魂を送るセーヤーモ
解説 宮本神酒男

 セーヤーモは、ラン族(Rang)が伝統にのっとった葬送儀礼を行なう際、セーヤクチャという専門の祭司が亡魂を導くために詠む一種の祭文である。

 しかしまずラン族とはだれなのか、説明しなければならない。そもそもランは自称であり、他者がその名で彼らを呼ぶことはほとんどない。ネパール・インド国境を流れるマハーカーリー川の両側に分布するラン族は、ネパール側ではビャンス族(Byansi)、インド側ではボーティア族(Bhotia)などと呼ばれてきた。Rangという自称はチベット語の自己を意味するrangと同源ではないかと思われるが、シャンシュン語では山を意味するので、単純に「山の人」といった意味合いなのかもしれない。

 名和克郎氏(2001)によれば、ランの人びとはビャンス(ネパール)、チャウダンス、ダルマ地方(以上インド)に主に住み、その人口はネパール側に1000人強、インド側に1000人程度と推測されるという。その中心地は、町の中央部に国境を画するマハーカーリー川が流れるダルチュラである。ダルチュラのインド側には大きなバザールがあり、つねに活気を呈している。冬の間いっそうにぎやかなのは、多くの人がダルチュラやその周辺に移動し、居住するからである。

 ラン族の地域は、インド平原とヒマラヤの接点に位置するタナクプールとチベットの入り口、プラン(タクラコット)とを結ぶ交易ルートと重なり、またカイラス山・マナサロワル湖への巡礼路でもあった。タナクプールやプランには巨大な交易市が立ち、北からは羊や塩が、南からは小麦などがもたらされ、交換された。

 われわれにとってラン族が興味深いのは、彼らが古代シャンシュン国となんらかの関係があるかもしれないと推測するからだ。プランはシャンシュン国の四大城砦のひとつであったといわれ、そこを拠点としていたラン族とシャンシュン国とが無縁であったとは考えがたい。ボン教徒には、シャンシュン国は18の国王によって統治されていたという伝承があり、もしそれが18の豪族による連合国であったという意味であるなら、ラン族の地域がそのうちのひとつであった可能性もあるのだ。

 残念ながら私がこの地域でさまざまな人にボン教やシャンシュンについて聞いたかぎりでは、ほぼすべての人がそれらの知識を持ち合わせていなかった。ボン教やシャンシュンどころか、チベット仏教に関しても興味を示す人は少なく、脱・チベット、ヒンドゥー教志向はますます強くなっていると感じた。

 唯一、セーヤーモの最終章の送魂路の部分で、亡魂の送られる先がチュンルン(キュンルン)・グイ・パトであることが、ボン教やシャンシュンとの関係をうかがわせる。キュンルンはシャンシュン国の都とみなされるからだ。私が拙論『送魂路』のなかで示したように、亡魂の送られる先の多くは、その民族の祖先が暮らした「よき日々の都」なのである。そうすると、ラン族の祖先がかつてキュンルンの住人であった可能性はいっそう高まってくる。実在のキュンルン白銀城は、クマオン(ラン族が住むインド側の地域名)からするとヒマラヤ山脈のすぐ向こう側であり、直線にすれば目と鼻の先である。

 セーヤーモは長い間その存在が外部に知られることはなく、いわば門外不出の書であった。とりわけ葬送儀礼のあいだセーヤーモを詠む当事者であるセーヤクチャはその秘密を守る神官であり、内容を刊行するなどということは、言語道断の行為だった。

 しかし故ジャガット・シン氏があえて裏切り者の汚名を恐れず、公開に踏み切る決心をしたのは、以下の「序」に記されるように、ラン族固有の文化が永遠に失われるのではないかと危惧したからである。

 2003年夏、私はジャガット・シン氏に会うべくインド側のダルチュラを訪ねた。友人のネパール人学者ツェワン・ラマを安ホテルで待つこと2時間、ネパール側ダルチュラから連れてきたのはジャガット・シン氏ではなく、眼光鋭い二十代の青年だった。氏は9ヶ月前に病没し、その子息がかわりに、すりきれてボロボロになった大学ノートを脇に抱えてやってきたのだ。そのノートには手書きのヒンディーとラン語でぎっしり、セーヤーモが書かれていた。

 セーヤーモの第一章は正しい葬送儀礼の仕方が述べられ、第二章から六章までは神話・伝説、そして最後の第七章が送魂路である。亡魂はセーヤクチャによって北方へ送られ、マナサロワル湖からさらにキュンルン・グイ・パトへと送られる。この祖先の住む楽園に入る前、亡魂はブルンタン(おそらく山)を越え、ヴァイタラニー川を渡る。ジョン・ベレッツァ氏によればブルンタンは、古代ボン教の葬送儀礼に出てくる地名ブルムタンと同一ではないかという。そうであれば、ラン族の送魂路はいっそうボン教やシャンシュン国と関係深いことになり、彼らがシャンシュン国の遺民である可能性も高まってくる。