シャンバラの教え 

サキョン・ミパム・リンポチェ(インタビュー) 宮本神酒男訳 

 

――西欧人にとってシャンバラ仏教は、どういう意味をもっているのでしょうか?

 シャンバラ仏教はいま現在起こっていることに関し、物の見方を示し、インスピレーションを与えてくれるのです。たとえシャンバラがアジアのどこかにある古代王国に関する特殊な神話に根差しているとしても、そのメッセージは更新されるのです。

 リクデン王たちは未来のある日、やってきて、平和を確立するといわれています。この教えはいま、ここにおいて、攻撃性を克服するということと関連があります。

シャンバラと仏教の至高の教え、基本的な善 
 シャンバラは仏教の至高の教えであるヴァジュラヤーナと結びついています。それは独立した存在ではありません。ヴァジュラヤーナの見方では、すべての生きるものは不滅の慈しみであり、智慧なのです。それは内在するものです。原則的にすべての生きるものは善なるものです。

 チベットにはドゥマネ・サンポという言葉があります。ドゥマネは原初の性質、サンポは善い、ネは地という意味です。つまりあらゆるものの土台は、最小のものにいたるまで、ゆがめられたり、変化したりしなければ、よくて純粋であるということなのです。

 人間社会は変化がなければ「善い」のです。それは比較するときの、いい、悪い、ではありません。その善悪を越えているのです。ヴァジュラヤーナで言うように、サムサーラとニルヴァーナを超越しているのです。輪廻の存在を、攻撃性を超越しているのです。根本的な善性は心を超越しているのです。概念をも超越しているのです。

世俗の道 
 人はよくこうした価値観をスピリチュアルなものといいます。しかし人はまた、シャンバラは世俗的な伝統だともいいます。世俗が必要だとしている伝統なのです。なぜなら社会にとって最善だと思われていることをすることを基本としているからです。
 日々のことであれ、世界情勢であれ、社会にとって最善のこととは、完璧な、個人的な充足であり、個人の幸福なのです。これは本当にスピリチュアルな追求です。基本的な善性という点から世界を見るというのは、神聖なる観点です。世界は「善」なのです。

 仏教では、しばしばあなたは世間から離れるべきだ、物や悦楽に耽ってはいけない、などといいます。仏教の至高の教えやシャンバラによれば、世界は原則的に動かし得るものであり、「善い」ものなのです。それゆえ神聖なものであり、有用なものであり、理解できるものなのです。
 仏教の至高のレベルにおいて、ニンマ派でいうなら、ゾクチェンにおいて、カギュ派でいうなら、マハームドラーにおいて、分別(ふんべつ)はないのです。基本的な善は宗教を、精神性を、因襲的な見方を超越しているのです。

 シャンバラの教えは、この世俗世界でどう生きていくか、風馬をどう上げていくか、力を得るにはどうしたらいいか、家族とどうやっていったらいいかといった具体的なことを扱います。もしあなたが自分の体験をいわば必要悪、いま取り組まなければならないものとみなすなら、シャンバラの道からははずれていることになります。
 同時に、仏教の見地からみると、至高の原理は精神的に完全に達成しているのです。それはいま現在の、世俗的な達成も含んでいます。

世界の王 
 世俗的な言葉でいえば、ブッダは世界の王として知られています。精神主義の言葉でいえば彼はブッダであり、目覚めた者なのです。 インドラがブッダに偉大なる法輪を与えるときこう言いました。この輪を回しなさい、と。この輪は王の力を表わしています。あなたは精神世界の王であるだけでなく、世界全体の王なのだ、ということです。これはまさにシャンバラ仏教の概念です。
 われわれはときおり王とブッダのことについて話します。そして特別な時にはそれが意味深いのです。

 シャンバラの必要性を示すヴィジョンと洞察を得たとき、トゥルンパ・リンポチェはまだ若者でした。彼の前任者、つまり先代トゥルンパもおなじヴィジョンを見ました。多くの人が「いま、このとき」を見るとき、物質的に満足していないか、あるいは人生にはもうすこし何かが加わるはずだ、と思います。
 われわれは物事の本質を見なければなりません。もし世界がどのように動いているかを理解できるなら、この特別な時に、われわれはともにやっていける人々がいる社会をつくることができるのです。というのも彼らはいかにともにやっていけるかという観点をもっているからです。

――ミパムの転生として、ミパムの教えを学んできた者として、この偉大なる成就者がなぜシャンバラについてこんなにもたくさん書いたのか、説明していただきますか?

 19世紀の偉大な師、ミパム(18461912)はシャンバラについてじつにたくさんの文章を書き残しました。彼はシャンバラの伝統を活性化した主要人物のひとりです。思うに、これは世にあふれていた攻撃的な風潮にたいするごく自然な反応だったのです。人々の心はしだいに疲れ、ストレスを感じ、憐みの心も消えつつあったのです。

 シャンバラではすべてが、つまり天も地も人間も、バランスがとれています。ミパムはまたリンのケサル王物語も活性化しました。父(チョギャム・トゥルンパ)はミパム・リンポチェの著作の偉大なる読者でした。だからこそその教えに鼓舞されたのです。
 ダライラマ法王やほかの偉大なるラマたちもミパムのカーラチャクラに関する教えを学びました。それはシャンバラと密接な関係にありました。

――カーラチャクラとシャンバラの関係について、コメントはございますでしょうか? 

 カーラチャクラは心の本質を認識するための、また基本的な善性を理解するためのタントラ、すなわち秘密乗です。それはシャンバラと密接な関係があります。それは実践修行、見方、瞑想を含む完璧な世界を示しています。ブッダはシャンバラ国王に、王自身が目覚めた者であることを認識させるため、その手引書としてカーラチャクラ・タントラを献上したとされます。

 そのとき以来、カーラチャクラ・タントラはシャンバラと深い関係があるのです。そしてその教えは広がっていったのです。「いま、このとき」それはとてもよい兆しのあるタントラです。それはシャンバラで実践される重要なタントラのひとつです。シャンバラのヴィジョンもカーラチャクラも、攻撃性に満ちた時代のなかで、平和をもたらすものなのです。


 ある教えはある特定の時代に述べられました。シャンバラの教えは特別な時に、攻撃や扇動を抑えるためにつくられたのです。攻撃は恐怖を生みます。恐怖は臆病を生みます。臆病な者は自分の考えにさえ恐怖をいだくのです。それゆえ彼らは思考に支配されてしまうでしょう。
 シャンバラでは、人々は自分たちのなかに、あるいは世界に、神聖なる要素を見出します。彼らは瞑想の力によって、思考といかにやっていくかを学ぶのです。この理解によって、彼らは恐怖に打ち勝ちます。

 シャンバラの教えのなかで、「確信」をもってわれわれ自身の攻撃性、欲望、嫉妬、高慢さなどに打ち勝って来ました。それらはわれわれの他者を愛する、思いやる能力を阻害しているのです。だからこそシャンバラは平和を打ち建てることと関係しているのです。シャンバラの教えはそれをどうやってやりとげるか示してくれるでしょう。

――チョギャム・トゥルンパはまた、ヴァジュラキーラヤとシャンバラの教えとの関係を強調していました。これに関してコメントはございますか? 

 シャンバラでは、総体的に覚醒した、目覚めた者の超越した化身であるリクデン王の原理は、ヴァジュラキーラヤ、すなわち三毒に打ち勝つためプルバ(三叉刀)を振り回す憤怒神と密接な関係があります。シャンバラはまた、たくさんの王や将軍を擁しています。

 リンのケサル王もまた憤怒形の化身です。憤怒というのは、行動が前向きであるということであり、待っている状態ではありません。待つには遅すぎるのです。われわれはいま、何かをしなければなりません。なだめたあと、改善したあと、惹きつけたあと、われわれは破壊する必要があります。

 神々はときには黒雲のなかに、あるいは剣をもった姿で描かれます。それは攻撃的であるように見えます。怒りをもっているように見えることは、攻撃的であるとはかぎりません。それは緊急であることを表わします。

 怒りはむしろ慈しみから来ています。もしいま障害に打ち勝たなければ、世界はばらばらになってしまうでしょう。ヴァジュラキーラヤと攻撃性を切るという概念は、シャンバラではとても名誉ある原理と目されるアシェ、すなわち攻撃性に打ち勝つ原初の確信と関係があります。

 人々がたいへんな恐怖をいだき、心あせって、相当にネガティブな感情にたいしてのみ反応する、そんな時代をわれわれは生きています。シャンバラでは、われわれは人々を高みに導きます。そうして彼らは自分たち自身のなかに知恵や慈愛があることを知り、他者を尊重しながら、ポジティブな動機にもとづいて行動するようになります。

――あなたが以前おっしゃったように、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェはケサルと縁があります。彼はシャンバラ関係の本をケサルに捧げていました。あなたご自身もケサルのサーダナ(行法)とケサルとの縁について書かれてきました。

 ケサルは家族にとって先祖にあたります。ムクポ・ドン氏はリンのケサルの家族、すなわちチベットにおいてもっとも偉大な覚醒した戦士ブッダの家族の系譜なのです。リンのケサル王の歌はたくさん流布しています。ケサル王はときには民間英雄として、ときには神秘的な人物として描かれます。

 またパドマサンバヴァのように輝かしい師(グル)でもあります。実際、ケサルはパドマサンバヴァの化身と目されているのです。
 また、ときには攻撃性、すなわち人々の心の中の貧しさに打ち勝つ者としてのダラ(戦神)、あるいはウェルマとみなされます。われわれはケサルのブッダのような慈愛あふれる勇者精神を呼び起こし、確信をもち、崇高なスピリットを得るのです。


 ケサルはさまざまな障害を克服しました。トゥルンパ・リンポチェもまた人生において大きな障害を経験しました。彼はケサルを先祖としてというよりブッダとして呼びました。彼はケサルの力に勇気づけられました。彼自身、困難に直面していました。ケサルはシャンバラの勇者のいい見本です。ケサルはヴァジュラヤーナのブッダであり、グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)であり、同時にシャンバラの王でした。衆生を助けるためにブッダはさまざまなことを教えました。

 シャンバラもまたここで、われわれの特別な時にあたり、さまざまなことを教えてくれます。本質的にそれは仏教の教えと異なりません。しかし同時に個人に応じて微妙に表現の仕方が変化しているともいえるでしょう。目覚めとは太陽のようなものです。その源はひとつですが、異なる多くの場所を照らすのです。

――勇者のイメージとボーディサットヴァ(菩薩)のイメージのつながりについて説明していただけますか? 

 シャンティデーヴァはボーディサットヴァ(菩薩)に関する教えのなかで、勇者精神について書いています。ですから仏教は勇者精神のイメージを借りているともいえるでしょう。勇者精神とは勇気のことです。他人の利益のために自分の人生、自分のエゴ(自我)、自分の執着を差し出す勇気のことです。
 シャンバラでは、互いに勇者精神について教えます。暗闇の時代で、慈愛と威厳を実践するのは、とてつもなく勇気がいることです。

 また大きく考えることも必要とされます。それぞれの活動がどれだけ大きな絵を描いているかということに関していえば、並の人と比較すればボーディサットヴァははるかに大きいことを考えておられるのです。戦闘に向う勇者は大きいことを考えます。もはや死を恐れず、勇気をもって行動します。恐れを知らない人は無謀でもなければ、自滅的でもありません。彼らは心を拡張してきたので、ほかのだれかのようにもう従属させられることはありません。彼らはその存在を通してとてつもない確信を表現します。そして太陽が沈む世界の人々に恐怖をもたらします。彼らはいまだに自己陶酔にひたっているのです。

 ボーディチャリヤーヴァターラ、すなわちボーディサットヴァの道では、無数の生涯のあいだ、疲れを知らず働くことを誓っています。それが勇者精神というものです。


「私は勇気を持って、疲れをしらず、他者の利益のために働こう」


 そういうふうに大きなヴィジョンをもっているのがシャンバラの勇者精神なのです。

――大いなる偉大な東の太陽のヴィジョンと日没のヴィジョンについて説明していただけますか。

 日没の見地は、われわれの即時の満足を見ることから出てきました。われわれは自分の情熱、攻撃、恐怖にとらえられている世界に生きています。われわれの無限の可能性を見ることがなければ、われわれの生命力は衰退する一方なのです。われわれのパワーは落ちるばかりです。心と身体はシンクロしません。なぜならわれわれ自身がもつ知恵と連結していないからです。

 偉大なる東の太陽の概念とは、われわれは内なる知恵と連結しているということです。基本的な善というものを知っています。それは精神や心をとても広くするのです。「東」が意味するのは、われわれの知恵は永遠であり、いつも起き上がるということです。それは継続的なのです。永遠に目覚め、光輝くのです。「太陽」は、まばゆい光であり、無知がないことを表わします。偉大なる東の太陽は基本的な性質であり、われわれすべてが持っているものです。

 日没は、永遠のサムサーラを意味します。それはまた人々の人生がほかのどこにも行こうとしないことを意味します。太陽が没しようとしているとき、あなたが何をしようとしたところでどうしようもないでしょう。そのうち真っ暗になってしまいます。だんだん何も見えなくなってしまいます。もうどこへも行くことはないでしょう。しかしシャンバラでは、毎日、状況ごとに、われわれは「目覚め」へ向かって旅をしていくのです。


 ときおり人は「仏教」という言葉に追い詰められているように感じます。なぜならそれはさまざまな宗教的な意味あいを含んでいるからです。あなたはだれかにたずねるかもしれません。

「慈愛深い、勇気がある、智慧のある人になりたいですか」
 いいえ、と答える人はいないでしょう。シャンバラとはわれわれ自身の知恵、慈しみ、勇気を発見する方法なのです。

――トゥルンパ・リンポチェのダルマ(仏法)の教え方のどこがユニークなのですか。

 世界でいま起きていることに関して述べるとき、トゥルンパ・リンポチェのシャンバラ・ティーチングの表現法はとても新鮮なものです。彼がこの教えを発明したわけでないことを理解するのは重要なことです。彼はこのことにたいし、強い信念を持っていました。

「これらは私が学んだことだ。そしてこれらは私が得たヴィジョンである。新しいタイプの仏教を創出したわけではない」


 シャンバラとは、勇者のモチベーションをもって、たゆむことなくすべての有情のために目覚めた社会を創りだすという意味なのです。シャンバラのひとりの人間の見方とは、覚醒した社会を確立するということなのです。
 シャンバラの社会、リクデン王の社会は、偉大なる東の太陽のヴィジョン、あるいは知恵を表わしているのです。われわれは社会の基本が目覚めた活動であるような、そんな社会を確立したいのです。
 目覚めた活動とは何でしょうか? 究極の目覚めた活動とは、他者の利益のために善行に励むことなのです。


 トゥルンパ・リンポチェや、やはりヴィジョンを得た先代のミパム・リンポチェのような師(グル)は、偉大なる智慧の持ち主であり、たんなる著作家ではありません。これらの教えは、知恵というものとどう接することができるかを示しながら、師から弟子へと受け継がれてきました。リンポチェ自身は西欧の人にもわかりやすいように、これらの教えの原理を統合してきました。しかし理解の本質は変わらないものなのです。

 リンポチェはシャンバラについていくつかの著作を書きました。しかし彼自身が述べたように、シャンバラについてはもっと書かれるでしょう。もっとたくさんの論考が現れるでしょう。それらは未来の勇者たちによって表わされるのです。

 リンポチェの教えの体系のなかでもっとも重要な部分は、かならずしもユニークではありません。彼はそこでは、目覚めた社会を確立することにいそしんでいるのです。彼は喜んでそうしてきました。教えを広めること以上にそれは重要だったのです。リンポチェはつぎのようなことを私に語りました。

「なぜ私がしていることを私がしているかといえば、それが必要とされているからだ。人は助けを必要としている。人は健全でありたいと思っている。だからいま私はそれをしているのだ」


 いかに確信を高めるかを教える伝統があります。どうやって智慧を理解するかを教える伝統があります。われわれをそれをあなたがたに示すこともできます。しかしいま必要とされているのは、目覚めた社会を確立しようとしていることなのです。もし人が自分は偉大なる哲学者だと考えたら、そしてほかのだれも興味深いことが言えなくなったら、それはいいことではありません。

 リンポチェ自身はこれらの教えをチベットから持ち出すことができました。なぜならチベットにいるときに彼はヴィジョンを得たからです。思うにチベットが破壊されるのを目にしたことによって、彼は強くなり、インスピレーションも得ました。人生の終わりに向って疾走するとき、とくにわれわれが(父と子として)いっしょにいるときにリンポチェはシャンバラの教えを広めていました。
 彼はシャンバラが重要であることに揺るぎない自信を持っていました。彼は純粋な状況にあるときに現れる、純粋なボーディサットヴァでした。