ロイヤル通りの幽霊屋敷 

ジャンヌ・ドラヴィーニュ 宮本神酒男訳 

 

 ニューオーリンズでもっともよく知られた幽霊屋敷といえば、ロイヤル通りを下ってガバナー・ニコルス通り(旧称ホスピタル通り)と交わる角に立つ旧ラローリー邸であることに異論はないだろう。

 それは1世紀以上にわたって幽霊屋敷として知られてきただけでなく、その種のものとしては唯一、ガイドブックにかならず載っているのだ。ツーリストが幽霊探索をする機会を逸することはないだろう。彼らは目を見開き、震えおののきながら、大きな部屋やバルコニー、ホール、回廊、螺旋階段を探索することになる。

 伝承によれば、1770年、フランス王室からジャン・ド・ルマイリとアンリ・ド・ルマイリに与えられた土地に、1773年、この邸宅が建てられた。のちにルイ・バルトロメ・ド・マカルティが別邸として購入し、この40の部屋がある豪邸を娘のデルフィーンに譲った。デルフィーンは最初にドン・ラモン・ロペス・イ・アングロ、それからジャン・ブランク、そして医師のレナード・ルイス・ニコラス・ラローリーと結婚した。

 裁判所の記録によると、1831年9月12日にラローリー夫人がこの土地を購入している。この家は1832年春に「建てられ」、それから人が住み始めた。その他、市役所の記録によれば、ルイス・ラローリーとデルフィーン・ラローリー、旧姓マカルティは、1831年8月30日、マカーティ家の弁護士オクタヴ・ド・アルマスの前でエドモンド・ソニアット・ドゥ・フォサットから家と土地を購入したという。

 ヴュー・カレ(フレンチ・クォーター)のすべての家がそうであるように、この家も外観は自然の厳しさにさらされて古びているものの、その内部は見事な作りで、調度品も豪華だった。バルコニーには美しい金属加工の飾りが施され、アーチ状の窓は形がよく、エントランスは高貴さが漂っていた。建物全体の基調は威厳だった。フレンチ・クォーターでもっとも大きく、印象的な豪邸だった。

 美貌と富、地位によって当時の華やかな上流社会の人々を引き寄せ、惜しみなく、心ゆくまでもてなしたのは、マダム・ラローリーことマリー・デルフィーン・ド・マカルティだった。彼女に魅力があり、絶大な人気があったことは疑う余地がない。

また彼女が1825年6月12日、ドクター・ラローリーと結婚したことも記録から確認することができる。

その後9年間、華々しい日々がつづいた。舞踏会や音楽夜会、仮面舞踏会、歓迎会、家族集会、ホームパーティ、晩餐会などが催され、いつも客でにぎわっていた。

 想像されるかぎりの贅沢が尽くされた。そこには何十人もの奴隷がいて、彫刻が施された巨大な扉(扉は今も残っている)や千のプリズムのシャンデリア、巨大な鏡、とてつもない大きさの暖炉、豪勢な紫檀やマホガニーの衣装ダンス、金銀の食器類、無数の小さな窓ガラスがついた大きな窓などを磨かされていた。

 サテンやベルベット、目も彩なる緞子、刺繍やリンネル、宝石や金の縁取り、香水、金の透かし細工、高価な陶器、そういったものでラローリー邸は埋め尽くされていた。

 部屋の高い天井にフランス語やスペイン語の陽気な声がこだまし、マホガニーの立派な階段には軽やかな足取りが響き、大きな客間の大理石の床にハイヒールの音が鳴った。細い手すりには華奢な手がのっていた。上流の人々が晩餐に招かれ、お金持ちがはめをはずし、知的階級の人々さえ踊りを楽しんだ。そう多くはないが、マダムやその陽気な家族が好きでやってくる人もいた。

 そうした日々のなか、マダム・ラローリーの近しい友人の周辺で、ときおりささやき声が聞こえるようになった。耳をそばだてるとちょうど入ってくるような、ひそひそ話である。

「メラニーはどこ? 朝から見ないけど」

 メラニーはその黒い手ですばやくボタンや留め金をかけたり、はずしたり、あるいは女主人の髪にヘアピンを通すのが得意だった。

「カルロはどこ? 姿が見えないわ」

 カルロは糸やハサミを、あるいは果物やお茶やビーズや漆器、花の種、何でも必要なものを取ってくるために、その敏速な黒い足を使って何キロでも走ることができた。

 サラがいないのはどうしてなのか。この小さなコーヒー色のメイドは、いつものようにブラック・コーヒーや種子入りクッキーを用意し、まめに階段を掃除し、マダムのプードルを洗っているのだろうか。

 東インド諸島の原住民のようにターバンを巻いているバーナベの頭を悩ましているのは何だろうか。黒人のバーナベほどワインに適した温度やアーモンド・ケーキの厚みの幅を正確に知っているメイドはいないのに。

 中庭の隅の洗濯桶越しに老いたデボラとやせっぽちの若いオクタヴェがひそひそ話をしているその秘密とは何なのか。

 まるで回廊に出没する恐ろしい亡霊を見張っているかのように、昨日ジャッコの黄色い目がギョロギョロしていたのはなぜ? なぜ? なぜ? …… 

 マダムはさらにリネン、フランス製コルセット、トルコ製の敷物を注文した。彼女は階段で歌をうたい、髪にバラや真珠を挿し、すこしばかりしゃれた詩を詠んだ。彼女は黒人のベルタに若いリアを呼んでこさせ、髪の整え方やスカートの畳み方、ハンカチの選び方などを仕込ませた。リアはチョコレート色の肌をした、やせた少女で、きびきびしていて、まじめで、物静かだった。マダムはリアがお付きのメイドに育つよう、ベルタに監督、教育係を任せていたのだ。

 しかしある朝、リアのやせっぽちの体は屋根からほうり出されて、中庭の端の歩道にドサリと叩きつけられたのだった。あやうく隣に住むマダム・ラローリーの遠い親戚であるムッシュー・モントレイユを直撃するところだった。この若い奴隷は賢くて役に立っていただけに、無念なことだった。しかしマダムは損失をすぐ埋めることができた。彼女は奴隷の軍隊を持っていて、いつでも新しい奴隷を買うことができたのである。どうしてこういうことになったかはともかく、リアが屋根に上ったのは愚かなことだった。

 そして忘れることのできない日、1834年4月10日がやってきた。当時の新聞はその恐怖のありさまと大騒乱の詳細を書きたてることになる。その騒ぎようといったら、ニューオーリンズの新聞史上、比べるものがないほどであった。

 それから何年も過ぎ、ラローリー邸はますます不気味で、恐ろしい雰囲気を醸し出すようになり、地元民もこわがって近づかなかった。通行人は走って屋敷の前を横切り、向かいの歩道にたどりついた。日が暮れたあと家路を急ぐ黒人はそのブロックを避けて、川に近いデカトゥールまで行って、森に近いドーフィンやバーガンディのほうから回る迂回路を選んだほどだった。よほどのことがないかぎり、だれもラローリー邸の前を通ろうとはしなかった。その名前だけで反抗期の黒人の若者たちを震撼させるに十分だった。もちろんおとなたちも同様だった。

 この頃には、マダム・ラローリーはフランスに着いていた。一方ラローリー邸を借りて住もうという人はめったに現れなかった。何人か住んでみた人がいたが、夜寝ていると部屋の隅や煙突の下からささやき声が聞こえ、跳ね起きるというような体験をすることになった。

 床の上を死体がひきずられていく音が聞こえることもあった。シャンデリアが落下して、金属とガラスが砕ける大きな音がすることもあった。暗闇やだれも使っていない荒れ果てた台所から黒人の身の毛もよだつ話し声が聞こえることもあった。中庭から叫び声が聞こえることもあった。床の下からむせび泣きや祈りの声、ドンドンと叩く音が流れてくることもあった。

 だれもいない屋根裏部屋からキャッキャッという声が漏れてくることがあった。ぞっとするようなリズムで人殺しの鞭がビシビシと叩かれることがあった。それは人間の体をずたずたにするのだが、その間も、黒人は苦悶の叫び声をあげていた。嘲りやからかい、脅し、あるいは卑猥すぎる言葉が明晰な声で発せられた。絹のかさかさと擦れる音がしたかと思えば、高価ないい香りが漂ってきた。そして柔らかいが気性の荒そうな指の感触が現れ、悪魔のように激しく人をつかもうとしたり、引っ掻こうとしたりした。

 ある夜、中庭の裏手の古い厩舎の上の部屋で、黒人の召使いが眠りについたとき、突然だれかに首を絞められた。そして女の呪いをかけるようなフランス語のつぶやきが聞こえた。目をあけると女が彼をのぞきこんでいた。その青ざめた顔、黒い目、白い前髪、流行遅れのヘアバンド、そして怒りでねじまがった唇を確認することができた。黒い手で白い指をはがし、彼は逆襲を試みた。ふたりはそのまま壁に吸収されるように消えていった。あたかも堅固な壁のかわりに煙があるかのようだった。

 下の馬たちは仕切りのなかに逃げ込んだ。厩舎のなかで寝ていた犬たちは釘のように首筋をこわばらせ、クンクンと鼻を鳴らしながら階段を上がってきたが、悪寒でもするかのようにぶるぶる震えていた。朝になると、黒人の首には長い傷があり、ザクリと開いた傷口からは血が噴き出ていた。そして高熱に浮かされていた。

 何か月も無人だった旧ラローリー邸は増殖したネズミやその他の虫に占領されてしまった。大きな野良猫がかつては立派だった部屋から部屋へと徘徊し、汚い部屋をさらによごしまくった。血まみれの羽根をばらまき、かじった骨をまき散らし、腐った死骸を床の上に残した。それはネズミどもに饗されることになった。3階の婦人用化粧室にはねばねばした蛇がトグロを巻いていた。その隣の部屋は、1825年、マルギ・ド・ラファイエットが寝たまさにその部屋だった。

 ラローリー家の家具のかなりはまだ残っていた。紫檀の衣装ダンスも生きのびていた。しかしそのなかはネズミの巣窟となり、世代が世代を産み、育て、繁殖していた。穴や窪みにはゴキブリが増え、無数の群れをなしていた。ゴキブリの大軍はみな触覚を揺らし、人間が探索できない奥底へ向かってチョコチョコと歩いていった。

 これらはすべて超常現象が登場する舞台のための小道具だった。舞台に登るのは黒い亡霊の群れである。それらはうめき声をあげ、叫び、幽霊ドラマのリハーサルを繰り返す。そして死すべき存在(人間)の世界から追いやられた彼らは、亡霊が群れる世界のなかで生きていくことになる。 

 南北戦争が終わり、流通する貨幣が絶望的なほど少なくなって、すべての便が悪くなったとき、旧ラローリー邸は徹底的にきれいにされ、隅から隅まで汚れが洗い落され、女学校として使用された。1874年、白人の女子生徒といっしょに学んでいた黒人の子どもたちが排除された。1880年代、旧ラローリー邸は音楽学校に供された。こうして亡霊たちの居場所はなくなったように思われた。

 それからまた居住者なしの時代がやってきた。投資の対象として土地が売られたり買われたりした。借用者は建物のなかに入ろうともしなかった。ふたたび猫やネズミやゴキブリがはびこった。ある夜、ほろ酔いの紳士が通りの反対側をよたよた歩いていた。たまたまラローリー邸を見上げたとき、屋根の端に小さな黒い影が見えた。突然それが叫びながら身を投げた。そしてもうひとりの歩行者に直撃したのである。

 ほろ酔い紳士は通りを渡って現場に近づいた。彼ともうひとりの男は地面に激突した黒人娘らしきものをのぞきこんだ。しかし紳士が手を伸ばして彼女に触ろうとした瞬間、彼女は消えてしまったのである。

「見ましたかい?」男は目をぱちくりさせながら紳士にきいた。「消えましたな、旦那、たしかに消えましたな。旦那もおんなじものを見たにちがいない」

 たしかに紳士も見ていた。混乱し、酔いもさめた。ふたりともはやく立ち去りたかった。翌日、ふたりは再会した。しらふのほうの男は依然として、黒人の娘が屋根から飛び降り、彼の足元の歩道の地面にぶつかったと主張していた。

 ほかの人たちもこのぞっとさせる光景を目撃するようになった。月夜の晩、かならず若い黒人娘が叫びながら屋根から飛び下り、だれかが地面の上でつぶれた彼女の体に障ろうとした瞬間、その姿は忽然と消えた。この娘はラローリー家の女中だったリアなのだろうか? マダムが死んでからだいぶ時が流れていた。彼女の息子と4人の娘もすでに死んでいた。だれにも聞くことができなかったし、答えられる人もいなかった。

 イタリア人移民がオールド・クォーターに住み始めた頃、彼らに必要だったのは居住スペースだった。シャルトル通りの30の部屋をもつ家には、なんと30の家族が住んでいたのである。旧ラローリー邸には40の部屋があったので、何十人もの人が住むことが可能だった。こうして彼らはラローリー邸に大挙して押し寄せてきたのである。彼らは荘厳な正面扉を赤くペイントし、繊細な装飾が施された小壁(フリーズ)も赤くペイントし、マホガニーの階段や大理石の床も赤くペイントした。彼らは水晶のシャンデリアを破壊し、ラウンジやビリヤード・ルームの大理石の暖炉を打ち砕き、美しい中庭をガラクタやぼろきれやゴミ、木材のくずで満たした。それから彼らは地主に不平を言い始めた。

 彼らは亡霊に取り囲まれていると主張した。亡霊にも、黒い亡霊と白い亡霊とがあった。ある晩、果物の行商人がラローリー邸の階段を上ったとき、踊り場で巨大な黒人男と出くわした。黒人は素っ裸で、四肢は鎖につながれていた。男が階段を降りるとき、鎖がガシャガシャと音を立てた。イタリア人が様子をじっと見ていると、巨大な男は溶けて骸骨になった。それでもなお鎖は白い乾燥した足の骨に巻きついていた。そしてウッとくるようなにおいが放たれていた。イタリア人が階段を上ろうとしたとき、その巨大な男は姿を消した。赤ワインを飲みすぎたわけではないんだ、とイタリア人は主張した。そして翌日彼は引っ越していった。

 双子の赤ん坊に恵まれたもうひとつのイタリア人家族が3階に住んでいた。ある日母親は赤ん坊たちが泣きわめき、息苦しそうにしているので、子供用ベッドを見ると、白い衣を着ただれかがベッドの上にかがみこんでいるのがわかった。あわてて駆けつけると、子供たちの口には硬いパンの耳が突っ込まれていた。母親はすぐにそれらを口から取り除き、子供たちをベッドの上掛けに寝かせると、パンの耳は消失した。見上げると白衣の女はまだそこに立っていた。それからパンの耳と同様、忽然と消えた。

 翌日、また白衣の女が現れ、双子を抱き上げ、ドアまで運ぶと、階段に放り投げた。母親がヒステリックに叫びながら追って行くと、そこに赤ん坊の姿はなく、女も消えていた。彼女が部屋に戻ると、ベッドの上で双子は何事もなかったかのようにすやすやと眠っていた。恐怖に耐えきれなくなった彼女は引っ越していった。

 ほかのイタリア人の女たちは玄関にシーツをかぶった者がいて、子供たちのための食べ物を盗み、背中に大きな蚯蚓腫れができるまで鞭を振りまわした。また亡霊が彼らの衣服を切り裂き、数珠を隠し、皿を割り、スパゲティのふりかけを苦い粉にすりかえたと主張する者もいた。

 暗い屋根裏部屋からはいつもうめき声やむせび泣き、ドシンという音、きしるような音が聞こえ、居住者の睡眠をさまたげた。無謀にも3階の階段から扉を少し開けて屋根裏部屋のなかをのぞいた者は、口では言えないほど恐いものを見たと語った。それは近づいたり、触ろうとしたりすると消えてしまうのだった。屋根裏部屋はまるごと地獄のように混乱していた。しかし突然何も見ることも、聞くことも、触ることもできなくなった。彼らのランタンの柔らかな黄色の光が、急勾配の屋根の下のからっぽになった部屋の隅を照らすだけだった。手すり壁についた扉で彼らは思いがけないぞっとするような発見をすることがあった。

 窓を叩く音がするので見ると、そこにはゆがんだ黒人の顔がいくつもあった。しかし彼らがギャラリーに入ったときにはだれも通らなかったのである。だれにも気づかれずにそこへ行けるはずがなかった。

 厩舎のなかでは人々の目の前でロバが殺された。殺したのは触ると消える白衣の女だった。犬は首を絞められ、猫は真っぷたつに切られた。ベッドの上にはコウモリの死骸が転がっていた。つねに何者かが行ったり来たりしていた。階段をずるずると滑るものがいた。回廊にはがつがつ食べたり、吐いたり、うめいたりする者がいた。そこにはだれもいないはずなのに。1階に居酒屋を開いていたイタリア人でさえもがここには幽霊が出ると話していた。こうして多くのイタリア人が去っていった。

 家具店もこの建物の一角で数か月営業していた。しかし家具によごれがついたり、布張りが裂けたり、壊れたりしたため、売り物がすべて亡霊によってだめにされる前にと、店主はあわてて店をたたんで出て行った。

 月夜の明るい晩に黒人の少女が屋根から飛び降りるという光景は、依然として目撃された。古い杉の床を修繕するために雇われた職人が、建物の下から人骨を発掘するようになった。土地のオーナーはぞっとするような評判が立たないように、この家は昔のスペイン人入植者の墓地の上に建てられたのだと主張した。その墓地自体、インディアンの墓地の上に作られたものだったと言った。

 そのどれが正しいか以前に、これらの骨は1803年以前とするには新しすぎた。それに墓地に埋葬されたにしては、骨が出てくるのは地表近くで不自然だった。またあわてて埋葬したのか、遺骸のかたちはさまざまだった。土を少し盛っただけのものがあった。骨に衣類の切れ端が付着しているものもあった。頭蓋骨についている毛髪はあきらかに黒人のものだった。頭蓋骨に大きな穴があいているものもいくつかあった。鑑識人によれば、骨とともに、あるいは骨の中に木片や金属片が混じっていた。そのような状態で棺桶に入れられていたのである。溝に捨てられていたわけではないので、疫病にかかって死んだのではないことがわかった。こうしたことからひとつの結論が導き出された。彼らはラローリー家の奴隷であり、その死が知られないようにこのようなやりかたで埋葬したのである。

 さて、では1834年4月10日にあきらかになった驚くべき事実に話を戻そう。その日、ラローリー邸で出火した。ある人が言うには、絶望的になった年老いた黒人女奴隷が火をつけたということである。ともかく炎が広がり、興奮した消防士が屋根裏部屋の扉に向った。伝承によれば火をつけた年老いた黒人女奴隷がそこへ行くよう示唆したということである。火災自体はだんだん収まってきた。

 消防士は屋根裏部屋の扉を叩き破り、狭くて暗い階段を上って行った。そこで彼は吐き気を催すようなおそろしい光景を目にする。

 そこにいたのはマダム・ラローリーだった。その柔らかくて美しい容貌の下に悪魔の魂を持っていた。友人や家族に愛くるしくほほえんでいるが、突然怒りの塊に豹変した。この変化を見たことがあるのは奴隷だけだった。ひとたび豹変すると(それは珍しくなかった)サディスティックな性向は、あまり知られていない種類の拷問を黒人奴隷たちに加えるまで収まることはなかった。この家では彼女の言葉が法律であり、好きなように罰する権力を持っていたので、死よりもつらい痛めつけかたをした。この極悪非道なドラマのなかで彼女は命令を下し、人に手伝ってもらうこともあった。

 マダムの毒牙から逃げたり、詰所(奴隷は病院でなく詰所に逃げ込んだ)に逃れたりした奴隷たちは、マダムのしていることがいかにひどいか語った。

 屋根裏部屋の扉を打ち破った消防士が見たのは、素っ裸で、壁に鎖でつながれていた屈強な黒人奴隷たちだった。彼らの目玉はえぐり取られ、指の爪ははぎとられていた。ある者は関節部分が見えるまで皮をむかれ、ただれ、臀部には大きな穴が開いていた。その穴は肉を削り取られることによってできたものだった。耳もちぎられて垂れ下がっていた。唇は縫い合わされていた。舌は引き出され、あごのところで縫い合わされていた。両手は切断され、胴体に縫い付けられていた。足は関節部からはずされていた。

 女奴隷もたくさんいた。彼女らの口や耳は灰や鳥の贓物が詰められ、体はきつく縛られていた。ある者は全身に蜂蜜を塗られ、黒蟻の大軍を放たれた。おなかから腸が引き出され、腰の回りで結われた。頭蓋骨にはたくさん穴が開いていたが、それは棒をこすって頭の中に入れ、脳みそをかきまぜようとしたのである。あわれな者たちの多くはすでに死んでいた。意識を失っているだけの者もいた。まだ息があるのはごくわずかにすぎなかった。その塗炭の苦しみはどんな筆でも描写できないだろう。

 当時の新聞は屋根裏部屋の身の毛のよだつ発見をセンセーショナルに伝えている。ラローリーの奴隷全員の目に移った恐怖の体験を生々しく描いた。

 1834年4月11日の「ビー」紙を引用しよう。

7人かそこらの奴隷がおぞましくも体を切断されていた。首はかろうじて引っかかっていた。四肢はあきらかに引き伸ばされ、反対側に引き裂かれていた。これらの奴隷は……ラローリーという女に何か月も閉じ込められていたのである。彼らは神のご加護によって救出されたが、苦悩を存続させたにすぎなかった。味わえるかぎりの残虐さを味わいつづけたのである。彼らはラローリーをローマ皇帝のディオクレティヌスやネロ、カリギュラにたとえた。判決は裁判官のジャン・フランソワ・カノンジ、ムッシュー・フェルナンデス、メシール・ゴッカ、フォーシュによって下されるだろう。

 それから話の焦点は若い黒人のメイド、リアに移る。ほかの女中の話によると、彼女はマダムの髪を整えているとき、まちがって髪を引っ張ってしまった。女主人は怒り、ずっしりとした鞭をつかみ、それで無慈悲にリアを叩き始めた。痛みと恐怖に耐えきれなくなったリアは部屋を飛び出し、走って階段を駆け上がった。マダムも鞭を振りまわしながらあとを追った。走って、走って、屋根裏部屋の扉を抜けて拷問を受けている奴隷たちの間を抜け、さらに屋根の上に出て、欄干を越えて身を宙に翻したのだった。マダムは二重の意味で彼女を鞭打たねばならなかった。リアはラローリーの刑罰の部屋を見てしまったのである。こんなところにまで女主人が追いかけてくるとは思わなかっただろう。しかしもはや屋根の上の欄干を飛び越えるしかなかった。

 人によっては、奴隷の少女は階段の吹き抜けに落ちて、ホールの大理石の床にたたきつけられたのだという。螺旋階段の手すりで遊んでいるうちに間違って落ちたのだと考えるのだ。しかしこれはあまりありそうにないことだ。

 まだ鎮火し終わっていない頃、ラローリー夫妻は馬車を走らせて暴徒から逃げ出した。行先はマンダヴィル。そこからフランスへ向けて出港しようとしていた。

 マダムはフランスの森で狩猟をしているとき、イノシシに襲われて命を落としたという。

ベッドの上で静かに息を引き取ったという伝承もある。何年かたってから、彼女はニューオーリンズに戻り、1850年代、バイウー路に家を建てたという説もある。それはフォーブルグ・トレームという豪邸で、彼女自身はそれを「ウィドウ・ブランク」と呼んだ。N・L・ラローリー夫人が1849年4月20日、オレステスという黒人奴隷を解放したという記録が市当局第1号の資料として残っているという。それにはフォーブルグ・トレームのことも記されていた。

 旧ラローリー邸は1921年に改修され、それ以来すこしずつ改築されてきた。しかしながら通行人に対し、抑えることができないかのようにレンガが拷問の話を語りかけてくるのである。古い屋根は大霊廟のようにそびえるが、すさまじい過去、あるいは口に出せない悲劇を覆い隠す翼のようにも見えるのだった。人々は正面の扉を気にせず出入りしているけれど、まがまがしい、朽ちることのない悲劇は復讐の神であるかのように残り続けるだろう。