(7)R・B・スマートが著したビルマ地名辞典のアキャブ地区の記述はロヒンギャが外国人である証拠?
それはロヒンギャ批判の最大の武器である。ほとんどすべての敵対する人々がこの書に言及し、ロヒンギャを政治的に貶めた。批判的な人は言うだろう、R・B・スマートがアラカンのムスリムをチッタゴニアン(チッタゴン人)として描いていると。では尋ねたいが、作家や官吏が人々の民族名を決めたり、名付けたりする権利や権力を持っているだろうか。あなたがたは何と答えるだろうか。
おなじガゼッティア(地名辞典)のなかで、彼はラカイン人を「マグ」と呼んでいる。R・B・スマートがそう言ったからといって、ラカイン人はマグと呼ばれるべきだろうか? あなたがたは何と答えるのか。さらにはアンソニー・アーウィン少佐とウィリアム・スリム陸軍元帥もラカイン人をマグとし、ムスリムをアラカニーズ(アラカン人)と呼んでいる。(A・アーウィン参照)
ほかの西欧人の多くの記録もラカイン人をマグと記している。これらの英国人将校がそう書いたからといって、あなたは民族名としてマグを受け入れるだろうか。彼らはあなたが協力している反ファシスト戦争を戦っている陸軍将校である。だから彼らにバイアスがかかっているはずはない。実際、R・B・スマートは先入観を持った将校にすぎない。彼はラカイン人スタッフに鼓舞され、影響を受けたのである。ほとんどすべての英国人の記録がラカイン人をマグ(MaghあるいはMug)と記述している。なぜ私たちはラカイン人と名づけようとしないのだろうか。
批判者がもうひとつ選びたがるポイントは、英植民地時代の移民とムスリムの人口が増加していることである。R・B・スマート自身は増加の原因を説明している。つまりビルマ時代に追放された人々が戻ってきたのである。第二に、季節労働者がいた。彼らは季節ごとにアラカンに仕事をしに来ていた。チッタゴンからの労働者は人口調査がおこなわれているときに、すなわち開かれた季節にアラカンに来ていた。しかし季節が終わってしまうと、労働者は家に帰らなければならなかった。彼らは少数の例外を除いて永住するということはなかった。アラカンに永住するために残るには、F.R.Cs.(訳注:Foreign Registration Cards 外国人登録カード)を取得しなければならなかった。タン・トゥン博士は、これらの季節労働者を浮動人口としてとらえている。(タン・トゥン博士 1999)
R・アドルフとヴァージニア・トンプソンは、インド人移民について、より正確に説明する。彼らが言うには、ビルマへのインド人移民は、アラカンへのインド人移民とは異なっているという。ビルマへの移民は、交易商人、役所のスタッフ、一般的な労働者などだった。多かれ少なかれ、彼らのほとんどはビルマに長く滞在した。しかしアラカンへ行く人のほとんどが季節労働者だ。このグループは働く季節が終わると、故郷のチッタゴンに帰るのだ。(R・アドルフとV・トンプソン 1954)
これらの労働者のうちのムスリムという名称には、地元のムスリムも含まれていた。市民であるかどうかは問題ではなかった。なぜなら全員が大英帝国の臣民だったからだ。
人口調査には外国人を分けた段組みがない。ときには地元民と移住者がチッタゴニアン(チッタゴン人)としていっしょに記載されている。このように、ムスリムあるいはチッタゴニアンの人口増加は英国の人口調査のシステム次第ということになる。そしてその民族の区分けが言語に基づいていた。彼らは慎重に、あるいは気づかぬうちに、地元民と外国人をごっちゃにしていたのである。というのもこれらの言語は互いに似ていたからだが、同一というわけではなかった。英国による初期のインドの人口調査では、わずか40の民族しか識別されていない。英国は言語的に兄弟関係にある民族をまとめて、ひとつの民族にしてしまったのである。ロヒンギャの言語は2007年7月18日にISOから独立したコード・ナンバーを取得している。すなわち独自の識別子、ISO―639(RHG)が割り当てられた。
地元民をチッタゴン人、あるいは外国人にしてしまったことの言い訳に、帰還者の増加を利用すべきではない。英国の人口調査の矛盾を、ロヒンギャの犠牲で取り繕ったかたちだ。もっとも明らかな点は、R・B・スマートが戻ってきたラカイン人を「元・追放者」として扱っていることだ。追放者は実質ムスリムなのだけれど、そのことは省かれている。ムスリムはみなチッタゴン人ということになっている。これはフェアだろうか? 正しいことだろうか? まったくもって違う。彼は鼓舞されて、偏った考えを抱いてしまった。もともとラムリー島出身の追放者たちは、新しい定住地としてラテダウン地区を選んだ。だからラテダウン地区のほとんどのラカイン人はラムリー方言を話す。(R・B・スマート『ビルマ地名辞典』参照)
チッタゴンから戻ってきたムスリムの国外追放者は、多くの場合アラカン北部の町を定住地に選んだ。これが、ラカイン人とムスリムの間に不協和音が生じた理由の一つである。結果として、北アラカンはムスリムが多数を占める地区になった。アラカン中部、南部での1942年のムスリム大量虐殺のあと、さらには北アラカンのムスリム集中率が高まった。ほとんどの北部に逃げてきたムスリムはここで安全に暮らすことができた。彼らは二度とアラカン中部の生まれ故郷に戻ることができなかった。独立後の政府はムスリム、すなわちロヒンギャがアラカン内奥の生地へ戻ることを許そうとしなかった。
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