神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史> 17
ウー・チョー・ミン
アイデンティティ
(1)
民族の名前が本質的なものであることは、2014年7月30日のネピドーでの米国務長官ジョン・ケリーを交えた国家委員会の記者会見でも再確認されている。民族名は民族の生まれ故郷と関係していることが多いのだ。アラカンは過去、異なる国からさまざまな名で呼ばれてきた。アラカンは長細い沿岸地域である。西方の多くの国の船舶を受け入れてきた。インドからマラッカへの航行ルートの停泊地でもあった。パメラ博士はつぎのように述べている。
2世紀のエジプトの地理学者プトレマイオスによると、アラカン(ラカイン)の沿岸には198か所の交易センターや町があるという。彼はナフ川からパゴダまでの国をアルギュレ(Argyre)と呼んだ。彼の記録は最北端の町パラプラ(Parapura)と最南端の町サンドウェーに言及している。(パメラ 1976)
アーサー・フェアは言う。ラカインという名は伝統的にビルマ語のビル(Bilu)と同義語のパーリ語のラカ(Rakha)、サンスクリット語のラカシャー(Rakhashah)から来ていると考えられてきた。国はインドから来た仏教の伝道師によって、ラカプラ(Rakhapura)と名づけられた。というのも現地の住人は非常に獰猛な性格の持ち主だったからである。(アーサー・フェア参照)
ペルシア人はそれをレコン(Recon)と呼び、アラブ人はそれをアル・レコン(Al-Recon)と呼んだ。シッタウン寺院北面の石柱に刻まれた8世紀半ばの断片的な碑文にはアレカ・デーサ(Areka Desa)という言葉が見いだされる。
12世紀から15世紀にかけてのミャンマーのパガンとアヴァの碑文のなかで、この国はルクイン(Rukuin)あるいはラカインとして言及される。
ホブソン・ジョブソン辞書やスリランカ年代記、ターラナート史[インド仏教史]に名前のバリエーションが見られる。たとえばアラッカン(Araccan)、ラカンガ(Rakhanga)、ラッカミ(Racchami)、ラカン(Rakhan)、レコン(Recon)など。
ニッコロ・デ・コンティは1420年にアラカンをラッカニ(Raccani)と呼び、ドゥアルテ・バルボサが1516年にアラカン(Arraccan)として引用し、スリランカ年代記がラカンガ(Rakhanga)と呼ぶ。そしてベンガル語では、ロハン(Rohan)となる。(パメラ 1976)
[訳注:バルボサの著作では、アラカンギル(Aracangil)やアラカングイ( Aracanguy)などとも呼ばれている。著者(バルボサ)はこの「ギル」や「グイ」は「偉大なる」という意味だろうと推測している。ちなみにバルボサの妹はマゼランの妻]
ラシードゥッディーン[訳注:このあたりで著者のミススペルや情報の間違いが目立っているので、訳者のほうで正したい。Rashiduddinは『モンゴル史』などで知られるペルシアの歴史家。1249-1314]の著作にはロハンとして登場する。ロハンの国はモンゴルのハーンに従属していると彼は述べている。
トルコの航海士セイディ・アリ・レイース[訳注:Seydi Ali Reis 1498―1563 オスマン帝国の提督][氷に閉ざされる前の南極大陸が描かれているとして有名になった地図で知られるピーリー・レイースとほぼ同時代。レイースは提督の意味]はアラカンをラカンジ(Rakhanj)あるいはラカン(Rakhang)と表記する。『アイネ・アクバリ』『バハリスタニ・ガイビ』『セイル・ムタケリン』といった著作の著者たちはアラカンをアルカウン(Arkhaung)と書いた。
訳注:『アイネ・アクバリ』(Ain-i-Akbari 著者はアブル・ファズル Abu'l-Fazl ムガル帝国の宮廷歴史家)や『バハリスタニ・ガイビ』(Baharistan-i-Ghaibi 著者はミルザ・ナタン Mirza Nathan 17世紀のムガル帝国の提督。ベンガルを中心に当時のことを書き記した)、『セイル・ムタケリン』(Seir Mutaqherin 著者はグラーム・フセイン・カーン Ghulam Hussain Khan 18世紀のインドの歴史家)
『アラムギルナマー』や『ファティヤ・イ・イブリーヤ』にもほぼ同様に、アルカウンと記される。
中世のベンガル語の著作やジェームズ・レンネル[訳注:James Rennell 英国の地理学者、歴史家。海洋学の父ともいわれる]の地図の中にはロシャン(Roshang)と書かれている。(S・B・カヌンゴ 1988)
チッタゴン方言の口語でこの国(アラカン)はロハン(Rohang)と呼ばれる。SHとHは交換可能である。(今日でもなお、ムスリム・ベンガル人がロハンと発音するのに対し、ヒンドゥー・ベンガル人はロシャンと発音する) またチッタゴンの人々がチャトガンニャ(Chatghannya)と呼ばれるように、ロハンの人々はロハンギャ(Rohangya)と呼ばれる。言語学的観点からベンガル語を見ると、わかりやすいだろう。中世のポルトガル人やほかのヨーロッパの旅行家はアラカンをレコン(Recon)、ラカン(Rakan)、ラカンジ(Rakhanj)、アラカオ(Arracao)、オラカオ(Oracao)、アラカン(Aracan)などと呼ぶ。[訳注:ポルトガル語式にcaoはcãoで、カオンと読まれるのだろう] ファン・リンスホーテン(Jan Huyghen Van Linschoten 1563―1611)はアラカン(Arakan)と表記しているが、これは現在の表記とおなじである。また16世紀の最後の十年間にインドとビルマを旅した英国の商人ラルフ・フィッチは、アラカン(ラカイン)をルオン(Ruon)の王国として言及している。ルオンとロワン(Rowang)はほぼ同じように思える。(A・P・フェアー)
17世紀のギル・クライストの言語研究においても、レンネルのベンガル地図においても、アラカンはロシャン(Roshang)と呼ばれている。ラジャマラ(Rajamala)年代記(別名トリプラ年代記)においてもロシャンである。サンダ・トゥダンマ王(1657―84)の宮廷詩人だったシャー・アラオルは国王をほめたたえる賛辞を書いているが、そのなかでアラカンをロサン(Rosang)と呼んでいる。ロサンは米や魚がふんだんにある地上でもっともかけがえのない場所であると彼は書いている。(ジャック・P・ライダー 2011)