スーフィーの隠された庭園   宮本神酒男編訳 

いかにして学ぶかを学ぶ イドリース・シャー 

 

(1)スーフィーの教え方 

問「スーフィーはステレオタイプ(月並みな考え方)でもって教えない、とあなたはつねづねおっしゃいます。ではスーフィーはどうやって教えるのですか?」

答「スーフィー教師は彼のメッセージと現実とを相互に通じさせるという役割を持っています。その趣旨に近づけるために、彼自身の影響を増やすべきではありません。むしろ減らすべきなのです。

 生徒が決まりきったやりかたを捨てることができるかどうか、そして心を開いて教えを受けることができるかどうかは、その生徒の適性を見る試金石なのです。

 スーフィー教師の使命は学ぶことのできる人々を導くことです。だれかを喜ばせたり、不快にさせたりするために存在しているのではありません。体裁をよくするために、だれかの思い込みに合わせるのは、彼が本来するべきこととはいえません。イブン・アラビーが述べたように、それが社会の役に立っているわけでもないのです。

 彼は生徒の将来のために、そしてスーフィーの共同体を持続させるために力を尽くします。

 彼は決まった言い方を押し付けるのでなければ、機械的な手順を踏むよう主張するのでもありません。反対に、彼の知識は示された適当な時間、場所で、適した人々のために対処することが可能なのです。

 大半の人は、どんな意見や主張を持っていようとも、学ぼうとしないものです。見かけに反し、彼らは学ぶことの代わりになるものを行っているのです。それを彼らは「学ぶ」と呼んでいるのです。

 ときには訓練されることによって「学ぶ」ようになります。つまり本や人との接触、あるいは模倣することによって。こうしたことから精神性や超越性、意義深いものが得られるような気がしますが、実際、中身は何もないのです。

 もしあなたが本当に学びたいなら、だれかがあなたに教えようとしたとしても驚かないでください。そして軽々しくその方法を拒絶しないでください。学ぶことの基本を知らない人は、その方法が彼らに明かされたとき、当然のことながら驚いてしまうのです。

 こうやって明かされたものをスーフィーたちは「心の知識」と呼んでいます。

 ズンヌンはつぎのように言いました。

 

目に見えるものが知識である 

心が知るものが確信である 

 

 まちがった確信は、それが他者に吹き込まれたものであろうとなかろうと、妄想にすぎません。

 今日では大半の人が機械的な方法によって、そしてある種の経験だけを取り扱うことができる一定の範囲内で教育を受けます。この教育はすばらしいものではあるのですが、その限定的な目的にしか役に立ちません。このような訓練の産物によって、スーフィーの学びのようなものを不毛な、限定的な原理によって値踏みしようというのです。それから得られるものがひどいものであっても不思議ではありません。

 スーフィー詩人ルーミーはいっしょに坐っているスーフィーと文法学者と話をしていました。文法学者が言いました。

「ひとつの言葉は、3つの文法によって表わされる」

 それを聞いたスーフィーは怒りを抑えられず、叫びました。

「わしは20年以上も、言葉はその言葉以上のものを持っていると信じてきた。あんたはわしの希望を奪ってしまった!」

 このようにスーフィーは、文法学者の学問はあまりに狭すぎる、文法においては真実であるという前口上をつけずには成り立たない言い方だ、と指摘したのです。

 教えることと学ぶことには、また別の要素があります。それをつぎの物語のなかに描きましょう。

 

図書館 

 3人のデルウィーシュが図書館で会いました。

 最初の男が言いました。「私はスーフィーの智慧に関するすべての本を読むつもりだ。私はその意味を考え、彼らが言おうとしていることを理解するだろう」

 2番目の男が言いました。「私はこの手に持つ本すべてを写すつもりです。そうすれば中身が頭にしみつくでしょう。それからそれらの表面的な意味、奥に隠れた意味について考えるつもりです」

 3番目の男が言いました。「私はこれらの本をすべて買い、読むつもりです。それからあなたがた二人に、これらの本から質問をするでしょう。あなたがたの言葉やふるまいから、あなたがたが理解していないことがわかるでしょう」

「そして私は」と通りすがりの4番目のデルウィーシュが言いました。「本や本から生まれたものにおいて、見るべきものを見ることがいかにむなしいかを見るために、3番目のデルウィーシュから学ぶつもりです」

 スーフィーにとって、通常の理解と言う意味で、直接的な教えによって教えるということはできないものかもしれません。人々はこうした教えを望んではいるのですが。

 シャイフ(長老)のファリドゥッディン・アッタルは巡礼からの帰り道に、講義をするよう請われたことがありました。

 

講義 

 スーフィーは話をしたのですが、人々はいっこうに心を動かされませんでした。

 そこでシャイフはモスク(彼らはモスクにいました)のロウソクに向って話し始めました。すると(動かされたロウソクの炎によって)人々に火がつき、燃えだされてしまったのです。スーフィーはこうしたたとえ話をしたあと、立ち去りました。