神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>
ウー・チョー・ミン
アラカン史におけるムスリムの役割
ムスリム、あるいはロヒンギャの役割に関して、早期のラカイン人歴史家や作家は、ムスリムが関わった部分について少しばかり大胆に述べている。しかしエー・チョー博士やエー・チャン博士、ウー・キン・マウン・ソー、ウー・マウン・タ・ラ、ドー・ソー・キン・ティン(ラカイン州顧問委員会)ら現代の歴史家や作家は、まったく反対である。彼らはロヒンギャに関するすべてのことを否定する、あるいは消し去ろうとする。このレイシスト(人種差別主義者)学者たちはあらゆる方法でロヒンギャの名誉を汚そうとする。たとえば、ウー・キン・マウン・ソーはムラウーのサンディカン・モスクを庵として描くが、すべての歴史的な記録によればソー・ムン王のベンガル随行隊によって建設されたモスクである。
『仮面の後ろの真実』の著者ウー・キン・マウン・ソーは書く。「アラカンに関する年代記はほとんどが英国が占領したあと書き直されたものである。多くの初期の記録はビルマ人兵士によって破壊されてしまった。彼らはムラウーの王宮に火をつけた」。こうしてオリジナルの年代記は失われてしまった。最近の国粋主義者たちは、彼らの政治目的に合うように歴史を書いている。
英占領期の初期、サヤル・ンガ・マイは書いている。788年、難破したアラブ船の船員たちがラムリー島に打ち上げられた。マハ・タイン・サンドラ王の時代である。彼らはヴェーサリーに送られ、国王によってそこに定住させられた。彼らは布教につとめ、多くの現地人が改宗した。
ムラウー博物館のキュレーター、ウー・サン・シュウェ・ブは、アラカンはイスラム教国ベンガルと隣接していたので、ムラウー王朝の時代より前にアラカンには相当数のムスリムがいたと述べている。(モーリス・コリン&サン・シュウェ・ブ)
有名なラカイン人年代記作者ウー・アウン・タ・ウーによると、ラカイン人亡命国王ナラメイッラともにやってきたベンガル・スルターン国の1万人のパタン人随行員が、国王と王国の警護のために、ムラウー周辺に定住させられたという。それはJ・ライダー博士やエー・チャン博士といった現代のロヒンギャに敵対的な人々によっても是認されている。(J・ライダー 1998、エー・チャン博士 2003)しかし現在、彼らはナラメイッラ王がベンガル王の助けを借りたことを否定している。
ラカインの人々が「本物」とみなす二冊の年代記とは、ラカイン・サヤドーによる「ダニャワディ・アレイ・ド・ポン」と、尊師ウー・ニャ・ナによる「ダニャワディ・マハラザウィン・ティット」である。これらによると、13世紀のアンヌ・ルン・ミンの時代、42000人の捕虜のカラ(イスラム教徒)がいたという。彼らはアラカンで、さまざまな方面の仕事のために雇われた。
古代碑銘の専門家でムラウー博物館のキュレーターであるパンディット・ウー・タン・トゥンは『ラカイン・マハヤザウィン』の中につぎのようなことを書いている。ムラウー王朝第9代国王ザラタ・ソー・モンから第12代国王ミン・バルの時代の間(1532―52)、インドの伝道師はラカインに入るのを許された。人々は賢いイスラームの家族になり、賢い村人になった。彼らはモスクを建て、新しい伝道師をインドから迎えた。サヤル・ムラ・ワルという者が不平をもらし、ミン・バル王はのちに布教活動を禁止した。
この新たな改宗のためにムラウーでは文学や翻訳の仕事が必要になった。J・ライダーによれば作者たちの取り扱うテーマは主に宗教的なものだった。すなわち目的は、この地域の最近(16世紀から17世紀)改宗した人たちのために、イスラムの原則的な部分を教えることだった。(ライダー 2011)
ナラメイッラ(1428―33)からティリトゥダンマ(1622―52)までのほぼ17人の国王たちがムスリムのタイトルを採用し、ムスリムの文字を入れた硬貨を鋳造してきた。ムスリムはあらゆる面で王国に奉仕してきた。公用語はペルシア語とベンガル語だった。こうしてヨーロッパ人は15世紀のアラカンをイスラム教国とみなした。(ジョー・ファリー『世界史のコンパクト・アトラス』1998再版)
アラカンの生活のあらゆる面のムスリム(今のロヒンギャ)の関与を要約すると、それは英占領期からではなく、はるか遠い昔にさかのぼることができるのだった。
ムラウーのベンガル人ムスリムの高位の人たちは、地方の権力と地域ネットワークを超えた権力との地域の仲介役だった。アラカン人政権や皇軍のキャリアを作ったムスリムの人たちもいた。これらの人々は宗教的建造物や貯水池を建設した。(これらの貯水池や宗教建造物はムラウーやミンビャで発見することができる) ムスリムの詩人や商人がいた。ベンガル語やペルシア語はアラカンの宮廷における主要な文化言語だった。
オランダの情報源によると、アラカン宮廷にムスリムの官吏がいたことが確認でき、都のシャバンダル(港のマスターたち)は1785年までムスリムだった。(J・ライダー 2011)
アラカン人によってベンガル湾から連れて来られた捕虜たちは、奴隷として売られることはなく、さまざまな用途のために王国で奉仕させられた。彼らはアラカン人の海軍で清掃人、画工、技術者、農民、船頭として働いた。一部の者は出世して高官になった。(J・ライダー 2002年)
ベンガル文学が外国人支配者の庇護のもとで、広範囲にわたって洗練されるのは、本当におもしろいことだ。しかしもっとも興味深いのは、対外関係において、ムガール帝国には、ははなはだしい敵愾心を持っているのに、アラカンの君主はムスリムにおおいなる特権を与え、イスラーム文化を庇護し、文学を求めるなかで、ムスリム詩人に対し、影響力のあるサポートをしている。(J・ライダー 1988)
ペルシア語は超地域的な文化言語であり、それはアラカンをベンガル湾の商業的、外交的ネットワークに統合する鍵となるものである。(p92)
ヒンディ語、ペルシア語、アラビア語に関して、ベンガル語の文のなかで、その使用は明白である。行政や外交に関しても、文字や碑銘にペルシア語が使用されている。(p89)
つまりより古い世代のロヒンギャのコミュニケーション言語はペルシア語である。ロヒンギャにペルシア及びシーア派の習慣が残っている。(モシェ・イェガル参照)
アラカンには、ペルシア化した(ペルシア語を話す)コミュニティがあった。つねに文学の仕事場があった。彼らのほとんどがベンガル・スルタンの随行部隊の子孫だった。彼らは亡命国王のナラメイッラが復位するのを手伝った。またある者たちはベンガルからの難民であり、雇い兵であり、ペルシア人交易者だった。彼らはムラウーで翻訳の仕事をつねにしていた。
J・P・ライダー博士はつぎのように述べる。
翻訳は文学集会(サバ)の間に委託される。サバはペルシアの「マジュリス」の地方バージョンである。マジュリスは実際文学が行われ、論じられる場所以上のものである。文化的相互作用の場所として、それはペルシア化社会を形成するのに決定的に重要である。ムラウーの場合、サバ(マジュリス)は、ムスリムの高位の人々にとって、文化的洗練さを示し、こうしたタイプの集会を親しみのある環境とみなす素養のある個人、すなわち商人や宗教的人物から知識を集める場所である。ベンガル湾では、文学マジュリスはたしかに交易や知的ネットワークの形成において重要な役割を演じていた。(ライダー 2011)
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