神話なし、事実のみの<ロヒンギャの歴史> 

学問的倫理はなく:意図的怠慢、曲解、誤引用 


(1)

 アラカン史のラカイン人バージョンには、反証すべき問題点が多々ある。しかし私はそのすべてを正面から論じようとは思っていない。ロヒンギャに関するいくつかの重要な点のみ取り上げたい。ムラウー王朝はベンガルのムスリム王の軍隊の情け深い手助けがあり、1430年にナラメイッラ王によって建てられた。タン・ミン・ウー博士は書く。「三十年の流浪のあと、彼(ナラメイッラ王)は、(ビルマのアヴァ王朝が支配する)地元の反対勢力を迅速に制圧できる、主にアフガン人傭兵から成る屈強な軍隊のトップに戻ったのである。これは権力と繁栄の、驚くべき仏教徒とイスラム教徒のハイブリッドな王朝の、黄金時代の幕開けだった」。

 しかしほとんどのラカイン人歴史家は、ムスリムが関わっていることに関し、オープンに、正確に論じようとはしない。彼らはむしろ、当時ミャンマーと敵対していたモン族の手助けに言及したがるのである。実際のところは、アラカン支配のための、アヴァ王朝(ミャンマー王)に対する十年に及ぶ戦いにモン族は成功を収めることができなかったのだ。追放されていたアラカン王ナラメイッラを手助けしたのはベンガルの王だった。ベンガル王の第一側近軍の長は、一万人の兵力を率いるワリ・ハーン将軍だった。彼は占領していたビルマ軍を駆逐し、アラカンを支配下に置いたが、その後信頼を裏切った。

 ナラメイッラを国王に就けるかわりに、ワリ・ハーンは自らアラカン王になったのである。ナラメイッラはバブタウン(バブ丘)に幽閉された。ワリ・ハーンは数年間アラカンを統治した。彼はイスラム法のシャリーアを導入した。彼はもともとナラメイッラに敵対していた王子や高官の援助や協力を享受し、アラカンを乗っ取るようアヴァ王のミン・カウンを招待した。ラカイン年代記は、ワリ・ハーンの支配の時期のことについて説明しようとしなかった。

 ナラメイッラは監獄から逃げ出し、再度ベンガルに行き、最初の軍隊よりも大きな軍隊を得ることができた。軍隊を率いるのはサンディ・ハーンだった。彼は背信行為のワリ・ハーンに対し、適切な行動を取るよう命令されていた。サンディ・ハーンの軍隊がアラカンに到着したとき(当時都はラウンチェだった)、ワリ・ハーンはほとんど抵抗することなく、サンディ・ハーンに降伏した。ワリ・ハーンはベンガル王のもとに送られ、信頼を裏切ったことに対する適切な罰を受けたのである。(多くの歴史書でサンディ・ハーンとなっているが、本当の名前はシディク・ハーンだったようである)

 ナラメイッラは正しく王位に就いた。彼自身と国家を守るため、首都のあらゆる場所にムスリム兵を配備した。ミャンマーとモン族のどちらからも潜在的に攻撃を受ける危険性があった。ナラメイッラは監獄から逃れ、ふたたびベンガルへ行き、自分を助けてくれる第二の随行隊を得て、アラカンに戻り、ワリ・ハーンから土地を取り戻した。こうしたことのすべては一晩で起きるわけではない。おそらく何年もの時間を必要としただろう。

 このワリ・ハーンがアラカンを治めた期間のことは、ラカインの年代記が触れたがらないもののひとつである。年代記によっては、ベンガル王の随行についてわずかにしか触れないが、とくに人数については言及がなかった。彼らは随行隊員が永住したことと、ワリ・ハーンの支配の期間についていっさい語らなかった。

 私はアラカンに永住した随行隊員について唯一書いている歴史家と出会った。彼こそは、偽歴史家のゾー・ミン・トゥなる人物に公開書簡を出した、現在日本にいるエー・チャン博士である。博士は目下のところ、ナラメイッラがベンガルのムスリム王から軍事的な援助を受けたというエピソード全体を否定しようとしている。

 実際、アラカン史からムスリムの役目を削除しようという試みはばかげたものだった。この過激民族主義のグループは、現在の国粋主義者の願望にそぐわないからと、初期の年代記作家を批判している。たとえばアーサー・ペイアーがアラカン史について書くとき頼っている著作を書いたウー・ンガ・メイは、ウー・キン・マウン・ソーから批判を浴びている。ナラメイッラがムスリムのベンガル王から軍事的援助を受けたことは、あきらかに1840年に、年代記作家ンガ・メイがベンガル好きの気持ちが高じて挿入したものだと書いている。




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