムリー島に追放した。顕著な特徴を持つ彼らの共同体は、いまもこの島でイスラム信仰とラカイン文化を保持している。
さらなるリサーチのポイントはここだ。ラカインの歴史家は仏教徒のラカインにカマン部隊も含まれるとつねに主張している。しかしアキャブとラムリー島の追放者全員がムスリムであることを私たちは知っている。国王はさまざまな方法でムスリムを抑圧してきた。こうして3700人のムスリムがビルマに逃げなければならなかった。このムスリムたちに関して、タン・トゥン博士(Than Tun)とボー・ムエ・バ・シン(Bo Hmue Ba Shin 当時はミャンマー歴史委員会議長)は両者とも、彼らがアラカンにやってきた元インド人兵士と書いている。
ボン・パウ・タル・チョー(Bon Pauk Thar Kyaw)は「彼らはアラカンの元パゴダの奴隷の子孫」と主張する。ウー・キン・マウン・ソー(U Khin Maung Saw)はバ・シン大佐(Ba Shin)やウー・アウン・タル・ウー(U Aung Thar Oo)、ウー・サン・シュウェ・ブ(U San
Shwe Bu)らミャンマー、ラカインの歴史家の言葉を引用しながら、いずれにしても、これら脱走兵がタンドウェーから来た四千人のベンガル戦争の捕虜のパゴダ奴隷であることに異論はないと書いている。
もうひとつビルマに逃げてきたベンガル人のパゴダ奴隷に関するエピソードがある。彼らは1604年、皇太子ミン・カマウンが父親のミン・ラザ・ジに対して反乱を起こしたときにビルマに逃亡した。この3700人の集団は、一部の人によってラカイン民族だと主張されているカマン族であるはずはなかった。先祖がだれであろうと、このムスリムたちは軍隊を持ち、十分な戦争体験があった。アラカン王はそんな彼らを恐れていた。だからこそアラカンから駆逐したのである。彼らはビルマの国王によって、メイドゥ(Myeidu)やシュウェボー(Shwe Bo)を含む12の異なる町に定住させられたという。彼らの子孫は1784年のビルマ軍のアラカン侵攻の際、バ・ジ・ドー(Ba Gyi Daw)によって徴兵された。帰還の際、彼らはタンドウェーに残された。のちのサンドウェーで、彼らの子孫はメイドゥ・ムスリムと呼ばれた。
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