神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>  
ウー・チョー・ミン 

ロヒンギャ排除の出発点 

 民族・宗教グループとしてのロヒンギャの破壊は1978年の「竜王作戦」からはじまった。それはアラカンからいかにロヒンギャを排除するかという詳細な指令だった。短期間のスパンのなかで起きたポルポトのカンボジアやルワンダの大量殺害については、観察者が記録に残している。しかしミャンマーのロヒンギャの場合、中央によって計画された大規模な破壊は、数十年という長期間のスパンのなかで達成されたものである。

 ロヒンギャのメディアへのアクセスも、外部のロヒンギャへのアクセスも制限されている。しかしながらミャンマー政府の高いレベルから、国の政策として、組織的にロヒンギャを虐待し、迫害するよう命じている。それだからこそヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の最初の2012年のレポートのタイトルは「政府はこれをやめさせることができた」であり、つぎの2013年のレポートのタイトルも「あなたにできることは祈ることだけ」だったのだ。

 よく組織された、地元のラカイン人人種差別主義者たちと密接に協力しているミャンマー国家安全部隊が、ロヒンギャの死、破壊、大量移住、強制移民などと関わっていることがわかった。(テイラー・オコナー 2014

 オコナーはつぎのように述べている。

 間違った情報による取り組みや(国際社会の)関心不足によって、軋轢が増し、被害者の苦悩が長引いただけだった。ミャンマーで関与することで、国際社会はラカイン州での成果を分かち合った、それが何であろうとも。

 国際社会の多数が国の政治的改革を称賛し、報いようとするとき、手際よく堅実な投資が進むばかりで、何十年にもわたって黙ったまま被害を受けてきた人々の軋轢は、目に見えることなく、終わりを迎えることがない。わたしたちはロヒンギャを破壊する意図があることを知っている。ロヒンギャを殺害し、身体上、メンタル上に深刻な害を与え、生活状況を慎重に悪化させ、彼らの肉体がむしばまれていくよう仕向けるのである。

 被害者はロヒンギャだけではない。ミャンマー全体に分布するムスリムもそうである。1962年に権力を奪取して以来、ビルマの軍事政権は次第に外国人嫌いになっていった。それは外向きには反イスラム教であり、ラカイン州では反ロヒンギャだった。ロヒンギャの迫害は何十年も前に始まっていたのである。

 中央権力は、ラカイン州において、上述の虐殺行為という手段を同時に行うに任せていた。それはミャンマーの領域からロヒンギャを永遠に追い出すためであり、ミャンマー内のロヒンギャを殲滅するということだった。何年も暴力が加えられ、それを防ぐ手立てはなかった。2012年の暴力以来、およそ14万人がIDP(国内避難民)キャンプに収容され、さまざまな制約のもとにおかれた。これらIDPキャンプとキャンプのような施設はすぐに移動がなかなかできない人のための、また永久に分離された人々のための場所だった。

 そうすることは、ラカイン人政治家の願望だった。結婚を管理し、子供の誕生を防ぐのは、ロヒンギャを絶滅させる意思を示しているということである。ロヒンギャの強制的な移住と強制的な人口操作は、ゲットー化を呼び込んだ。それは人生の状態を悪化させ、グループを破壊し、肉体的、メンタル的な害をもたらすのである。北アラカンには外出禁止令がなおも発令中であり、避難民は依然として定着していない。緊急援助は縮小し、制限がある。唯一の収入源である農地は取り上げられ、没収された土地は新しくやってきた非ロヒンギャに配分される。百のそのような模範村が作られている。

 実際、北アラカンで起きていることは、人種間の動乱ではない。以前の軍民中央政府と一部の外国の利害があった。ロヒンギャが殲滅されたことに対し、ミャンマー政府に責任はなく、非難されるべきではないことを示すために、人種間の暴力があったといったのである。現在百万人近くのロヒンギャがバングラデシュに避難を余儀なくされ、そこで混みあった、ごみごみした難民シェルターで生活していくことになる。もともと住んでいたところへの帰還の可能性はほとんどなく、何も期待することができない。

 ミャンマーとバングラデシュは2017年10月26日に、一日三百人の難民をバングラデシュのキャンプから本国に送還することで合意した。それはまだ始まっていないが。このプロセスが完了するまで何十年もかかるだろう。

 

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