神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>
ウー・チョー・ミン
ロヒンギャを敵視する者たちの言いがかり
(1)ロヒンギャは外国人であり、アラカンにもとから住んでいたのではない。歴史はそう言っている?
アラカンのもともとの居住者は誰なのか? ロヒンギャか、ラカイン人か。もちろんラカイン人はアラカンの「よき人々」である。彼らは自分たちの歴史に誇りを持っている。彼らは古代アラカンの仏教文明を引き継いだのだが、それは祝福されるべきことである。アラカンに入る前、彼らはすでに仏教徒だった。彼らは現在までの千年間、アラカンにおける支配的な民族だった。しかしその前の千年間となると、アラカンの歴史に関りがあるのはロヒンギャだけだった。
ラカイン人王朝時代を通じて、ロヒンギャとして知られるムスリムはラカイン人と共存し、王朝の発展に寄与してきた。各ラカイン王朝、とりわけムラウー王朝が偉大で輝かしいのは、ムスリムの貢献によるところが大きい。今日ラカイン人と呼ばれるビルマ系の人々がやってくるまでは、何百年も、インド・アーリア系の人々がいくつも王朝を打ち立ててきた。(M・コリス、ウー・サン・シュウェ・ブ)
ヤンゴン大学教授G・H・ルースは細かく掘り下げている。彼は言う。「10世紀以前のアラカンの人々および文明は、すべてインド人のものだった」。(G・H・ルース 1985)
英植民地時代の考古学局主任のエミール・フォーカッマーは古代碑銘と考古学的遺物の研究を通じて言う。
10世紀以前、アラカンはインド人の土地だった。場所、川、山の名すべてがインドの言葉であり、インド人によって名が守られてきたのだ。彼らの支配は何世紀もつづいた。地名は、ダニャ・ヴァディ(ダニャワディ)やヴェーサリー(ウェータリ)などだった。現在のカラダン川は、ゲーサパ・ナディだった。レイミョー川は、イスナ・ナディ、マユ川は、マラユ・ナディ、ケレ・チャウンはスリマブ・ナディだった。(フォーカッマー 1891)
ラカインの歴史家ウ・サン・シュウェ・ブはこの否定しがたい事実を認識した。早期の人々の言語が、東から来る大量のビルマ人が浸透したために、変わっていったと彼は述べた。(M・コリス参照)
アラカンのもともとの古代の言語が変わることはなかった。アラカンのロヒンギャはその古い言語をなおも話す。(パメラ・グトマン 1976)
ウー・サン・タ・アウンによれば、ラカイン人が早い時期にインドの言語で書いていたという考えは間違いである。(ウー・サン・タ・アウン「ウェーサリー時代の石碑」)
実際、この時期のアラカンの人々はラカイン人ではなく、インド人だった。ラングーン大学の歴史教授D・G・E・ホールはつぎのように述べる。「10世紀以前のアラカンの人々はベンガルの人のようだった。アラカンはインド人の地だった。(ホール「ビルマ」)
実際そこにいたのは現在のラカイン人ではなく、インド人だった。ヤンゴン大学の元歴史教授チョー・テク博士は言う。
山岳地帯を越えてインド人からアラカンを奪ったのはラカイン人だった。彼らは統治することに成功した。というのも彼らは勇敢で輝かしいビルマ人の子孫だったからである。彼らは古いビルマ語を話した。(チョー・テク博士)
現在のラカイン人歴史家ウー・キン・マウン・ソーは「ロヒンギャの名の背後の真実」の中でアラカン人を定義する。「西欧にアラカン、あるいはラカインの先住民として知られている彼らは仏教徒であり、民族的にはモンゴロイドである」。もっとも著名な学者ティン・アウン博士はつぎのように述べる。「ラカイン人とビルマ人はおなじ民族である。ラカイン人は初期のビルマ語のアクセントでビルマ語を話す。より重要なのは、彼らの宗教がおなじであることだ」(ティン・アウン博士 2003)一方でウー・サン・シュウェ・ブとモーリス・コリスは、ラカイン人はインド・モンゴロイド種で、モンゴル人種のアラカンへの移住を957年と見ていた。(ウー・アウン・タ・ウー 1951) ここで問題となるのは、957年以前に誰が住んでいたかである。
パメラ・グトマン博士は最近の調査の中でつぎのように指摘する。
現在アラカンで支配的なラカイン人は、10世紀にアラカンに入ってきた最後のグループである。ラカインという名前は12、13世紀のバガンやアヴァの石碑にはじめて見つかっている。(パメラ・グトマン博士 1976、2001) ミャンマーの碑文を引用しながらカヌンゴ博士は言う。「ラカインという名はビルマ人から与えられたものだ。ほとんどすべての歴史家が合意するのは、アラカンの初期の住人はインド人で、ラカイン人は民族で言えばチベット・ビルマ語族に属するということだ。彼らは10世紀以降にアラカンに入った。そしてつぎつぎと集団がつづいた。一方でアラカンのロヒンギャの中にインド人の痕跡を見つけることができる。
ロヒンギャだけがこの地に文明をもたらしたインド・アーリア語族の後裔なのだ。初期の文明とはつぎのようなものだ。すなわち、建築、文学、宗教、そして残りのすべてはロヒンギャの祖先の作ったものである。そしてそれらは仏教徒ラカイン人の手の中にある、彼らがこの地にやってきて支配者になって以来。ラカイン時代になって、とくにムラウー朝時代、ムスリムの貢献はきわだっていた。ムラウー朝の建設のとき、そしてそれが持続するために、イスラム教徒、すなわち今日のロヒンギャの貢献は不可欠だった。
多くの証拠、リサーチ、語りの中から、わたしは地元の歴史家、タン・ミン・ウ博士の語りを聞こう。彼は元国連事務総長ウタント氏の孫である。
何世紀もの間、アラカンは国際貿易で栄え、アジア大陸のいたるところから、あるいはその向こうから、人や考え方を取り入れ、現代ビルマ史でもっともコスモポリタンな宮廷という華々しい文明を築くことができたのである。(1785年以前、アラカンは独立した王国だった) アラカンの孤立は新しいことだった。コスモポリタン主義の喪失は現在のビルマの貧困へとつながった。
アラカンは基本的に長細い沿岸州で、長い山脈の連なりによってイラワジ(エーヤワディー)渓谷から隔てられていた。
古代においてアラカンはまさに北インドの延長上にあった。ヴェーサリーやダニャワディといった主要地を支配したチャンドラ王朝は、チベットやベンガルの大乗仏教を庇護しながらも、ヒンドゥー神シヴァの後裔を主張した。
ここにアラカンの歴史はインドの、とりわけベンガルの歴史と交差したのである。
運命的なアラカン王ナラメイッラは、ベンガルのトルコ・アフガン系のスルタンが生まれて二世紀がたった頃、そのベンガルに逃亡した。1430年、亡命してからほぼ三十年、主にアフガン戦士によって編成された屈強な軍隊の長として彼は戻ってきた。彼らは迅速に地元の敵対勢力(ビルマ人)を制圧した。これがこの国の黄金期、つまり力と繁栄の時期の幕開けとなった。そしてそれは驚くべき仏教とイスラム教のハイブリッドの宮廷の誕生だった。ペルシアやインドとの伝統と東の仏教世界がここで融合したのである。
彼は都をムラウーに移した。ムラウーは人口16万人を超える国際的都市に成長した。その住人はアラカン人、ベンガル人、アフガン人、ビルマ人、オランダ人、ポルトガル人、アビシニア人、ペルシア人、それに長崎から来た日本のクリスチャン侍もいた。
このコスモポリタン宮廷はアラカン文学だけでなく、ベンガル文学の大パトロンになった。最初のベンガル語のロマンスの作家であるダウラト・カズィのような廷臣は、すぐれた、オリジナリティのある韻文の作品を作った。一方でアラオルのような17世紀のベンガル詩人は、ペルシア語やヒンディ語の作品もまた翻訳した。何人かの国王たちはパーリ語だけでなく、イスラムの称号をつけた。仏教寺院を保護し、仏教パゴダを建てる一方でペルシア式の衣を着て、イスファハンあるいはムガール朝デリーの円筒の帽子をかぶり、イスラムの信仰宣言であるカリマの入った硬貨を鋳造した。(タン・ミン・ウ 2006)
ジャーナリストのフランシス・ウェイドはベストセラーの『ミャンマーの内なる敵』の中でつぎのように述べる。
過去千年の間、西ミャンマー沿岸の多忙を極める交易が意味するのは、ラカイン王国が大きな、一時的な移民の共同体ということである。
9世紀に到着した初期のペルシア人やインド人の船乗りはそんなに多くはなかく、地元社会に与えたインパクトも限定的なものだった。しかし15世紀頃から変わってきた。ラカインの西側を支配していたベンガルの国王たちは、ラカインの同等の地位にいる者たちが王冠を奪還するのを助けた。
ラカイン国王ミン・ソー・モン・ナラメイッラは15世紀初め、東からビルマ軍の攻撃を受けて、ベンガルに逃げ、ベンガルのスルタンの庇護のもとで、24年を過ごした。ムラウーの都市建設するため戻ったとき、彼は都市のまわりに数百のパゴダを建てながら、モスクもいくつか建てた。二百年のち、ラカイン国王はイスラム教徒式の名前を名乗り、西側の諸国と貿易がしやすいよう、ペルシア語の文字が刻まれた硬貨を鋳造した。強いイスラム教の影響が見られたにもかかわらず、今日あるような宗教間の暴力的ないさかいは見られなかった。
現在のラカイン人(ビルマ人の支系)が増えて支配的になる前のアラカンは、インド人の地であったことをわたしたちは示してきた。ムスリムがいつ、いかにアラカンにやってきて定住したかを知るのは重要である。フランシス・ウェイドの語りは興味深く、エレガントである。彼はつぎのように述べる。
ラカイン州の沿岸に沿って野営地がいくつも現れる千年以上前、その浜辺には、現在ミャンマーと呼ばれる地域に到着する最初のイスラム教徒たちのための上陸地点が用意されていた。西部や南部の沿岸に小さなコロニーを数珠のように作りながら、インドやペルシアから来た商人たちはボートに乗ってやってきた。彼らは長くとどまるつもりはなかったのだろうが、自然の法則や9世紀の海運技術の限界もあって、彼らは意図せずとどまることになった。
毎年五月ごろになるとモンスーンがベンガル湾を襲い、早期に来た人々は罠にかかったかのように動けなくなった。彼らはそこで暮らし、結婚し、子供を養った。それがミャンマーの最初のイスラム教徒だった。
当時沿海州であったラカインは、ミャンマーからは独立していて、多数が仏教徒、西のムスリム諸王国を貿易上必要な国と見ていた。長細いラカイン・ヨーマ山脈は、東の横腹に沿って南北に走っていて、バマー(ビルマ)王国との結びつきが阻害されてきた。しかしエーヤワディー渓谷の人々の沿岸地域への大量移住が、11世紀ごろにはじまっていた。この新しい共同体は、すでに定住していた仏教徒の住民と混じり合った。そしてラカイン民族が大半を占めるようになった。過去の千年間、彼らはペルシア人やインド人商人のムスリムのなかで比較的協調的に生きてきた。そして州知事もそれぞれの宗教共同体の男女間の交際を奨励してきた。
しかし初期のムスリム定住者の到着と、イスラム教の東方への、すなわちヒンドゥー教徒と仏教徒が多数を占めるアジアの諸王国への急速な拡張の時期が偶然重なったのである。9世紀後半に南中国からミャンマーの北部最前線へと苦難を越えて旅をした旅行家の年代記は、中国とミャンマーの国境に沿ってムスリムが存在していると記している。同時にミャンマーの西海岸に交易所が設置されていると書かれている。
これらの人々は徐々に内陸へと向かった。初期のミャンマーの国王たち(実際それはラカインの国王)は決まりきった奴隷狩りを周辺のムスリムの村々でおこなった。そして捕虜を内陸部に置き、何世紀にもわたって内陸のムスリム共同体のネットワークを広げてきた。(フランシス・ウェイド『ミャンマーの内なる敵』2017)
[訳注:ビルマの年代記に出てくる中国(Tarup)は中国を意味するとはかぎらない。9世紀後半、現在の雲南省にあった南詔国とビルマの国境地帯にムスリムがいた痕跡を確認することはできない。ただし清朝康煕33年に記された昆明のモスク(清真寺)の石碑によれば、永寧清真寺は唐代初め、すなわち南詔の初期に建てられている。ある程度のムスリムが現在の雲南にやってきていたのは間違いない]
9世紀にすでにアラカンにムスリムが存在していたことは、一部のラカイン、ミャンマーの年代記によって裏付けられる。サヤ・ウ・ンガ・メーは19世紀前半の『ラカイン・マハ・ラズウィン・ジ』に書いている。「788年頃、マハタイン・チャンドラはウェータリー(インドの王国)の王位に就き、ランマワディの跡地に新しい都市を建てた。そして22年の統治のあと逝去した。
彼の治世の間、何隻かの船がサイクロンによってラムリー島沖に難破した。船員たちはモハマダン(イスラム教徒)のムーア人かアラブ人だったと言われる。彼らはアラカン本土に送られ、村に定住した。(アーサー・フェア氏はアキャブとチャウピューの一部をアラカン本土と呼んでいる)(R・B・スマート 1957)
同様に、1997年、軍事政権は「Sasana Yaungwa Tunzepho」という題の本を出版している。そのなかで、ミャンマーのイスラム教の起源が9世紀、アラカンで難破したアラブの船の船員だと強調している。彼らはイスラム教を広め、多くの現地人をイスラム教に転向させた。
おなじく『アジア・リサーチ協会ビルマ・ジャーナル』はつぎのように記す。「アラカン人(ラカイン人)社会へのムスリムの影響は突然起こったことではない。長い間のアラカン(ラカイン)とムスリムの国々との交流の結果なのである。それはアラブとアラカンの接触があった時期にさかのぼることができる。
ラカイン年代記によればアラカンにおける最初のムスリム定住はマハタイン・チャンドラ国王(788―810)の時代である。現代の一部のラカインの作家は9世紀を示すあらゆる記録を否定しようとする。マレーシアやインドネシアでさえムスリムもアラブ人とは交流がなかったのである。それはばかげていて、歴史的事実ではないと彼らは考える。
⇒ つぎ