廃墟論     宮本神酒男 

〜インディン寺院(ミャンマー・インレー湖)にて〜  

 廃墟になったときのことを考えて、ひとは設計しなければならない。

 正確な言葉は忘れたが、そういった意味のことを言ったのは、建築家のタマゴでもあった夭折の詩人立原道造(19141939)だった。

 詩人のロマンティシズムにすぎないという批判の声も聞こえてききそうだが、時間の経過を考慮し、野晒しになった姿を思い浮かべながら建築設計をするというのは、案外と受け入れられる考え方である。

十年、二十年なんてあっという間に過ぎ去るものだ。数十年、数百年という時間の単位も、宇宙の大きな時計仕掛けのなかにあってはほんの数刻にすぎないだろう。この世界に存在したものはほとんど姿を消し、わずかな確率の僥倖によってかろうじて形跡が残ることがある。それが廃墟である。

 私が廃墟に強く惹かれるのは、時間の破壊力をそれに感じるからかもしれない。鍾乳洞の何万年もかかって伸びた石筍などと違って、廃墟にはかならず人の手が加わり、また人の生活や信仰と関わった時期があったはずだ。このかつての建造物は、理由が何であるにせよ、人に打ち捨てられ、忘れ去られたのである。それには何万人もの人が接していたかもしれない。しかしせいぜい当時の国王の名が記されるくらいのもので、何万人もの人の存在はだれにも記憶されず、通り過ぎた風のように何の痕跡も残さないのだ。

 岸から大河を眺めるように廃墟を眺めるのが私は好きだ。

 インレー湖の湖畔にあるインディン・パヤー(寺院)は、そのように眺めたいと思わせる廃墟のリストに加えられた。ここは廃墟になったパゴダと真新しいパゴダをあわせ持つ稀有な寺院なのである。草むらに埋まりそうな古びたパゴダは、建てられたばかりの美しい金銀のパゴダの未来の姿といえた。

 アショーカ王(紀元前3世紀頃)の時にパゴダが建てられたという伝説があるにはあるが、実際の建造は17世紀以降と思われる。驚くべきことに、日光東照宮と同時代の建造物なのである。片や世界遺産にも指定された文化遺産、片や千年以上もたったかのような草深い廃墟。この違いは何なのだろうか。

 しかも近世史においてこのパヤーは重要な役割をはたしてきた。1886年にビルマ上部が大英帝国に併合されたとき、ビルマ軍はこのあたりに巨大な砦を築いていた。当時インディン・パヤーはニャウンシュエのソーブワ(首領)の管轄下にあった。ソーブワのサオ・オンは、アショーカ王からバガン朝のナルパティシードゥ王、ミンドン王にいたる仏教の守護者の系譜に名を連ねていたのだ。

 ビルマ上部が併合されたあとも、インディンにはニャウンシュエのシャン族の王家が管轄する指令本部が置かれていた。ビルマの最初の大統領もその子孫のなかから生まれることになるのである。

 このような歴史を見ると、いったいいつインディン・パヤーは廃墟になったのだろうかと、疑問に思わざるをえない。おそらく廃墟になるのに、さほどの時間は必要とされないのだ。ひとが監視とケアを緩めた瞬間、建造物はまたたくまに朽ち果てるのだ。意図的に修復作業をおこなわない限り、廃墟へ向かう勢いを止めることはできない。ミャンマーのこの数十年の軍事政権のあいだに、インディン・パヤーはひとが突然老け込むように廃墟化したのかもしれない。